アフリカのキリスト教:川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』

 川又一英の仕事は、わが国によく知られているとはいえない東方キリスト教世界に関わるものであった。スラブ文献学や歴史学の専門家による研究がないわけではない。しかし、川又は、研究室での史料操作よりは、現地に足を運び、自らの目と耳でその世界を理解しようとする姿勢を貫いた。驚きと感動を生き生きと伝える川又の文章は、われわれを魅了した。川又は大学でロシア文学を専攻したが、二十代の終わりにインドを起点とする旅に出たときに、半ば偶然からアトス山を訪れたことが、その後深く東方キリスト教世界に入っていくきっかけとなったという。幸福なことに、川又は知識からではなく体験から「聖なる世界」へと入っていったのである。『ニコライの塔』でわが国の女性イコン画家の生涯を描いた川又は、その後『聖山アトス』や『イヴァン雷帝』など、余人の追随し難い作品を上梓している。旅を重ねるごとに思索は深まりを増し、自身もギリシア正教に入信することとなるが、これは作家としての成熟をさらに促し、著作活動は旺盛となった。近年もビザンティン方面の力作を次々に世に問うていたので、突然の訃報にわれわれは愕然としたのである。

『エチオピアのキリスト教 思索の旅』(山川出版社、二〇〇五年)は、没後に書斎から発見された遺稿である。それにしても、川又一英の最後の仕事が、なぜエチオピアのキリスト教だったのであろうか。

 近代日本とキリスト教とのかかわりをふりかってみよう。明治大正と、キリスト教といえばプロテスタントをさしていたが、昭和に入り、岩下壮一、吉満義彦らの登場とともにカトリックが思想界に出現する。そして昭和の後半になると、新旧約聖書外典や使徒教父文書、古代教父などが原典から続々と翻訳され始める。それと並行するように、東方キリスト教の世界が美術史などの分野から人々の注目を集めるようになっていく。やがて平成に入ると、第一次資料の翻訳と研究はグノーシス文書にまで及ぶようになってきた。こうした知的環境の変化は、キリスト教に関するわれわれの認識も変えてきた。プロテスタンティズムを「近代」と同一視した結果、暗黒の時代とされた「中世」は、カトリシズムを通して光輝に満ちた世界へと認識が改められたし、ギリシア正教を見出すことによって、宗教改革を体験しないもうひとつのキリスト教世界へとわれわれの視野は拡大した。さらにグノーシス思想を知ることによって、初期教会が教義確立のために苦悩した「古代」にまで、ようやくわれわれの眼差しは届くようになったのである。

 長いあいだ、初代教会とグノーシスとの思想闘争の実態について、われわれは無知であったし、三位一体論とキリスト論という根本教義確立のために教会が費やした論議さえ、不毛で煩瑣な議論と見なされることが少なくなかった。それらは遠い過去のできごとにすぎないと思われていたのである。しかし、たとえば、キリストは、神が人間になったのか、それとも人間が神となったのか。このような問題は、歴史的主題であると同時に、今日でもキリスト教に真摯に向き合う際に誰もが直面する実存的主題であろう。この問題は、本書でも言及されているカルケドン公会議の争点であった。

 キリストの神性と人性のうち、人性を否定したとして、すでにコンスタンティノポリス公会議において異端とされたアポリナリオスがいた。だが、エフェソス公会議においては、マリアを「テオトコス(神の母)」ではなく「クリストトコス(キリストの母)」と呼ぶべきと主張したネストリウスが、今度は人性を重視したかどで異端と断罪されていたのである。カルケドン公会議では、キリストにおける両性の関係を「混ざらず、変わらず、分かれず、離れない」と規定した。これにより、はげしく動揺していたキリスト論は一応の完成を見たわけだが、キリストの両性のうち、人性については、これを永遠に存続するものではないと考え、異端宣告を不服とするコプト教会、シリア教会は離脱し、単性論派教会として独自の道を歩むこととなる。十一世紀の大シスマ(東西教会分裂)以前に、このような深刻なシスマがあったのである。そしてエチオピア教会もまた、歴代の大主教をアレクサンドリア総主教が任命するコプト人とするなど、コプト教会の従属的立場にあったことから、カルケドン公会議以後は単性論派教会として存続していったのである。

 川又は特に記していないが、エチオピアのレィトルギアでは、驚くべきことに、三世紀にローマのヒッポリュトスが著した最古のミサ式文「使徒のアナフォラ(奉献文)」が現在でも用いられ、使徒時代のミサ典礼を今日に伝えているという。エチオピア典礼は、アレクサンドリア総主教区から発生したエジプト典礼に由来している。そもそもギリシア語で行われたこの典礼はビザンティン典礼へと大きく繋がっていくのだが、コプト語を用いるコプト典礼、ゲエズ語を用いるエチオピア典礼へと枝分かれしていったのである。エチオピアでは、コプト教会と同様、終始キリストに祈りを向ける「グレゴリオスのアナフォラ」が用いられるが、キリストと父神との区別が曖昧なこのフォアグラに単性論の影響を認める学者もいるのである。またエチオピアでは「乙女マリアのフォアグラ」も用いられるが、これもキリストの神性重視で高まったテオトコスへの崇敬と見ることができるという。典礼は教義と切り離すことができないのである。

 一昔前までならば、以上のような学術的記述が一般読書人の知的関心をひくことはできなかったであろう。東方キリスト教が「もうひとつのキリスト教」であったとするならば、単性論派教会であり、古代ユダヤ教の影響も色濃いエチオピア教会は「さらにもうひとつのキリスト教」といってよい。だがそれをエキゾチズムを超えた問題意識でとらえることが、今日の日本人ならば可能であると川又は考えたのではないだろうか。

 冒頭にも述べたが、川又は、宗教を外側から客観的に観察することと引き替えに生き生きした力を喪失する実証主義的方法よりは、自ら主体となり神聖空間を体感しようとした。「聖なるもの」は単なる「知識」ではないからである。考えてみれば、「単性論説」という言葉を知識として得てたとしても、それがこの「わたし」の実存変容と何の関係があるというのだろうか。『エチオピアのキリスト教 思索の旅』で、川又がカルケドン公会議についても、単性論説についても筆をやや抑えている理由は、一歩間違えれば砂を噛むような空虚な記述となることを懼れたのかもしれない。

 実際のところ、わたしが記したエチオピア教会に関する記述は、川又がベト・マリアム教会で降誕祭に参列したときの美しい描写を前にすると、たちまち色褪せてしまうのである。

《私も周囲の者にならって、おそるおそる縁に腰を下ろす。夜明けを前にしたこの時刻、頭上には変わらず星が瞬き、星の光が周囲の男たち女たちの白衣と褐色の肌を照らし出していた。/手を押し当ててみると、岩は星の輝き同様、研ぎ澄まされたように冷たかったが、そのなかにもかすかに昼のぬくもりをとどめていた。ラリベラの巨大な岩盤は、陽光に灼かれ、月の光に冷やされ、呼吸をしてきたのである。》

 一部分の抜粋ではなかなか理解しにくいとは思うが、「夜の高貴」に包まれつつ、歴史的なもの――そしてそこには運命的なものが含まれている――に接近していく川又の魂のおののきが行間から伝わってくる。少なくとも、文章の格調の高さが、川又の著作に文学作品としての風格を与え、単なるルポルタージュと一線を画するものとしていることは理解していただけるであろう。 川又が聖パンタレウオン修道院で見た光景も印象深い。その修道院では、先進国ならば美術館のケースに収納されるような福音書の古写本――それは本文が見事な挿絵に彩られている――が、日々のレィトルギアで用いられていた。福音書とは、本来、聖堂のなかで「朽ちるまで用いられ、生命を終える」べきものであったのである。

 福音書といえば、エチオピア教会が定める聖書は、われわれが思い浮かべる聖書とは異なっている。そこには旧約聖書外典の「エノク書」や使徒教父文書の「ヘルマスの牧者」などが含まれているのである。ちなみに「エノク書」が完本として現存するのはゲエズ語写本のみである。また「ヤコブ原福音書」「パウロ黙示録」「ペテロ黙示録」などの新約聖書外典にもゲエズ語の写本が現存するが、「ペテロ黙示録」の最良の写本はゲエズ語によるものという。

 しかし、くりかえしになるが、このような歴史的知識よりも、川又の生彩に富んだ記述の方が、信仰とは何かについて深くわれわれを考えさせることは確かなのである。

 旧約聖書にある「契約の櫃」の伝説追跡が本書のモチーフとなっているが、川又の追究は、歴史的事実の探究から出発して、最後には伝承のもつ象徴的力能に逢着しているといってよい。タボット(「神の箱」)を教会の至聖所に置くというエチオピア教会の方法は、シリア、アルメニア、コプト教会にも見られない独自のものであるという。エチオピアの人々がタボットに対して抱く畏れ――そこには、信仰を根底から支えるものとして、事実の次元を超えた「伝承」が重く深く潜んでいるのである。

 そもそも川又がエチオピア教会に興味を抱いた直接のきっかけは、歌舞を伴うレィトルギアであった。本書冒頭でベツレヘム降誕教会聖堂での体験が語られていたので、わたしは何とか川又の追体験ができないものかと思った。実はグラムフォンに一枚のディスクがある。ここには、ベツレヘム降誕教会聖堂の鐘の音から始まり、ギリシア正教会、エチオピア教会、アルメニア教会、コプト教会、シリア教会などの聖歌が収録されているので、早速聴いてみたのである。

 だが、ディスクを聴いて、川又の追体験など到底不可能であることに否応なく気づかされた。わたしが書斎で深夜耳を傾けるエチオピア教会の聖歌と、川又が現地の教会で神聖空間に参入し、全身で聴いた一回限りの聖歌とは、全く異質な「音楽」であったといわざるを得ない。要するに、わたしの聴くエチオピア聖歌は、畢竟《美術館のケースに収納された福音書》のごときものに止まるのである。

「伝承」に話を戻そう。コプト教会、シリア教会の典礼聖歌と同じく、エチオピアのそれも、口伝により受け継がれてきたものであった(コプト教会の場合は、わが国の盲僧琵琶のように、盲目の歌唱者が口伝してきたのだという)。身体的記憶に頼る伝承は、描かれたり記載されたものと違って破壊されることがない。近代の科学的実証主義は記憶よりも記録を重んじ、テキスト解読一辺倒に陥りがちだが、「聖なる世界」においては、記録以上に記憶が大きな働きを果たすのである。この点も川又が本書で伝えたかったことであろう。……

 最後に個人的な感慨を書き記すことを許していただきたい。ささやかな手紙のやりとりはあったが、お目にかかったことはなかった。NHKの「こころの時代」に出演された姿を拝見したが、繊細な印象を受けた。ヴァイオリンをたしなまれたと聞くが、鋭敏な感性の方であったに違いない。

 筆一本で生きておられたが、「作家」という肩書きを使い始めたのは晩年になってからであった。「新潮」に発表された文章を纏めた『甦るイコン』は、原稿枚数的にはささやかながら重厚な文学作品である。小説・紀行・評論といった安易な区分を拒否するテクストで、著者自身が歴史的なものを通して運命的なものに肉薄しようとする姿勢が行間から強く伝わってくる。彼は作家としての自覚をこの著作で一層深めたのではないだろうか。先蹤なき世界を歩んでこられた川又一英氏には、カトリック作家小川国夫やギリシア正教徒詩人鷲巣繁男とは持ち味の違う、独自のキリスト教作家として、これからたくさんの仕事をしていただきたかった。それを思うと、失われたものの大きさが改めて胸に迫り、いたたまれないような、こころの置きどころのなさを覚える。

 しかし、永遠の眠りにつくことによって、シメオン川又一英は、われわれに「聖なるもの」を巡る思索の旅の行く末をゆだねた、と受けとめるべきなのであろう。


*初出:川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』山川出版社、二〇〇五年九月

For the next generation.

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