岩下壮一という光源

 八年前(二〇〇〇年)の秋になる。四谷のサレジオ修道会日本管区長館で行われた吉満義彦忌に出席して一、二週間後、会の関係者からお電話を頂戴した。岩下壮一の遺品を確認しにカトリック関口教会に参りますのでよろしかったらどうぞとのお誘いであった。

 当日は数名が集まった。数十冊に及ぶ学生時代のノートや全く色褪せていない留学の辞令、ロザリオや数々の写真、聖フィリッポ尞の記録簿など、半世紀以上を隔てて眼前に並べられる資料の数々に目を瞠りながら、わたしどもは時が経つのを忘れて岩下壮一について語り合ったのだった。

 岩下壮一は、昭和戦前期のカトリック界を代表する人物として名高い。一八八九年、実業家の長男として東京に生まれた岩下は、暁星、一高を経て、東京帝国大学哲学科で和辻哲郎、九鬼周造と机を並べた。ケーベルの指導を受け、首席で卒業するが、公費留学が自分の将来を帝大教授に限定することと、自分が恵まれすぎているという認識から、鹿児島の七高教授として五年間を過ごした。その後、文部省在外研究留学生という名目で、ヨーロッパに私費留学した。フランス、ベルギー、イギリス、イタリアなどで修学した岩下は、一九二五年、驚くべきことに「宣教師」として帰国する。一般司祭のようには教区を預からず、一高、東大の学生への指導並びに旺盛な言論活動の展開によって、我が国の知識階層にキリスト教カトリシズムの存在を示した。五年後の一九三〇年には、父が経営を引き継いでいたハンセン病療養施設、神山復生病院長に就任した。一九四〇年、興亜院(中国大陸での占領地に対する政策・開発事業を統一指揮した国家機関)からの重ねての依頼を受け入れ、中国カトリック教会の状況視察に赴いた結果、健康を著しく損ね、帰国後に腹膜炎で急逝した。五十一歳だった。

 岩下壮一について考えるとき、いつも思い浮かべるエピソードがある。それは神山復生病院事務長を戦後務めた田代安子の回想のなかにあるものだ。岩下が院長に就任する数年前のこと、聖心女子学院の教師だった田代は、岩下が行っていたカトリック信者対象の夏期講習に参加した。最終日に神山復生病院を慰問のために訪れた際、ハンセン病患者の痛ましい姿に驚き、誰もが涙を流したが、田代だけは涙が出なかった。それに気づいた岩下は、「あなたは心が冷たくていい。私と同じだ」とそっと言ったというのである(1)。

 岩下が透徹した「知」の人であったことは、『信仰の遺産』などを一瞥すればたちどころに理解されようが、その彼自身が自らを「心が冷たい」と認識したきっかけは何であったのか。岩下も田代と同じ体験を持っていたのではあるまいか。そしてこの自覚があればこそ、ハンセン病患者に献身することができたように思う。

 それにしても、初の日本人東京大司教を嘱望されるほどの人物であった岩下が、なぜハンセン病院長という後半生を選んだのであろうか。直接的には、父親が背任横領事件で有罪判決を受けた事実を重く受け止め、「一身をなげうって進んで、その罪を償いたい」(葬儀の際の会葬者への喪主挨拶中の言葉)と考えたことが挙げられる。それが「神の一使徒」たる自分の召命であると認めたと解することは不自然ではない。聖フィリッポに倣ったとする見解も傾聴に値する(2)。ある講演中に岩下が用いた「皇太后様の御命令によって私は仕事をやっている」という表現に着目し、〈換言すれば、岩下の「救癩」事業は、「神」の召命というよりは「皇太后様」のそれということになろう。〉とする見解もある(3)。しかし「命令」は「命令」であり「召命」とは意味を異にする別語であるゆえ、岩下のこの言葉は、彼が自らの仕事を神の召命と認識していた可能性を排除するものではないだろう。

 もっとも「権威」を重んじ、「分際」に敏感であった岩下が、皇室に対して敬意を抱いていたことは確かである。とりわけ「救癩」事業に積極的であった皇太后に対しては、立場は違えど理想を分かち合う人間同士として、心中では個人的共感を抱いていたように思われる。院長就任三年後の五月、皇太后が沼津御用邸に滞在することを知った岩下は、地元警察を通さず御用邸関係者に直接掛け合い、病院近くの踏切で患者たちが奉迎することの許可を得る。当日、列車が通過する瞬間に、皇太后が車窓に起立しているのを岩下は見る。岩下はこのできごとを大仰な筆致で書き記しているが、戦前期に皇室について書く際に配慮が必要であったことを忘れてはならない。車中で起立する皇太后と雨中に直立する岩下壮一は、その瞬間、お互いの存在をそれぞれの「分際」から社会的に許容されるギリギリの場で承認し合ったとわたしは解釈する。

 院長就任後、初めて迎えた真冬のある夜、院長室の石炭ストーブの脇で哲学書を紐解こうとしていた岩下は、ある女性患者の状態が急変したことを知らされる。蝋燭を手にして病室へ駆けつけた岩下は、死の瀬戸際で苦しむ患者の姿に激しく動揺し、院長室に戻ってからも、一晩中、身悶えするがごとき苦しみを味わった。「私はその晩、プラトンもアリストテレスもヘーゲルも皆、ストーブの中へ叩き込んで焼いてしまいたかった。」(4)と岩下は記している。「心が冷たい」岩下が、自らの「感情」についてこのように生々しく記した文章は、管見の限りこれ以外には存在しない。

 岩下は院長として病院改革を推進した。大規模な改築並びに新築を行って諸設備を整えることはもちろんだが、図書室を設けて蔵書を充実させ、一流の俳人歌人を院内文芸の選者に依頼し、野球が思い切りできるようバックネットを作るなど、多岐にわたる改革を次々に計画実行した。患者たちに対しても、自立心を育成する方針を採った。

 そうした努力にもかかわらず、一九四〇年二月、患者の自治組織名で、岩下に対する「批判と不満」が文書で提出される。患者たちの「分際」を超えたふるまいに岩下は動揺した。それはあってはならないことであった。文書が患者全員の総意であることを確認した岩下は、「きみたちは、ぼくの気持がわからんのか」と吐き出すようにいった(5)。これを契機に岩下は院長の職を退くが、辞める直前には「自分は患者の気持が分からなかった」と率直に認めていた。患者たちの大胆な行動は、実は岩下自身が「庇護」から「自立支援」へと方向転換したことがもたらした当然の結果にほかならなかったのだが、それを岩下は理解できなかったのである(6)。

 院長を辞めたこの年、岩下は不可解なほどにあっけなく亡くなる。興亜院から中国カトリック教会の状況視察を依頼されたとき、岩下はこれを断った。重ねての依頼に承諾するが、旅費を自分で出すことを条件とした。若き日に私費で留学したように、国家と自分との関係に一線を画すことに、彼は生涯こだわった。彼はカトリック界の指導者という己の歴史的役割についてきわめて自覚的であり、国家間の戦争で否応なしに浮き彫りになる天皇制国家体制とキリスト教の立場についても論理的整合性を徹底的に追求し、どちらにも解釈できるような韜晦を自らに許すことがなかった。

 旅先で不調を訴えた岩下は、帰国後神山復生病院へたどり着くと、そのまま病床に伏すこととなった。二か月後、患者たちが祈りの歌を合唱するなか、岩下壮一は息を引き取った。亡骸は東京へと運ばれ、盛大な葬儀が営まれる。世間から排除されたハンセン病患者たちの世界から、世をときめく貴人たちの世界へと岩下壮一が連れ去られていく情景を、重兼芳子の伝記小説はよく描いている(7)。

 カトリック司祭岩下壮一のプロテスタント教会への対決的姿勢についても記しておきたい。第二ヴァチカン公会議以前の思想家として当然のことながら、岩下壮一は、個人的交友は別として、思想的にはプロテスタント教会に対して、さながら火花を散らすような対決的態度を貫いている。教会合同についても、教権を認めないプロテスタント教会に「妥協の握手を差し延ばすことはできない」(8)と言い切っている。

 これは時代錯誤の言葉だろうか。そうではあるまい。妥協はできないとする潔癖な姿勢を繰り返し確認することは、対話を腐敗から護るために現在でも必要なことであろう。その意味でも、岩下壮一はきわめて今日的な思想家と呼ばれるべきである。

 ハンセン病院長としての生身の岩下壮一は、懐かしい記憶として、身近で接した多くの人々の胸の中に生き続け、やがて静かに消えていくだろう。しかし、彼の著作は時空を超え、今ここに存在する。それを紐解く者は、そこに記された文章それ自体が、岩下壮一の伝説化を拒んでいることに気がつかざるを得ない。

 岩下壮一の著作は数少ない。晩年の岩下は、まだ真に書くべき書物を自分は書いていないと考えていたようだ。五十一歳という享年は、当時でも若すぎるといってよい。彼が胸中に抱いたであろう無念の思いは理解することができる。しかし、彼が著した書物は、時の風化に抗い、現在も不滅の価値を有しているといって過言ではない。

 岩下は、同時代の人々、とりわけ学生や知識層に向けて執筆していたが、同時に、未来の読者をも強く意識していたように思われてならない。岩下の書く文章は、論理的骨格が確かで、どの一節を読んでも明晰である。曖昧模糊とした箇所は皆無といってよい。その意味で、彼が堪能だったヨーロッパの諸言語への翻訳も容易との印象を与える。彼はまた、伝えるべきことを正確に伝えるため、さまざまな修辞を駆使することのできる人であった。死すべき人間にとって、著作だけは時空を超えていくことができると彼は理解していたに違いない。

 岩下壮一は、大学生を指導したり病院内で患者に公教要理を教えたりはしたが、個人的な布教活動をしなかった。真理であるが故にキリスト教カトリシズムの信仰を持つと断言した岩下壮一は、執筆活動にコミットすることによって、未来の日本人にも福音を伝えようとしたのだとわたしは思っている。


【註】

1 田代安子『鎌倉の海』中央出版社、一九七七年、八三頁。

2 モニック原山『続キリストに倣いて』學苑社、一九九三年、八八頁。

3 荒井英子『ハンセン病とキリスト教』岩波書店、一九九六年、二三頁。

4 小林珍雄『岩下神父の生涯(復刻版)』大空社、一九八八年、二九五頁。

5 小坂井澄『人間の分際』聖母の騎士舎、二〇〇七年、五四〇頁。

6 輪倉一広「岩下壮一の救癩思想―指導性とその限界」(『「社会福祉学』四四―一、二二頁)参照。

7 重兼芳子『闇をてらす足おと――岩下壮一と神山復生病院物語』春秋社、一九八六年。

8 岩下壮一『信仰の遺産』岩波書店、一九四一年、一一五頁。 


*初出:『説教黙想 アレテイア』60号、2008年4月