遠藤周作とパレスチナ(2)『砂の城』

 パレスチナ問題に関連する小説を、遠藤は『死海のほとり』を刊行した二年後に書いている。長編小説『砂の城』(主婦の友社、一九七六年)である。本節ではこの作品を取り上げて考察する。 この小説は、一九七五年八月から月刊誌『主婦の友』に一年間連載された。一九七九年には新潮文庫にも収録されている。この時期の遠藤の状況をふりかえると、一九七三年に『死海のほとり』を書下ろし作品として上梓した後、『遠藤周作文庫』(講談社)全五五巻の刊行が一九七四年から始まり、また、第一次『遠藤周作文学全集』(新潮社)全一一巻の刊行も一九七五年から始まるなど、五〇代に入って、それまでの仕事を集大成する時期に当たっていた。

『砂の城』は、いわゆる純文学系列の作品とは見なされてこなかったため、『遠藤周作文学全集』(新潮社)には、旧版でも新版でも収録されておらず、大衆小説も収録する方針で編まれた『遠藤周作文庫』(講談社)にも、おそらく刊行年の関係から未収録である。海外への翻訳もない。武田友寿による新潮文庫版の巻末解説がある以外には、学術的な研究も行われていない。しかしながら、この作品は、江戸幕府による苛酷なキリシタン弾圧を象徴する「島原の乱」と、イスラエル建国がもたらしたパレスチナ問題とを連結させるという驚くべき内容を持っているため、見過ごすことができないものである。いわゆる「団塊の世代」の青春を描いたこの小説は、さきに取りあげた『死海のほとり』と関連付けて読まれるべき作品なのである。

 長崎市からバスで一時間足らず町に暮らす早良泰子は、電気器具店を営む家の一人娘である。父親は中国大陸での戦場体験を持つ人で、母親は泰子が四歳のときに亡くなっている。一六歳の誕生日に、泰子は父親から一通の手紙を受け取る。亡くなる一週間前に、母親が、一六歳の誕生日が来たら泰子に渡すよう夫に頼んでいたのだった。手紙には、自分が一六歳だったころの戦争中の青春が書かれていた。恩智勝之という大学生と訪れた、宝塚の奥にある渓流の静けさと、そこで彼が言った「負けちゃだめだよ。うつくしいものは必ず消えないんだから」という言葉を母は忘れることができなかったという。学徒動員で入営した恩智が、朝鮮を経由して満州の関東軍に編入されたことは、戦後にわかった。ソヴィエト連邦の捕虜収容所にいた彼が復員したのは一九四八年の春だった。恩智が上京した半年後に母は泰子の父になる男性と見合結婚した。「この世のなかには人が何と言おうと、美しいもの、けだかいものがあって、母さんのような時代に生きた者にはそれが生きる上でどんなに尊いかが、しみじみとわかったのです。あなたはこれから、どのような人生を送るかしれませんが、その美しいものと、けだかいものへの憧れだけは失わないでほしいの」と手紙は結ばれていた。

 高校を卒業した泰子は、長崎にある短期大学英文科に進学した。友人水谷トシも同じ短大の家政科に進学した。N大学の男子学生と合同で年一回行われる英語劇に参加することになった泰子は、島原出身の純朴な学生西宗弘と親しくなる。トシと島原を日帰りで案内されたとき、二人は、星野恒夫という西の高校時代の友人に紹介された。英語劇の練習を通して、泰子の先輩で才色兼備の向坊陽子は、N大の秀才田崎と交際するようになった。トシもまた、星野と密かに交際するようになる。星野が神戸に転勤すれば、短大を辞めてついていくとトシは泰子に打ち明ける。上京してスチュワーデス(客室乗務員)になると、陽子は卒業式で泰子に告げた。トシも家出同然で神戸に出奔した。二回生になると、泰子は、陽子が東京でプラスチック工場の事務員をしているという話を聞き訝しむ。陽子が交際していた田崎が過激派に入り、警察に二回逮捕されたという話も聞いた。西の消息も不明だった。

 その年の暮れ、泰子は全日空の客室乗務員採用試験に合格した。偶然都内で再会した元N大の学生から、西が過激派で活動しているという話を泰子は聞く。長崎への帰路、神戸のトシを訪ねた泰子は、汚いアパートでの淋しい暮らしぶりに驚く。信用金庫勤めだが、働かない星野から離れられないのだ。 国際線の客室乗務員になった泰子は、パリで偶然、恩智勝之と巡り合う。今でも独身の彼は、インドのニュー・デリーにある国際救癩本部で働いているという。一方、トシは星野の頼みを断れず、勤務先から大金を横領するが、監査で発覚して星野とともに逮捕される。面会に行った泰子に、トシは、自分の生きかたを後悔していない、憐れまないで欲しいと語って泰子を驚かせた。

 ある日、羽田空港から南回りでロンドンに向かう定期便が、ハイジャックされる。乗務員として搭乗していた泰子は、犯人グループのなかに西がいることに衝撃を受ける。彼は大学卒業後、田崎や向坊と行動をともにしていたのだった。ニュー・デリー空港に緊急着陸したあと、交渉の結果、乗員乗客全員が解放され、代わりに日本から移送された犯人グループの仲間と、人質役の日本大使館員、そしてインドの国会議員が乗り込んだ。飛行機の下に隠れていたインド軍兵士が、出口に現れた西を狙撃するとともに、飛行機内に催涙弾を投げ込み、事件は解決する。泰子は事件を聞きつけて現れた恩智と再会し、「美しいものと善いものに絶望しないでください」と告げられる。

 小説中に登場するハイジャック事件にはモデルがある。一九七三年七月に起きたドバイ日航機ハイジャック事件がそれである。日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の合同による、パリ発羽田行便のハイジャック事件で、乗っ取られた日航機は、アラブ首長国連邦のドバイ空港に着陸した。犯人グループは、日本国内に拘留されている日本赤軍二名の釈放を要求したが果たせず、シリアのダマスカス空港で給油をしたあと、リビアのべニア空港に着陸。乗員乗客を解放後、機体を爆破してリビア政府に投降し、その後国外に逃亡した。事件の首謀格であった日本赤軍の丸岡修(一九五〇―二〇一一)は、その後一九八七年に都内で逮捕され、二〇一一年に医療刑務所で死亡したが、事件後の詳細は、本作品を理解する上では不必要なため省略する。

 武田友寿は、遠藤文学の先駆的な研究を行った文芸評論家の一人である(1)。彼は、遠藤の「軽小説群」は、「しばしば世人の耳目に鮮明に記憶されている世間を騒がせた事件を使う」と述べ、作品中のハイジャック事件が「日航ハイジャック事件(連合赤軍事件犯人および連続爆弾事件犯人の釈放要求事件)を連想させる事件」であると指摘している(2)。武田の事件理解は必ずしも誤りとはいえないが、日本の国内問題としてのみ事件を捉えており、ハイジャック行為がパレスチナ解放運動と連動している点を見落としている。そればかりではない。武田は「ここに展開される小説世界についても、大学生活や社会生活といった平凡なもので、詐欺、横領、ハイジャック、就職、恋愛などなど、現代風俗の反映であって、この作家の硬小説の主題や材料とはおよそ別種のものである」と述べている(3)。詐欺、横領、就職、恋愛とハイジャックを同列に捉えているのは、武田が中東の国際政治に暗く、ドバイ日航機ハイジャック事件が持つ国際政治上の意味について「現代風俗」としてしか理解できなかったからと考えるほかない。『砂の城』の主題が、「硬文学」すなわち純文学系の作品と別種であるという見解にも、後段で述べる理由から、同意することはできない。

 小嶋洋輔は、遠藤の中間小説(非純文学系作品)が、これまで学術的な研究対象として扱われてこなかったことを問題視しており、その問題意識を私は支持する者である。彼は「読者との共通のコードとして実際に世間を騒がせた事件を作品中に描き入れることも、遠藤の「中間小説」に見られる特徴である」と捉えた上で、武田同様、「一九七五年の『砂の城』(「主婦の友」)は、過激派グループの一員である西が国際線をハイジャックする場面が作品のクライマックスを担っている。この背景には、一九七三年の日航ジャンボ機ハイジャック事件が直接にはあると考えられる。着陸した場所が『砂の城』ではインドであり、実際のリビアとは異なるが、犯人グループの編成や、その事件の顛末は類似している」と指摘している(4)。小嶋は「こうした実際の事件を、小説作品の舞台とすることでもまた、芸能人、著名人の名前を作品に描くのと同じ機能を持つといえよう。読者は他の場所、例えばテレビニュースや週刊誌の記事で手に入れた情報を、遠藤作品のなかに見つけることにより、その虚構としての新情報を入手してゆくのである。極言すれば、他の情報と並置される日常の一側面としての小説の機能を、遠藤「中間小説」は意図的に目指していたともいえる」と主張しているが、同意できない。現実に起きた事件を作品中に取り込んだことは、読者との距離を近づけるための「共通のコード」として、芸能人や著名人の名前を作中に取り入れることと同様の意図によるものとは考えられないからである。

「犯人グループの編成や、その事件の顛末は類似している」と小嶋は述べており、それはそのとおりではあるものの、表面的な捉え方といわざるをえない。作者は現実の事件からパレスチナ解放運動に関する要素を周到に削ぎ落しているので、そこに意図された遠藤の狙いをこそわれわれは探らねばならないのである。 なお、トシが行う公金横領も、連載開始の前月である一九七五年七月に発覚した足利銀行詐欺横領事件が下敷きになっていると考えられるが、本稿では論点をハイジャック事件に限りたい。

 西宗弘は、島原で文具店を経営する家に生まれた。父親が死に、家業を継いだ兄が学資を出してくれたおかげで、一家で初めて大学に進学できたという設定である。泰子が進学する短大が、活水女子短期大学(現活水女子大学)を思わせる浩水女子短大と表記されているのに対し、西が在籍する大学は、「N大」とイニシャル表記されている。長崎大学を連想させるが、イニシャルにしたのは、西らをハイジャック犯とするための配慮であると考えられる。夏季休業中には、長崎近郊の漁港で漁師に交じってアルバイトをしていた(5)。飾るところがなく、純朴な青年として造形されている。 泰子らを島原に案内する場面で、美しい景観に見とれる泰子らに、西はキリシタン弾圧の歴史を話題にし、「明治大正になっても天草の女たちは人買いに買われてこの口之津から船に乗せられ、ニューギニヤやジャワに連れていかれたもん」という。

《「ほんと?」

 「ほんとさ、あんたたちゃ無邪気すぎるよ。いつの時代も弱か者は虐げられるとたい」

 「西さんは」 トシはびっくりしたように、「左翼?」

 「左翼じゃなか。しかしぼくも現代の学生じゃから革命に関心があるなあ」(6)》

 このような会話のあと、西、泰子、トシの三人は原城跡を訪れる。そこでの会話はこうである。

《「島原にはその首塚のあるとぞ。ここで殺された三万の農民の男女は長崎、天草、島原に埋められたばってん」

 西はこわごわその空濠を覗きこむトシと泰子とのうしろに立って説明した。

 「よう、知っとらすね、西さんは」

 「小学校の時も中学の時も、遠足と言えばここに連れられていたもん。それに、ぼくの祖先もあるいはここで死んだかもしれんし……」

 「ほんと」

 「か、どうかは知らん。でも、ぼくの体内には島 原の一揆の連中の血が流れとるかもしれんよ。少なくとも彼等が一揆ば起したそげん心情はわかる気がする」(7)》

 英語劇の練習のあと、泰子と入った書店で、西はゲバラの『メキシコ革命の記録』を購入する。サマセット・モームの小説を探していた泰子が「そげん本ば西さん、好き?」と訊ねると、「わからんけど、心情的に合うような気がする。そいで買うたとさ」と西は応える。本屋の出がけに顔を合わせた田崎は「お前が本屋をのぞくとは珍しか。気でも狂うたか」と笑いながら言う。西は田崎のように頭脳明晰な青年ではないのである。注目すべきは、西が島原の乱を起こしたキリシタンにつながる血を自らなかに意識し、虐げられた者への心情的な共感を持つ人物として設定されていることである。西は秀才の田崎のように、政治理論への理性的納得からではなく、弱者への心情的共感から「過激派」になるのである。  英語劇の練習の合間に、田崎と西が政治的な議論を始めて、泰子ら短大生を困惑させる場面がある。

《「N大の人、いつも左翼的な話ばかりするんですか」

 と泰子が途中でとがめるように口をはさむと、「ごめん」と田崎は笑って「女の子の前でこげん話、禁物だと忘れとった。恋愛論のほうがよか」

  と言って話をはぐらかせたが彼女には二人が何 かをかくしているように思われた。(8)》

 短大を卒業後、客室乗務員となった泰子が西と再会するのは、ハイジャックされた国際線の機内だった。

《何人目かの同じようなハイジャッカーが食事にやってきた。泰子たちの場所からずっと離れた後部座 席を監視していたこの男は同じように黒い眼鏡をかけ、口髭をはやしていた。ずんぐりした体に陽にやけた横顔を見せた彼はスチュワーデスたちに、

 「迷惑かけます」 と言った。そして泰子に気がつくと、一瞬、びっくりしたように立ちどまった。(9)》

 この口髭の青年が西だった。眼鏡をとって声をかけた西に泰子は驚く。

《「なぜ」

 と泰子は小声でたずねた。

 「西さんがこげんなことを……」

 「やがて、わかるよ、ぼくらが何故、ハイジャックしたか」

 「理解できんとよ、わたしには」

 「泰子さんは何もわかっとらんとよ。わかっとらんから、ぼくらの行為も暴力沙汰に見えるとやろ」

 「でも、ピストルを持ったり、飛行機を乗っとったり……」 

 「ぼくらは今、戦いよっと、戦いよっことば知っ てほしかね。ぼくらのやっとることが暴力なら、もっと大きな暴力がベトナムなどで行われたこと、泰子さん、考えたことなかろうが」(10)》

《「その横顔をみつめながら泰子は西が変ったと思った。それはあの島原の海べりを一緒にドライブした時の西宗弘とはすっかり違っていた。茂木の港で漁師たちにまじって荷あげをしていた、真白の歯をみせて笑う昔の彼ではなかった。言葉は温和しかったが眼には言いようのない鋭い光があった」(11)》

《「悲しか」 と泰子はつぶやいた。

 「なにが」

 「だって……あの長崎で一緒だった皆が今は一人、 一人、別の方向に歩いとるでしょ。トシはあげん風になるし…… そして西さんは……わたし、西さんのこと、わからんようになった」

 「みんな、自分の情熱で生きるとね、仕方のなか」 と西はしみじみと呟いた。

 「そげんピストルば持って。昔の西さん、そうでなかった。一緒に英語劇やった時は……」

 「そうやったな、君に発音ば教えてもろうたとね。今でもあの台詞ば憶えとるよ。言うてみようか」(12)》

 この場面は、『砂の城』のなかで、おそらく最もパセティックな箇所である。具体的な台詞はここで再現されていないが、英語劇「ゴールデン・カントリー」のなかの、長崎奉行所で奉行が役人たちにキリシタンをどのように見つけ出すかを説明する場面の台詞こそが、泰子が西に発音を教えた台詞だったことに、注意深い読者は気づくであろう。遠藤には戯曲「黄金の国」(一九六六年)がある。島原の乱から二年後のキリシタン迫害を描いた作品で、『沈黙』の姉妹編といってよいものある。

『砂の城』に登場する英語劇「ゴールデン・カントリー」において、泰子は「切支丹の侍を父親に持つ雪という娘」の役になり、西は「ノロ作」という「少し頭の鈍い、人の良い百姓」の役になったと、さりげなく作者は記している。戯曲「黄金の国」の雪の父親は、信仰を捨てていない隠れキリシタンだが、かつて踏絵を踏んで「転んだ」人物として、長崎奉行所キリシタン取調の役人になっている。宣教師フェレイラを匿っているが、捕縛され穴吊にされて絶命する。雪もまた、奉行所の若い役人と恋仲となり悲劇的な最期を迎える。「のろ作(「ノロ作」ではない)」は、キリシタンたちのなかでも軽く見られるような単純素朴な青年である。このように見ると、作者遠藤が、『砂の城』の西を、江戸時代のキリシタンと同様、時の権力から執拗に迫害される側の人間として描いていることが明らかになる。

《「もう、変えられんと」

 「なにを」

 「もう一度、人生ば、やりなおすこと」

 「ぼくは信念でこればやっとるばい。やりなおす必要はなか」(13)》

「ぼくらは、そんな時代に生れたんだ」という西の悲痛な言葉を反芻する泰子は、「時代が私たちを別々の人生に歩かせたのか。ちょうど戦争が母と恩智勝之とを別れ別れにさせたように」と思う。つまり、西の登場によって、泰子の母親が生きた「戦争の時代」と現在の「平和な時代」という図式がここでは崩れ、泰子が生きる現在の「平和な時代」がそのまま「戦争の時代」であるという世界認識へと視野が塗り替えられるのである。 西はニュー・デリー空港で迷彩服を着た現地軍兵士により射殺され、解放された泰子はその瞬間を遠くから目撃することとなる。 「有色の帝国」(小熊英二)が大東亜共栄圏を掲げてアジア侵略を行っていた時代、恩智は国策に組み込まれ、国家から軍服を着せられ、銃を持たされて中国大陸に出征した。そして日本がアメリカ合衆国の「下請けの帝国」(酒井直樹)となった冷戦期、小説中にはあからさまには書かれていないものの、イスラエルの占領に抵抗するパレスチナ解放闘争に共鳴して、西は「過激派」の一兵士としてハイジャック事件を起こす。恩智は戦時下の体制下で反逆することができずに大日本帝国陸軍兵士となったが、西は国際的な非合法活動に自ら飛び込んでいったのである。

『砂の城』が連載された『主婦の友』は、石川武美(一八八七―一九六一)により一九一七年に『主婦之友』として創刊された婦人向け雑誌である。アジア太平洋戦争中も、休刊される雑誌が多いなかで発行を継続し、当時の新聞雑誌と同様に、米英を敵視して戦争を鼓吹する編集を行った。敗戦後に再出発したが、二〇〇八年に終刊した。戦時中に「新編・路傍の石」を連載していた山本有三は、内務省による圧力に抵抗して連載を中止している。戦後は三島由紀夫、瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)らがこの雑誌に小説を執筆している。羽仁もと子(一八七三―一九五七)がキリスト教思想に基づき創刊した『婦人之友』(一八九八年『家庭之友』として創刊、一九〇八年改題)よりは歴史が浅いとはいえ、大正以来の伝統を持ち、生活実用を編集方針として大衆性を持たせることにより、既存雑誌との差別化を図っていた。

 婦人雑誌は、文学好きを対象とする文芸雑誌とも、不特定多数の読者を想定する日刊新聞とも異なる媒体である。若い女性を主人公とするのは暗黙の了解といってよい。地方在住で小売業の家庭に育った女性が、地元の短期大学を卒業してナショナル・フラッグの客室乗務員として活躍するというストーリーは、当時の若い女性の憧れを誘う成功物語であった。四年制大学に進学する女性が少なくない現在とは異なり、短期大学は、高等学校を卒業した一割強の女性が進学する高等教育機関として機能していた(14)。短期大学を卒業して大企業に就職し、数年間働いて結婚を機に「寿退社」し、専業主婦となって出産するという生き方が、女性のひとつの人生行路としてあったのである。短期大学には英文科、国文科、家政科が置かれることが多かった。女性が四年制大学に進学して文学部以外の専攻に進んだり、大学院に進学することは、一般的とはいえなかったのである。ちなみに、男女を合わせた全国の高等学校進学率が九割を超えて準義務教育化されたのが一九七四年のことで、中学校を卒業した東京への集団就職列車が終了したのが一九七五年のことであった。

 このような時代背景のなかで、『主婦の友』という雑誌を舞台にして、遠藤は、単なるエンターテインメントを書こうとしたわけではなかった。一見、「いわゆる軽小説群に属する作品で青春小説といっていいもの」(武田友寿)の体裁を持ちながら、世間的な倫理観の枠組に収まらない生き方の肯定という主題を盛り込もうとしたのである。いわゆる純文学雑誌に掲載された作品ではないという先入観から、作品自体の価値を最初から割り引いて判断することは正しい研究態度ではない(16)。

 遠藤は、一九六五年、『小学館の女性月刊雑誌『マドモアゼル』に長編小説「協奏曲」を連載している。雑誌名が示すように、幻想のフランスに彩られたこの雑誌の若い女性読者のために、遠藤は主人公を若い女性雑誌編集者とした。彼女が恋愛感情を抱く既婚男性作家を追って、パリに行くという通俗的な物語であった。彼女の愛を退ける中年作家は、自分のかつての恋人で、現在はフランス大使夫人となっている人妻に会うためにパリに行くのである。この作品では、読者の憧れを誘うストーリーという点では『砂の城』と同様とはいえ、ヨーロッパは観光絵葉書と異なるところのない、ただの書き割りに過ぎない。政治的含意のないエンターテインメントである。「協奏曲」から『砂の城』までの一〇年間に、遠藤は『沈黙』を書き、『死海のほとり』を書いている。発表媒体の違いと作者の執筆姿勢の変化を両者の違いに認めることができよう。

 遠藤は、泰子に、読者が憧れを抱く生き方をさせただけではない。彼女を、恩智、トシ、西らの生き方に直面させることで、自らの生き方に対する疑問を抱かせている。国際救癩活動に人生を捧げるという、世間一般では「崇高」と看做されるであろう恩智の生き方も、彼自身に「私たちのやっていることが、果して美しいことか、善いことかは、必ずしもわかりません」(16)と作者は語らせているし、泰子にも「恩智勝之の生き方もひょっとすると、よごれたものからの逃避ではないのかという気がした」(17)と言わせているのである。ゲバラの書物を西が購入する場面があるが、医師免許を持っていたゲバラが、ペルーでハンセン病施設に自らを捧げようと一時期考えたことを思えば、恩智が西のような生き方を選択したとしても不思議ではない。つまり、西は恩智の「分身」なのである。作者は、おそらくゲバラのこの挿話を知っていて、彼の名を作品中に登場させていると思われる。

 西の射殺と他の犯人の捕獲で事件が一段落したあと、ホテルに、恩智が訪ねてくる。彼は、ニュー・デリー市街を、自らが運転する自動車で泰子とともに回る。勤務する国際救癩本部が見える場所で停車した彼は、ピアニスト、オートレーサー、大学教授といったさまざまな職業を持つ人々が、美しいこと善いことを考えた結果、その答えを求めに世界各国からこの機関にやってくるのだと語る。泰子の母親と二人で訪れた戦時中の渓流の小さな美しい場所が、現在の自分にはこの建物なのだと述べ、「美しいものと善いものに絶望しないでください」と続けた彼は、「人間の歴史は……ある目的に向って進んでいる筈ですよ。外目にはそれが永遠に足ぶみしているように見えますが、ゆっくりと、大きな流れのなかで一つの目標に向って進んでいる筈ですよ」と泰子にいう。「目標? それは何でしょうか」という泰子に「人間がつくりだす善きことと、美しきことの結集です」と応える。恩智には、自己批判能力があるので、近代西洋医療の帝国主義的側面に気づいており、野蛮な世界から病気を根絶するという西洋医学の自己陶酔的な英雄主義を自明視していない。それゆえ、自分たちの活動が果たして本当に美しいこと、善いことなのかはわからないと述べつつも、病気という「たしかな悪」と戦っているという事実が自分にやりがいを確信させているのだと述べる。

 しかし、このような恩智の論理は、そのまま西の論理に置き換えることができることに注意を払う必要がある。「我々の要求は現在、日本の反動的政府、及び警察によって不当にも監禁されている同志たちの釈放にあります」(18)「これ[ハイジャック]も、我々の革命運動のためには仕方のなかったことです」(19)という言葉が、作品中の犯人グループの唯一手がかりとなる台詞である。作者はおそらく意識的に彼らの思想的背景を記述していないが、「監禁されている同志」は、下敷きになった事件を参照すれば、パレスチナで創設された日本赤軍のメンバーであり、「革命運動」とは、パレスチナ解放闘争と連動した世界革命のことであることがわかる。彼らもまた、美しいこと、善いことを求めて世界から集まってきた人々であり、「人間の歴史は……ある目的に向って進んでいる筈」と考えていたのである。遠藤は、恩智に自らの生きかたを語らせることによって、西の生きかたについても語っていると考えてよい。換言すれば、作者は恩智の生きかたを称賛して、西の生きかたを否定しているわけではない。ハンセン病患者もパレスチナ人も等しく「弱か者」であり、恩智も西も彼ら「弱か者」のために自分の人生を捧げている。その意味で、両者は完全に相対化されている。そして、ここは注意を要するところであるが、西の生きかたを承認することは、西のハイジャック行為を承認することと必ずしも同義ではない。西の生き方を「正しい」と見なしているわけではないからである。

 恩智は、世代的には戦中派であり、『どっこいショ』の主人公と同年代である。恩智は戦争を潜り抜けたあと、病気という「悪」と戦うことを決意した人物であるが、『どっこいショ』の主人公は、ささやかな日常生活を後生大事に思う平凡な中年男であった。彼にとって、新聞の朝刊一面で報道されるベトナム戦争の状況は、いわば他岸の火事に過ぎなかった。彼にとっては、過去の「戦争の時代」の対極にある、現在の「平和な時代」だけが大事だった。彼は、息子が防衛大学校に進学して幹部自衛官をめざすことに動揺するが、最終的には彼の生きかたを承認する。作者もまた彼の生きかたを肯定している。それと同様に、『砂の城』では、主人公泰子すなわち作者は、西の生きかたも肯定している。「今は彼を憎んだり、恨んだりする気持は消えていた。西には西なりの懸命な生き方があったのである。水谷トシには水谷トシの必死な生き方があったように」(20)と書かれている所以である。泰子は、「そういう友人とは早く手をお切りになったほうがいいですね」という見合い相手山下の言葉に驚き、彼と結婚して米国で勤務する道を捨て去る。トシの存在によって、自らの生き方の修正を行うのである。素直な性格だが政治的な関心が薄く、英文科を出て全日空に就職し、日本の管理社会体制に完全に組み込まれて生きる泰子が、かつての友人たちの、到底受け入れられないような生き方に直面することを通して、自分の生き方を考えはじめるのである。

 公金横領者トシと、ハイジャック犯西を、作者は「懸命な生き方」「必死な生き方」をした人物として、敢えて同列に扱っているように見える。だが、西の行為の動機が、恩智と同じく「弱か者」への人道的共感に基づいているのに対して、トシのそれが個人的な愛欲と、泰子への女性としての対抗意識に基づいている点は見過ごしてはならない。トシの破滅的な生き方が、本当に美しいもの、善いものを求める生き方であったのか、それとも単なる個人的な自己満足なのか、作者は読者に問いを投げかけている。トシと西を作者が同一視していると決めつけることは必ずしもできないのである。

『砂の城』がいわゆる中間小説であり、武田友寿がいうように、遠藤の純文学系の作品とは「およそ別種のもの」とはいえないことはもはや明らかである。泰子は恩智、トシ、西らの生き方を相対化する役割を作中で持たされてはいるが、泰子自身もまた、彼らの生き方を参照することで、自らの生き方を相対化するからである。そして泰子は、読者一人ひとりでもある。武田は「賢い女・泰子がトシの愚かさを肯定しうるまでに賢くなっている」ことに注意を促している。(21)そういう見方も可能ではあろう。しかし、武田が泰子とトシを「賢い女」対「愚かな女」という小さな構図に閉じ込めてしまっているのは遺憾である。これでは国際救癩施設を自らの生き方に定めた恩智や、国際的テロ組織の一員として命を懸けている西の、性差を越えた、人間としての気高い生き方という根本的な主題が消えてなくなってしまうからである。

 この小説は、人間の世界では、どのような生き方が美しいものを求める生き方なのか決定することができないと語っている。作者はおそらく、それを知り得るのは「神」だけであると考えているのである。

 国際的な著者であることを自覚していたことと、戦時中の言論弾圧の恐ろしさを知っていたことから、遠藤は、政治的テクストとして自らの小説が読まれる可能性を回避するための韜晦が巧みだった。

『死海のほとり』でも、イスラエルに抑圧されるパレスチナ人については、見過ごしかねないほど、さりげなく、暗示的な描き方を用いていることは、すでに論じたとおりである。 『砂の城』も同様である。西のハイジャック事件は、下敷きとなった事件から、パレスチナ解放闘争の側面を意図的に捨象しており、一見しただけでは、イスラエル占領によって虐げられているパレスチナ人という国際政治上の問題はわからない。けれども、キリシタン弾圧と島原の乱、革命家ゲバラ、そして国際線ハイジャックと、西の思想形成の軌跡を飛び石のように描くことで、暗示的ながら、パレスチナ人が武装闘争へと踏み込まざるを得なかった必然性を描こうとしている。そして、西が行き着いたハイジャック事件は、そもそも、パレスチナ問題を世界に知らしめる目的で、PFLPに採用された戦術なのであった(22)。

「美しいこと、善いこと」を恩智=作者がかけがえのないものとして強調するのは、現実世界が、醜いこと、悪いことで満ちあふれているからにほかならない。それを象徴的に示す出来事が、ヴェトナム戦争であり、パレスチナ問題なのである。 優れた文学作品が犯罪者を描く例は枚挙に暇がない。その際、読者は、登場人物がそのように生きるしかなかった、それしかなかったことを納得し、心を動かされる。

『砂の城』において、西の生き方に読者が宿命的なものを感じるほどに丁寧に描かれているかといえば、確かにそうとはいえない。だがそれは、作者のせいではなく、エンターテインメントという形式が持つ限界であったと考えてよい。その限界ぎりぎりまで遠藤は描き込んでいる。 『どっこいショ』と『一、二、三』は、かつての「戦争の時代」と現在の「平和の時代」を時間的に対比させて捉えた作品であった。これに対して、『砂の城』は、母が生きた「戦争の時代」と泰子が生きている「平和な時代」という構図を、母親からの手紙を通して示した上で、これを否定する。すなわち、西のハイジャック事件という展開を通して、現在もまた「戦争の時代」であるとの新たな認識を提示しているのである。

「戦争の時代」と「平和の時代」を彼岸と此岸のように捉える認識は冷戦期の日本国内だけに通用する論理であり、平和な日常と戦争に代表される暴力とは、地球上にいつでも並存し、両者は相互依存的といってもいい関係にあると、この作品は語っているのである。この認識の変化は、ナチスのユダヤ人迫害と、イスラエル国内のパレスチナ人が置かれた状況を複眼的に捉えた『死海のほとり』を執筆することで獲得されたものと考えるのが自然であろう。

 『砂の城』は、読者に大きな問いを投げかける小説である。美しい生きかた、善い生きかたとはどのようなものなのか。国家の暴力に抵抗しようとするとき、抵抗勢力が暴力を行使することは肯定されるのか。美しい生きかた、善い生きかたというものを、読者に上から教え諭すのではなく、読者に考えさせようとする小説であり、そのために、世間的な常識を敢えて揺さぶろうとした作品なのである。


【註】

1 武田には『遠藤周作の世界』(中央出版社、一九六九年)、『遠藤周作の文学』(聖文舎、一九七五年)がある。

2 武田友寿「解説」遠藤周作『砂の城』新潮文庫、一九七九年、三一四頁。

3 同右、三一五頁。ハイジャック事件を現代風俗として捉えるという点からいえば、辻邦生『雲の宴』の男性副主人公郡司の弟が日本赤軍メンバーであり、一九七四年に発生したオランダにおけるフランス大使館占拠事件以後行方不明という設定こそ、物語の主題にとって本質的な重要性を持たないという意味で、当てはまっている。

4 小嶋洋輔「遠藤周作「中間小説」論――書き分けを行う作家」『千葉大学人文研究』三六号、二〇〇七年、三六頁。

5 漁師として働く西に、使徒の面影を重ね合わせるのは不可能とはいえまい。アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、そしてシオン・ペトロという漁師出身の弟子たちのうち、特に直情血行のペトロは、西の人物像と重なるのではないだろうか。

6 遠藤周作『砂の城』八一頁。

7 同右、八三頁。なお、原城の発掘調査が初めて本格的に実施されたのは、この作品が書かれてから一五年五の一九九〇年である。

8 同右、八六―八七頁。

9 同右、二七一頁。

10 同右、二七三―二七四頁。

11 同右、二七五頁。

12 同右、二八四―二八五頁。

13 同右、二八五頁。

14 二〇一五年の高等教育進学率七三パーセント中に占める短期大学進学率は八パーセントであるが、一九七五年当時の高等教育進学率は約二五パーセントであり、そのうち短期大学進学者は約半分であった。文部科学省「大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移」参照。        http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/03090201/003/002.pdf(二〇一六年一月二日確認)。

15 一九五三年から翌年にかけて、三島由紀夫が「恋の都」を同誌に連載している。この作品も、東京を舞台にした娯楽小説の体裁をとりつつ、アメリカ合衆国の植民地となった日本というポストコロニアル的状況を描き出した問題作である。武内佳代「三島由紀夫『潮騒』と『恋の都』――(純愛)小説に映じる反(アンチ)ヘテロセクシズムと戦後日本」(『ジェンダー研究――お茶の水女子大学ジェンダー研究センター年報』一二号、二〇〇九年三月)参照。

16 遠藤周作『砂の城』三〇七頁。ここには作者遠藤の、近代西洋医療に対する批評的姿勢がうかがわれる。辻邦生は、『光の大地』の主人公あぐりの父親を、中央アフリカで活躍する医師として設定した。そこには「野蛮」な原住民を病気から救済する「救世主」としての「文明」化された日本人が描かれているのである。ここでは権力装置としての帝国医療は当然のように免罪されている。帝国医療に関しては、見市雅俊他編『疾病・開発・帝国医療――アジアにおける病気と医療の歴史学』(東京大学出版会、二〇〇一年)第一章、及び、奥野克巳『帝国医療と人類学』(春風社、二〇〇六年)二九頁参照。

17 同右、二五七頁。

18 同右、二七六頁。

19 同右、二九四頁。

20 同右、三一一―三一二頁。

21 同右、三二〇頁。

22 パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の反イスラエル武装闘争と日本赤軍の連帯については、臼杵陽『世界史の中のパスチナ問題』(講談社現代新書、二〇一三年、四〇七―四〇九頁)参照。


*初出:『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた、異文化理解と対決の諸相』関西学院大学出版会、2017年