遠藤周作とパレスチナ(1)『死海のほとり』新考

 本章では、第二次世界大戦後のポストコロニアル時代にあって、なお行われている植民地主義に対する遠藤の認識を考察する。そのために、現代イスラエルを舞台とした『死海のほとり』(一九七三年)と、パレスチナ解放闘争を思わせるハイジャック事件をモチーフとした『砂の城』(一九七六年)を取り上げるとともに、村松の中東国際政治認識と比較検討する。また、一七世紀のスペインによる南米植民地政策を背景とした『侍』(一九八〇年)を、現代の植民地主義と結びつけて考察する。

『死海のほとり』(新潮社、一九七三年)は、『沈黙』(新潮社、一九六六年)に続く遠藤の代表作である。ヨーロッパ人とは異なるキリスト教理解を追求しつつあった作者が、〈永遠の同伴者〉たるイエス像を提示した記念碑的作品と日本国内では評価されている。ところが、この作品は韓国語以外には翻訳されていない(1)。多くの小説が諸外国語、とりわけ英仏語に翻訳されることで、遠藤が「世界文学システム」(2)に組み込まれた国際的な著者であることを考えると不思議なことといわねばならない。

 考えられる理由として、この小説におけるキリスト・イエスの描き方を考えることができる。この小説では、イエスは、奇蹟行為を行うことができず、ただ虐げられた人々に寄り添うことしかできない、徹底的に無力な男として描き出している。加えて、彼の十字架上の死と、ナチスの収容所の囚人の死を結び付けて描いている。このようなスキャンダラスな衝撃性を持ったイエス像を、海外の読者が受け入れることが容易ではないと考えたからという理由である。しかし、『死海のほとり』と同年に出版され、同じイエス像を描いた『イエスの生涯』が、五年後の一九七八年には英訳されていることを考えると、現在に至るまで英訳が行われていないことの理由としては不充分である。

 別の理由として考えられるのは、海外で読まれたときに、この作品が強い政治性を帯びたテクストとして読まれる可能性を否定できないことである。この小説は、イエス探究という主題の背景として、ユダヤ人を抑圧したナチス・ドイツの暴力が中心化されている。しかし、テクストの周縁部に注目して丁寧に読むと、イスラエル国内に留まり虐げられているパレスチナ人の苛酷な現実もまた描かれているのである。イスラエルが国内のパレスチナ人を抑圧している直接的な場面が具体的に描かれているわけではない。しかし、現代イスラエルを舞台としたこの小説では、当然のことながら、ユダヤ人が被った歴史的悲劇だけが描かれているわけではなく、パレスチナ人が置かれている政治的状況もまた、自然と察知されるように描かれているのである。

 フランス留学から帰国後、「アフリカの体臭――魔窟にいたコリンヌ・リュシェール」(伊達龍一郎名義『オール讀物』一九五四年八月号)で小説家として再出発した時点から、遠藤は、いわば「安全無害な作家」になるつもりはなかった(3)。「アデンまで」(一九五四年)「白い人」(一九五五年)は近代西洋批判の要素があるし、『海と毒薬』(一九五八年)は日本批判の要素があった。『沈黙』(一九六六年)は、カトリック教会批判としても読みうる。これらの諸作品は、しかし、日本語世界の読者を想定していた。遠藤が英仏を中心とする「世界文学システム」に自らが組み込まれたことを自覚したのは、一九六〇年代に続けて作品が外国語に翻訳されて以後のことと考えられる(4)。一九七〇年代に入ってからの遠藤は、海外の読者を想定して作品を執筆せざるを得なくなっていた。

『死海のほとり』刊行当時の遠藤が置かれていたこのような状況を考えると、この作品が周到な配慮の下に書かれたとしても当然である。イスラエルという現実の国家の描き方如によっては、最悪の場合には、「反ユダヤ主義者」と見なされる可能性もある。それは国際的な著者としての立場を危険にさらすことになるだろう。この小説で作者はイスラエルを糾弾しているわけではない。しかし、今日まで英訳すら行われていない事実は、以上のような理由からなのではないだろうか。

 このような問題意識を踏まえて、本節では、この小説が書かれた時代背景と著者の取材方法、そして作品の細部に注目することを通して、『死海のほとり』というテクストの新たな読解を提起したい。

 パレスチナ/イスラエルを巡る中東情勢について、必要最低限の確認をしておきたい(5)。国際連合の分割決議に基づき、一九四八年にシオニズム国家イスラエルが建国された。背景にはナチスに弾圧されたユダヤ人への同情が国際世論にあった。しかし、パレスチナの地に生活してきたアラブ人の反発を招き、同年第一次中東戦争が起きる。勝利したイスラエルは国連が示したよりも遙かに広い領土を獲得する。一九五六年には第二次中東戦争が起きた。一九六七年には第三次中東戦争が起きる。三度目の戦争によって、イスラエルはパレスチナの大部分を領土とし、ヨルダンが支配していた東エルサレムも獲得した。

 遠藤は一九五九年に、当時はヨルダン領だったエルサレムを訪れている。その後、イスラエルを訪れたのは一九六九年、一九七〇年、一九七二年である。一九七二年は三月から四月にかけての滞在だが、翌月にはテルアビブのロッド国際空港(ベン・グリオン国際空港)で日本赤軍のメンバー三人による乱射事件が起き、日本国内で大きな衝撃が走っている。『死海のほとり』が刊行されたのは一九七三年六月だが、同年一〇月には第四次中東戦争が起きた。その翌月から第一次石油危機が日本国民の生活を襲った。したがって、この小説が発表されたタイミングは、それまで日本人に薄かった中東情勢への関心が、にわかに強くなっていた時期にあたるのである。

 一九六九年一月から二月にかけてのイスラエル取材旅行時、遠藤は駐日イスラエル大使と親しい村松剛を通してイスラエル政府に訪問を伝えている。そのために、現地ではイスラエル外務省が「運転手と七人乗りの車」を用意してくれていた(6)。「今度は六日間戦争のためにエルサレムはもちろん、ほとんど新約聖書関係の場所がイスラエル占領地域になっているのは旅行者にとっては幸いであった。六日間戦争の名残りはエルサレム市に残るすさまじい弾痕にもうかがわれたが、私たちが滞在してる間にもほど遠からぬヨルダン川で砲撃戦があり、その砲声が昼食をとっていた我々を驚かせた」と遠藤は記している(7)。知られるように、「六日間戦争(Six Day War)」という呼称はイスラエル側のもので、アラブ側は「六月戦争(June War)」というのである。「六日間戦争」という呼称を用いているからといって、遠藤がイスラエル寄りの見方をしているというわけではないだろう。むしろ、イスラエル側が取材旅行の外国人作家に見せたいと思った世界と、実際に作家が見てしまった世界とは、おそらく違ったものであったと考えるのが自然である。

 遠藤と村松は、ともに同人誌『現代評論』同人だった。やはり同人だった服部達と三人で「メタフィジック批評」(一九五五年)を提唱したこともあるなど、若いころから交友があった。村松はポール・ヴァレリー研究から出発した人だが、アンドレ・マルローに関心を移し、一九六一年にはエルサレムで行われたアイヒマン裁判に『サンデー毎日』特派員として傍聴に行った。イスラエル政府と村松との関係は、このときから始まっている。ハンナ・アーレントが『ニューヨーカー』特派員として来ていたことは名高い。村松は一九六二年に『ナチズムとユダヤ人――アイヒマンの人間像』(角川新書)を著している。翌年、アーレントは『ニューヨーカー』に「イエルサレムのアイヒマン」を連載し、ユダヤ人たちからの激しい非難に曝されるが、同年、村松は『ユダヤ人――迫害・放浪・建国』(中公新書)を刊行する。この本で村松は放浪の果てにイスラエルを建国したユダヤ人に対するこころの底からの共感を隠そうとしていない。

 第三次中東戦争勃発前夜、村松は「イスラエル問題は発火するか」(『中央公論』一九六七年七月)を発表し、「発火寸前の状態」の中東情勢を分析した。戦争終結直後には国防相モシュ・ダヤンに会見して「イスラエル首脳会見記」として発表した(『中央公論』一九六七年八月。この記事で村松は、アラブ側の政治的立場を無視しているわけではないが、結果的には、日本語世界に「われわれは今後永久に、エルサレム旧市街を手放さないだろう」というイスラエル政府の立場を伝達する役割を果たしたといってよい。ナセル首相には日本語世界で政治的主張を伝達する人物はいなかったのだから。村松はその後もイスラエル紀行「スエズ運河はいつ再開されるか」(一九六九年二月)、「中東――この絶えざる紛争点」(『中央公論』一九七〇年四月)を発表している。彼は文芸評論家であると同時に中東問題の専門家であった。そして後者における彼のスタンスは、「現代ユダヤ・イスラエル」にあって、「現代アラブ・パレスチナ」ではなかった。

『死海のほとり』発表の前年に刊行された村松の『中東戦記――六日間戦争からテル・アヴィヴ事件まで』(文藝春秋、一九七二年)は一九六七年から一九七二年までのパレスチナ/イスラエル地域の紛争を記述した書物である。次節で詳細に述べるが、この書物はアラブに敵対するイスラエル寄りの立場から書かれたものなのである。一九七五年一二月、村松は『文藝春秋』に「イスラエル首相単独会見記」を発表し、首相イツハク・ラビンとの直接会見を発表している。「アラブ人の海の中にただよう小国の和平への努力と苦悩」という副題が、イスラエルに好意的な内容であることを如実に示している。当時の村松は、イスラエル政府の最高指導者と直接対話が可能な存在にまでなっており、イスラエル側に好意的な論客として、政治評論を日本語世界で行っていたのである。ラビンのみならず、一九八〇年代に入ると、メナヘム・ベギン首相、ラファエル・エイタン参謀総長とも会見している(『文藝春秋』一九八三年三月)。 ところで、イスラエルが、ある意味で「希望」であった時代があったことを現代のわれわれは忘れがちである。村松の「ダヴィデの星――イスラエルという国」(『世界』一九六一年九月)はそういう時代の雰囲気をよく伝えている文章である。一九六〇年代、イスラエルを理想化し、彼の地のキブツで働く日本人の若者もいたのである。パレスチナ問題の実態が徐々に日本国内でも知られるにつれて、イスラエルに対する日本人の見方は変化していったのである。

『死海のほとり』は、現代イスラエルを舞台とした「巡礼」の奇数章と、古代イスラエルを舞台とした「群像の一人」の偶数章が、対位法的に展開していく。二つの物語は、最後に寄り合わされ統合される。つまり、「かつて」と「今」が、小説のなかで出会うのである。  この作品が持つ複雑さは小説世界の時間/空間についても例外ではない。小説の舞台となる空間には四種類ある。エルサレムを中心とした現代のパレスチナ/イスラエル、同じく古代のパレスチナ/イスラエル、そして第二次大戦下の東京とゲルゼンである。そして小説の内部に流れる時間には、三種類がある。イエスが生きた古代パレスチナ/イスラエルの時間と主人公が生きる現代パレスチナ/イスラエルの時間。そして、現代を生きる主人公の胸中に入れ子のように流れる第二次世界大戦中の時間である。二つの物語、それぞれの物語の中の空間と時間は、しかし読者の意識のなかで混乱を呼ぶことはない。むしろそれぞれが互いを照らし出す仕掛けになっている。現在が過去に重なり、逆に過去が現在に呼び起こされるふうになっているのである。

 単行本には、死海以北の「イエス時代のパレスチナ」図が掲載されている(新潮文庫版も掲載。新版『遠藤周作文学全集』は不掲載)。地理的理解が必要だと作者が判断したからに違いない。しかしながら、パレスチナ/イスラエルのほとんどをイスラエルが占領した「現代(第三次中東戦争後)のパレスチナ」図は併載されていない。これがあれば、読者はイスラエルとアラブ諸国との政治的緊張を強く意識してこの小説を読まざるを得なかったはずである。古代と現代の二つの物語で進行していく小説であるにもかかわらず、なぜ一方だけを作者は掲載したのであろうか。作者は、キリスト教作家として重要な、独自のイエス像を描き出すことに読者の注意を集中させたかったからと解するのが自然であろう。現代イスラエルを巡る国際政治的状況は、あくまで物語の背景であり、中心的主題ではないからである。

 エルサレムに到着したカトリック作家の主人公が、学生時代の友人で聖書学者の戸田と再開する第一章の場面を見てみよう。「このエルサレムにも二つしか見物する面がないな。古いエルサレムと新しいエルサレム。現代のイスラエルと聖書に出てくるエルサレム」と戸田はいう。新しいイスラエルとは、「戦争をしているイスラエル。集団農場(キブツ)や砂漠の開発、ロックフェラー財団、〔……〕」と続ける戸田に、主人公は「砂漠の開発を見せてもらうより、イエスの生きた遺跡でも見せてもらうほうが、まだわかりやすいし……」と応じる。  このやりとりを文字通りの意味レベルで受け取れば、主人公即作者は、あくまで古代に生きたイエスの足跡を尋ねることがイスラエル訪問の目的なのであって、パレスチナ/イスラエルをめぐる生々しい国際政治には関心を払わないと宣言している、ということになろう。しかし現代のイスラエルを舞台として設定している以上、それは容易ではないのであって、もしかすると、これは作者の韜晦に過ぎないのではないかと疑ってみることができよう。

 なぜなら、こうしたやりとりの直後に主人公が見るともなく見るのが「一軒だけあいている映画館」の大看板に描かれた「騎兵隊のジョン・ウェインの似顔」であり、切符売り場に列をつくるユダヤ人の若者たちだからである。ジョン・ウエィンは多くの西部劇に出演して、ヨーロッパからやってきた植民者たちの「開拓者精神」を体現した俳優であった。それらの西部劇では、先住民は野蛮な悪役として描かれているのが常であった。ジョン・ウエィンはまた、アメリカ合衆国内でヴェトナム戦争反対活動が高まっていた時期に、『グリーン・ベレー』(一九六八年)という、陸軍特殊部隊のヴェトナムでの「活躍」を描いた、政治的色合いの濃い映画を監督・主演していた。一方で、ラルフ・ネルソン監督が『ソルジャー・ブルー』(一九七〇年)で、騎兵隊による先住民族無差別虐殺を生々しく描き出したのは一九七〇年である。それまでの西部劇における騎兵隊と先住民の描き方を大転換したこの映画は、アメリカ合衆国によるヴェトナム戦争介入を強く意識した政治的な作品であり、日本でも一九七一年に公開されていた。

 アメリカ合衆国の歴史において、騎兵隊が白人入植者の土地を拡張するために先住民族を次々に虐殺した歴史と、新国家イスラエルが先住アラブ人たちを追い出し、町を破壊し、財産を没収し、土地の名称を変えていった歴史を、遠藤は当然のことながら知っている。このように考えると、このテクストは「現代のイスラエル」には関心がないという、「意味を強制する」言葉とともに、ジョン・ウェインの騎兵隊という視覚的イメージを配置ことで、「現代のイスラエル」についても語っているのではないだろうか。台詞と描写で、反対のメッセージを同時に読者が受け取れるようになっているのではないだろうか。  「二十日戦争の時、ここだって危なくて通れなかったよ」という戸田に、主人公は「戦争の時はどこにいた?」と尋ねる。「国連の事務所。すぐそばでヨルダンの部隊が機関銃をうってきて、こちらは床に伏せて身動きもできなかったな。この先に当時の砲弾の跡が随分残っている」と戸田は応える。二十日戦争とは、ここでは第三次中東戦争を指しており、要するに「テクスト内事実」である。この戦争の結果、先に引用した遠藤の文章にもあったように、ヨルダンが管理していた旧市街を含む東エルサレムをイスラエルが占領して自国領土としたことにより、イスラエルのユダヤ人が「嘆きの壁」に行けるようになったのである。

 主人公はイスラエルでイエスの足跡を尋ねて歩くのだが、自分がそれまで抱いていたイエス像が、戸田の言葉によってことごとく虚構の産物であったことを思い知らされる。つまり、捏造された神話の虚構性が徐々に暴かれていくというのがこの小説の推進力なのである。神話の虚構性が暴かれていくのは、しかしイエスだけではない。主人公の目に映る矛盾に満ちた現代イスラエルの現実を読者は追体験することになる。このテクストは、ねずみと呼ばれるキリスト教修道士(ポーランド系ドイツ人)を登場されることでナチスのユダヤ人迫害を強く前景化しながら、同時に後景化しているシオニズム国家イスラエルのパレスチナ人迫害についての読者の想像力を刺激するのである。

 知られるように、イスラエル社会は三層構造になっている。最上層にいるのがアシュケナジムと呼ばれるヨーロッパから逃れてきたユダヤ人である。その下の層が、セファルディムと呼ばれるヨーロッパ以外から来たユダヤ人である。そして再下層に置かれているのが、イスラエル国会内にとどまった先住アラブ人、すなわちアラブ系イスラエル人、要するにパレスチナ人である。

 作品世界において、彼らはどのように表象されているだろうか。それは主人公のトランクを運ぶホテルのボーイであり、裸足で主人公に施しを迫る少年である。ラクダを連れてゆっくりと歩く男であり、路傍でトランプに興じる男たちである。彼らは小説の舞台装置に現れる名も無きエキストラのようにも見える。だが、時に細かい描写が行われることがある。主人公が「ピラトの家」を見学して出た直後の場面を見てみよう。

《壺を頭にのせたアラブ女がゆっくりと坂道をのぼってくる。紺色のボロ布のような衣服をまとい、サ ンダルもはいていない。鶏のそれのような足は埃によごれ、驢馬の糞も平気で踏んでいく。すれちがいざま彼女は私を壁にぶつかる陽光のように鋭い強い眼で見たが、その眼ざしには憎しみがまじっているように思われた。…… (8)》

 さりげない描写だが、パレスチナ人の憎しみが混じるまなざしがここでははっきりと記述されている。この場面に続いて続いてアメリカ人の巡礼が現れる。血色のいい神父に連れられて、全員がカメラを肩から下げている。戸田は、ホテルに帰れば信者たちに絵葉書をせっせと書くに違いないと「アメ公の神父たち」を嘲るのだが、パレスチナ人の女は戸田も内心で蔑んでいるであろうことが暗示されている。イスラエル社会で最も虐げられているのはパレスチナ人であるにもかかわらず、アメリカ人の神父も信徒も、そして日本人も、彼らが透明人間ででもあるかのように見ようとはしないからである。主人公たちが憩うカフェに来た、買い物籠を下げた「イスラエルの婦人」は、サングラスを掛けている。彼女は、腰を下ろして煙草を喫う。イスラエル社会の最上層にいるアシュケナジムなのである。  二人はユダヤ人虐殺記念館に足を向ける。これをきっかけにして、主人公は「ねずみ」と呼ばれたポーランド系ドイツ人修道士を思い出す。財産を没収され強制収容所へと送られ多くのユダヤ人が虐殺された。その記念館を訪れる主人公とともに、読者はナチスドイツの暴力について考えるよう仕向けられる。そして、主人公とともに虐殺記念館を出てイスラエルの街角へ、現代イスラエルの現実へ戻らされるのだ。

 第三章には、「街道にそったコカコーラやジュースを売る小屋の前に赤ん坊をだいたアラブの女が人生を諦めたような姿で立っていた」という描写もある。コカコーラがアメリカ合衆国の象徴であることはいうまでもない。そしてアメリカ合衆国は、イスラエルの最も強力な支持国である。

 第七章で、主人公がパレスチナ人の村を眺めながらイエスの時代を想起する場面に注目してみよう。

《通過する路の風景は既にユダの荒野とはすっかり違ってはいたが、そのかわり、押し潰されたような アラブ人の村がいくつもそこにあった。煙の煤でうす汚れ、雑巾のような色をした家の前で山羊の群れ が集まり、木の枝を持った少年がそれを追っている。天秤棒を肩にして𨫝を重そうに女が運び、老人が壁にもたれてぼんやりと我々の車を眺めている。どの村にもそんな風景があり、どの村も強い陽光に曝されていた。/「イエスも、この路を歩いたのかしらん」/「と思うよ。ここは昔からサマリヤを通るただ一つの街道だったから」/「もっとみじめだったろうな、当時は」(9)》

 パレスチナ人集落を眺めながら主人公がイエスの時代を想起するのは、地理的な理由である以上に、眼前に存在するアラブ系イスラエル人たちのありようが悲惨だからである。テクストは現代イスラエル社会の現実に読者の意識を向けさせつつ、それをイエスの生きた世界に結びつけようとしている。

 小説のなかでは、当然のことながら、イスラエル人も描かれている。イスラエル兵士について見てみよう。イスラエルには徴兵制がある。男性は三年間、女性も二年間の兵役が義務である。もっともアラブ系イスラエル人には徴兵が免除されている。政府は彼等に銃を持たせたくないからだといわれる。ちなみに、正統派ユダヤ教徒も、当時は兵役が免除されていた。

 第一章で、街角で横断歩道を渡る姿が、この作品に初めて登場するイスラエル兵士である。「銃を肩にかけたイスラエルの兵士が二人、船首の立像のように直立している」のを主人公はホテルの窓から見る。主人公が戸田と話を交わし、ホテルから出ると、「さっき窓から見えた兵士がまだ辻に立っていて、その喫っている煙草の火が明滅していた」。作中での言及はないが、彼らが所持している銃はアメリカ製であり、コカコーラを売る小屋の前で「人生を諦めたような姿で立っていた」パレスチナ人の女が登場する場面とともに、イスラエルの背後に見え隠れする大国アメリカが暗示されている。

 第五章で主人公と戸田が自動車でベトレヘムに行くとき、途中で小休止しているとジープが上ってくる。

《二人のイスラエル兵が乗っていて、草色の軍服から腕を出した彼等が、じっとこちらを見ている。すれ違った時、その一人が若い獣のような眼で笑顔を つくり、/「何処から来た(メイアン・アタ)」と声をかけた。(10)》

 主人公は彼等を見たことから、戦争中の記憶を呼び起こすのだが、「若い獣のような眼で笑顔をつくり」という箇所は含みを感じさせる表現である。銃を持ったイスラエル兵の「つくられた」「笑顔」の「若い獣のような眼」は、得体の知れない戦慄を喚起するような表現でないだろうか。

 イスラエル人は銃を持つ存在として描かれる。主人公は、「ねずみ」の収容所時代について知るために、ゲルゼン収容所にいたユダヤ人(アシュケナジム)がいる集団農場(キブツ)を戸田と訪れる。第五章で、主人公らが夜に集団農場を訪れたときの場面を見よう。

《やがて、果樹園をふちどる白い柵が夕闇に帯のように浮かびあがり、丈のたかいユーカリの樹木がどこまでも道の片側につづくと、この道の奥が我々の目指す集団農場だと私にもすぐわかった。犬の吠える声も次第に大きくなり、家々の灯が木立の間にちらつき、戸田が車の速度をゆるめた時、向うに二人の青年が手をあげて我々をさえぎった。作業服を着ていた彼等の肩に銃があった。(11)》

 叙情的な描写だが、集団農場の青年たちは兵士でもないのになぜ銃を携行しているのか。自衛のためという名目で、武装することをイスラエル政府から植民者たちが許されているからである。この集団農場も、かつてはパレスチナ人の土地でありパレスチナ人の農場であったかもしれないのである。  主人公は「銀髪のいかにもユダヤ人らしい高い鼻をもった老婦人」と面会する。ゲルゼン収容所のサバイバーである。注目すべきは彼女の部屋のさりげない描写である。「きちんと食器をならべた木造の棚の上に、軍服を着た若い娘の写真がおいてあった」と書かれている。ナチスのユダヤ人迫害から生き延びてイスラエルに逃れてきたこの女性の娘は現在兵役にあり、パレスチナ人迫害に荷担していることが暗示されているのである。

 この小説のなかで、制服を着て銃を持っているのは、回想場面に登場するナチスドイツの将校と、物語の現在に登場するイスラエル兵士だけである。

 このように、テクストの細部に注目すると、イスラエル人は銃を持つ強い存在として描かれ、パレスチナ人は悲惨な生活を余儀なくされる存在として描かれていることが明らかになる。主人公が接するイスラエル人はアラブ系ではなく、すべてユダヤ人、それもアシュケナジムばかりである。ゲルゼン収容所に少年時代にいた医師が、フランス語で手紙を主人公に送ってくる。彼は集団農場を主人公が訪問したときに外出していて会えなかったのである。彼は自分がユダヤ教徒ではなかったと手紙のなかで記している。そして、その手紙のなかで、「ねずみ」の最後を語るのである。ナチスの「うすみどり色の制服を着た将校」が、背広のドイツ人とささやきを交わす。それで「ねずみ」の運命が決まった。

「ねずみ」は人間的弱さを体現したような人物として造形されている。強制収容所内でも、ひたすら保身に走り、他の収容者に襲いかかる苛酷な運命には知らぬふりをし、仕方がないと言い訳をする卑怯者である。しかし、アウシュビッツで死を強制されるねずみとは一体誰のことなのだろうか。この問いをテクストは読者に突きつける。この人物を考察するためには、ナチスによるユダヤ人迫害を考えるだけでは充分ではない。イエスを迫害した帝政ローマ、キリスト教徒を迫害した帝国日本、そしてパレスチナを占領するイスラエル――このような多層的な支配/被支配関係のなかで、いつの時代にもねずみは存在したはずなのである。

 そのように考えた上で、私はここでは、シオニズム国家という小説の舞台設定に特に注目したい。ナチス政権下のドイツで最も惨めな存在はユダヤ人であった。そしてイスラエルで最も惨めな存在はパレスチナ人である。そのように考えれば、ねずみはパレスチナ人でもあるのではなかろうか。

『死海のほとり』は「同伴者イエス」を描き出した作品である。そこに疑いはない。しかし、この小説が現代イスラエルを舞台とすることで、人間の悲惨が第二次世界大戦中のユダヤ人迫害という歴史的出来事にとどまるものではなく、アラブ世界で現在進行形の出来事であることをさりげなく描いている点を見過ごしてはならない。かつて他者から虐げられた者が別の他者を虐げるという人間の悲惨がこの小説の背景になければ、「同伴者イエス」像が読者に与える感銘も、薄れてしまうであろう。

 遠藤は、取材旅行から帰国後に書いたエッセイで、次のように語っている。

《イスラエルはユダヤ人の国家だが、周知のように純粋ユダヤ人というのは少ない。シオニズムの名の下にここに復帰してきたユダヤ人たちはいずれもそれまで世界各国に分散して、言語も環境もちがって生活してきた人々の集団である。極端にいうならばバラバラの混血ユダヤ人たちの集まりなのである。それを今、統一しているのは、アラブ人との戦いでひき起された国民感情と、自分たちが世界でうけた迫害意識であろう。だからもし戦争が終り、迫害意識がうすれた時は、彼らの団結を支えるものは何かという感じがしないでもなかった。(12)》

 このように遠藤は考えていた。研究者もまた、アラブ系イスラエル人を除外すれば、さまざまに細分化されたイスラエル国民としてのアイデンティティーの「共分母」は、アラブの脅威に対する連帯感にほかならないと指摘している(13)。ヨーロッパ社会で受けた迫害の記憶――特に自分たちがホロコーストの犠牲者の末裔であるという意識については、各種記念式典や高校生のアウシュビッツ研修旅行などの教育により植え付けられているが、近年ではそのようなシオニズム事業への疑問視もイスラエル国内では出てきているという(14)。

 遠藤は、一九六九年の取材旅行の際、イスラエル外務省側の申し入れでキブツに連れて行かれた。キブツにもいろいろあるので、イスラエル側が見せようと選別したキブツであったことは想像に難くない。それまでは軽快にあちこちを歩き回っていた遠藤が、そのときだけは、「しかたなしにっていう具合に」歩いていたという。外務省の案内役と妻の順子が一緒に歩いている後から、いかにも興味なさげに「ぺったん、ぺったん、歩いて」いったのだ(15)。礼節を欠いた態度といえるが、これは意識的なふるまいだったのではないだろうか。日本の作家の好感を得て、できれば取り込みたいイラエル政府の思惑に、遠藤が気づかないはずがない。首相をはじめ、イスラエル首脳部と親交がある村松剛の口添えを得て来ていたこともあり、申し入れを断るわけにはいかなかった。仕方なく行くだけは行こうという遠藤のあからさまな態度は、イスラエル政府の思惑とは無関係に、自分は一人の作家として、見るべきものを見るという無言の表明だったと考えても不自然ではないのである。事実、『死海のほとり』で主人公がキブツを訪問する場面を見れば、そこでの描写は、必ずしもイスラエルに好意的なものとはなっていない。彼らがパレスチナの土地における武装した占領者として描かれていたことは、既述のとおりである。

 エルサレム旅行に同行した順子の証言に拠れば、一九五九年、第一回の旅行の際、夜、夫婦で散歩をしていたところ、ヨルダンとイスラエルの緩衝地帯〔バッファー・ゾーン〕に誤って入り込んでしまったという。五分以上留まっていた場合、無条件で攻撃していいと後から知った。大声で警告され続けたことで、ようやく気がついたのだった(16)。「アラブ側は見るからに暗くて、イスラエル側は煌々と電灯がついて」いたが、彼らは「もう少しそこに留まっていたら、銃で撃たれても全然おかしくなかった」のである(17)。

 このときの体験は、遠藤自身も文章にしている。

《何も知らぬ私はその時イスラエル領まではいりこんでいたのである。丘の上から人々の騒ぐのがきこえたが、アラビヤ語を知らぬ私はそれをキリスト捕 縛の夜の群衆のように聞いていたのである。/「あんたは無茶ですなあ」/翌日、私の話を聞いた国連の日本人はびっくりして叫んだ。/「あそこにはいれば、あんたはもう二度とヨルダン領にもどれなかったのですぜ。発砲されて死んでも仕方がなかったのですぜ」(18)》

  笑い話のような書き方を故意にしているが、実際には戦慄を伴う体験であったはずである。そしてこれは、多少の危険を冒しても自分の目で現実を見ようとする作家遠藤に、いかにもふさわしい出来事のように私には思われる。

『死海のほとり』に先だって書かれた短篇「道草」(『文藝』一九六五年七月号)は、このときの旅行を思わせる作品である。中年の日本人夫妻が、二ヶ月間のヨーロッパ旅行の帰りに、エルサレムに立ち寄る。夫は長旅で疲れ切っていて、妻とすぐに喧嘩になってしまう。妻は、娘が聖心女学院中等科に通っていることを自慢にしているが、他の保護者もほとんど行ったことがないエルサレムに行くことで、「単純」なマザーたちの歓心を買おうと考えているのである。夫も高等学校時代、寮の万年床で聖書を真剣に読んだことがあったが、今では「どうせ毛唐の宗教だ。俺たちには関係ない」と口にしてはばからない。妻は「見物したことはしたんだから」といって、証拠のための写真を撮る。要するに、虚栄心が強いだけの、俗物を絵に描いたような夫婦なのである。この夫婦は、作者遠藤とも、遠藤の妻とも、似ても似つかない。どう考えても、これは、エルサレムという土地にも、その土地を巡る血生臭い中東国際政治にも関心が薄い、当時の日本人全体の、イローニッシュな肖像画であろう。イエス探求という主題を中心に据えつつも、イスラエルを舞台にした小説が、どこまで日本人読者に理解されるか、遠藤はこのときすでに、その困難を自覚していたものと思われる。

 遠藤は、パレスチナ問題に強い関心を持っていたと思われるが、『死海のほとり』ではそれを作品中に最小限しか書き込まなかった。自分が日本人であるとの強い自覚を持っていた遠藤は、日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線のメンバーによるハイジャック事件が起きたとき、これをモチーフに、『砂の城』(一九七六年)を書くことで、現代の植民地主義がもたらす暴力について、正面から取り上げるのである。


【註】

1 国際交流基金日本文学翻訳書誌検索に拠る。   http://www.jpf.go.jp/JF_Contents/InformationSearchService?ContentNo=   13&SubsystemNo=1&HtmlName=search.html (二〇一五年三月七日確認)。

2「世界文学システム」という概念は、パスカル・カサノヴァ『世界文学空間――文学資本と文学革命』岩切正一郎訳、藤原書店、二〇〇二年に拠る。

3 既述のように、遠藤の小説家としての第一作は「アデンまで」(『三田文學』一九五四年一一月)とされてきたが、三ヶ月前に発表された「アフリカの体臭」であったことが「慶長遣欧使節団渡欧400年 遠藤周作『侍』展―人生の同伴者に出会うとき」(加藤宗哉・今井真理監修、町田市民文学館ことばらんど、二〇一四年一月一八―三月二三日)の展示で明らかにされた。伊達龍一郎という筆名は伊達政宗に由来するものと考えられる。正宗は支倉常長らを慶長遣欧使節として派遣した人物であり、遠藤が筆名として選ぶのに相応しい人物だからである。すでにこの作品において、支倉常長をモデルにした小説『侍』(一九八〇年)とつながる要素があったようである。『侍』にも「アフリカの体臭」と共通する反植民地主義が描き込まれているが、作品全体に溶け込ませる手法が洗練されていること、またポストコロニアリズムの時代思潮も幸いしてか、諸外国語にも翻訳されている。

4 最初に翻訳されたのは「ジュルダン病院」で、ソヴィエト連邦の雑誌に一九六一年に掲載された。単行本は、やはり一九六一年に『海と毒薬』がロシア語に翻訳されたのが最初である。この小説は一九六七年にアメリカ合衆国で英訳された。『沈黙』は、一九六九年に英国で英訳され、以後数カ国語に翻訳された。スウェーデン語にも翻訳されたのは、ノーベル賞受賞を意識した戦略的な意図からと考えられる。ちなみにイスラーム圏で使用されるアラビア語には一冊も翻訳がなく、シオニズム国家イスラエルの公用語であるヘブライ語には、カトリックの破戒僧を扱った『火山』一冊があるのみである。

5「パレスチナ/イスラエル」という地域呼称は、イスラエル対パレスチナという対抗図式、敵と味方という論理的枠組を乗り越えるべく用いられるようになってきたものである。詳しくは臼杵陽「日米における中東イスラーム地域研究の「危機」――九・一一事件後の新たな潮流」(『地域研究』七巻一号、二〇〇五年六月、一一三―一一五頁)参照。

6 遠藤周作「死海を訪れて」(『東京新聞』一九六九・三・一一)。SEZ13、四五頁。

7 同右。

8 SEZ3、三九頁。

9 同右、一〇二頁。

10 同右、七二頁。

11 同右、八〇―八一頁。

12 遠藤周作「死海を訪れて」SEZ13、四五頁。

13 ヤコヴ・M・ラブキン『イスラエルとは何か』菅野賢治訳、平凡社新書、二八二―二八四頁。

14 同右。

15 遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』文春文庫、二〇〇〇年、一六二―一六三頁。

16 同右、一六〇―一六一頁。

17 同右一六二頁。なお、「道草」(『文藝』一九六五年七月号)には「同じエルサレムでもイスラエル側にはネオンの光が華やかに見えるのに、こちらヨルダン側は、ほとんど灯の数も少ない」という一文がある。

18 遠藤周作「エルサレム巡礼」(『朝日新聞』一九六〇年三月二日)KEZ11、一八二―一八三頁。 


*初出:『キリスト教と文化』14号、2016年3月

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