遠藤周作とアフリカ(3)「黒ん坊」

 遠藤は、一九七一年に『黒ん坊』を刊行した(1)。初期の遠藤が、「白い人」(一九五五年)「黄色い人」(一九五六年)に引き続き「黒い人」を著して三部作としなかったのは、日本人にとってのキリスト教をテーマとしていた遠藤に、黒人にとってのキリスト教やイスラム教、あるいはアフリカの神話世界に対する関心も知識もなかったからである。もっともこれは、遠藤がヨーロッパの白人世界にのみ関心を抱き、その植民地であったアフリカに無関心だったことを意味しない。既述のごとく、「アデンまで」に先立ち、伊達龍一郎名義で書かれた第一作が「アフリカの體臭」だったように、アフリカは大きな意味を持っていた。だがそれは、近代西洋の植民地主義を逆照射するという意味に限定されていた。

「白い人/黄色い人」という初期遠藤の問題意識は今日でも意義を失っておらず、それを踏まえて前節に引き続き本作を考察することは価値ある試みといえる。遠藤の中間小説研究は純文学作品に比べて不当なまでに手薄だが、本作に先行研究がないのは、タイトルにまとわりつく差別的語感が影響していないこともないだろう。黒人はこのテクストで、どのように表象されているのだろうか。

 遠藤が『黒ん坊』のモデルである戦国期の黒人奴隷を知ったのは、一九六〇年代半ばのことである。『沈黙』(一九六六年)執筆のために切支丹史を研究するなかで、遠藤は松田毅一『南蛮史料の発見――よみがえる信長時代』(中公新書、一九六四年)を読み、織田信長に仕えたモザンビーク出身の黒人「彌介」に興味をそそられたのである(2)。「黒人の来日だが、松田毅一教授の『南蛮史料の発見』には、さまざまの面白い逸話があって、その中に、日本にはじめて黒人がきたのは信長の時代であったことを教えてくれる。[……]この黒人の話は私の興味を甚だひくが、あまり人も知らぬようだし、今日まで小説などでも描かれていないのではないだろうか。」と遠藤は記している(3)。次の文章もある。「私はかつて必要あって、信長の頃に日本にやってきた南蛮宣教師の通信文をかなり読んだが、宣教師たちは秀吉や家康よりもはるかに信長を(彼等の功利的な意味もあるが)激賞している。/信長が生れて初めて黒人を見たエピソードなど、はなはだ愉快である。/信長が京都にいる時、宣教師が謁見に出かけたが、その時、この宣教師の従者に一人の黒人がまじっていた。(おそらく日本で最初に来た黒人であろう)」(4)。これらの文章から、遠藤が史料に現れた黒人に、強い印象を受けたことがうかがわれる。

 それまでに、遠藤は黒人一般とどのような関わりがあったのだろうか。最初はターザン映画だった(5)。この映画が、黒人を野蛮な存在として描き出していたことは今や常識といってよい。現実の黒人を遠藤が見たのは、敗戦後の占領軍兵士だった。大連で幼少時代を過ごした遠藤にとって、白人(ロシア人)は珍しくなかったが、黒人の姿はそこでは見られなかったのである。黒人との本格的な出会いは、留学のために横浜港から乗船したフランス船四等船室で一緒になった北アフリカの植民地兵であった。同船した井上洋治は青い顔で「クロンボがいる」。「俺たち、クロンボと一緒だぞ」と言い(6)、見送りの柴田錬三郎は、「お前、神戸に行くまでに、あいつ等に食われてしまうぞ」と言った(7)。一九五〇年の出来事を一九六七年に回想したものであるが、「クロンボ」の食人幻想が、半ば冗談としてこの時期まで語られたことがわかる。「戦後まもないその時まで我々日本人は米国の進駐軍にまじっている黒人のほか黒人を知らなかったし、まして褐色の白い入墨をしたアフリカ人など見たことはなかった。柴田さんの言葉はとりもなおさず私たちの気持そのものだった」と遠藤は記している。だが、同室で過ごすうちに気心が知れ、彼らに対する認識は大きく訂正されることになったのは既述のとおりである。ちなみに、単行本『黒ん坊』カヴァーの題字は柴田である。遠藤は二〇年前の柴田の言葉を覚えており、この小説は柴田への遅い返礼でもあったのだ。なお、装幀挿画は秋野卓美だが、別の画家による角川文庫版、遠藤周作文庫版と異なり、表紙に黒人の絵はない(8)。

 次に遠藤が接したのは、リヨンの下宿にいた北アフリカ出身の黒人学生ポーランだった。大学にも黒人学生がいた。遠藤は前者をモデルにして短篇「コウリッジ館」(一九五五年)を書き、後者からは、評論「有色人種と白色人種」(一九五六年)を書いた。小説と評論で、白人世界に置かれた黒人の現実を浮き彫りにしたのである。つまり、戦国時代の黒人と出会う以前に、遠藤には黒人と、かなり長いかかわりがあったのである。頭の片隅には、常に黒人の存在があったと思われる。フランス本国の黒人は、自分の目で見て知っていた。しかし、日本国内の黒人についての知識は乏しかった。それゆえ、日本史の重要な時期に、キリスト教宣教師が連れてきた黒人がいた事実を知り、強い興味を持ったのであろう。

『黒ん坊』が連載された一九七〇年には、大阪で日本万国博覧会が開催されている。遠藤は、坂田寛夫、三浦朱門とともに、「目と手――人間の発見」というテーマを掲げたキリスト教館のプロデューサーを務め、この国家的プロジェクトに深く関わった。カトリック教会とプロテスタントが合同で行う事業であることに共感したからであった。日本万国博覧会は、一九六四年の東京オリンピックに継ぐ、アジア初の博覧会であり、日本を含む世界七七ヶ国が参加した。アフリカからも、ザンビア、アルジェリア、エチオピア、象牙海岸(現コートジボワール)、タンザニア、ガーナ、マダガスカル、ウガンダ、ガボン、中央アフリカ、ナイジェリア、モーリシャス、シエラレオネの諸国が参加している(9)。万博のテーマが「人類の進歩と調和」であったように、科学技術とともに世界は進歩しており、それが人類を幸福にすると当時の日本人は考えていた。日本は「先進国」の一員であり、アフリカは明らかに「後進国」だったが、遠いアフリカが、一気に身近に感じられる機会ではあった。このイベントへの関与が遠藤を刺激し、本作の執筆を強く促したのかもしれない。

 遠藤はこの作品を、良くいえばドタバタ喜劇的な、悪くいえば低俗でくだらない通俗小説として書いた。江戸の戯作文学に見られる笑いの文学伝統に、遠藤は親近感を抱いており、世の「ユーモア文学」という言葉にも「クソマジメな作品にたいして劣っているという感じがひそんでいる」と反撥していた(10)。したがって、笑いの文学を書こうというのが積極的な理由だったと考えられる。外国人の内面を描くことに畏れを感じていたので、黒人の内面を描くことに困難を覚えたことも、消極的理由としてはあっただろう(11)。

 第一章「異形の者」で、宣教師ヴァリニャーノの手で信長の前に参上したツンパ・フランソワ・アシジ・ステファノ・オウグスチーヌは、芸を求められる。「小鼓を手にとると黒人は子供のように嬉しそうに眺め、指で二、三度、音をたしかててためしてから、急に腰を前後にふっておどりはじめた。意味のわからぬ言葉で唄を歌う」。「ブー、ブー、ブー/プー、プー、プー」「高く、低く、強く、弱く、リズムをつけて、得意満面の彼は、屁をもって音を奏していたのである」。演劇的に誇張した所作が描かれるばかりで、作者は彼の内面を描かない。ツンパは、終始一貫、情けなく、ぐうたらで、滑稽で、笑われる対象として描かれている。「このツンパは気が弱く、臆病で、ブンガ族の集落にいた時も、狩りでは役に立たぬゆえ、奴隷商人に売られたのである。たらふく食べてぐうぐう眠り、陽気に唄を歌うことが彼の夢であった」。故郷でも落ちこぼれだったという設定である。

「笑われる他者」としての白人を、遠藤は『黒ん坊』の一一年前に書いている。評価が高い『おバカさん』(一九五九年)がそれである。主人公ガストンは、ナポレオンの血を引くフランス人という設定だが、子供のように純粋なところがあり、ばかにされながらも、愛すべき人物として描かれている。ガストンが子犬を連れている代わりに、ツンパは象を従えている。彼らが笑われるのは、自分が投げ込まれた文化のコードを子供か愚者のように侵犯するからである。「大きな子供」のようなところが彼らにはある。違いはただ、白人か黒人かという相違である。そして、ガストンもツンパも、カトリック信徒なのである。

 ツンパは「総身黒うて牛のごとくだが、心は雪の名のごとく白い」とされている(第三章「野望の人々」)。近代という時代が定式化した図式は、白人が差別する側で、黒人は差別される側であった。また、ガストンがやってくる日本は白人世界との戦争に敗れて間もない東京だが、ツンパがやってくるのは戦国時代の日本である。ガストンは人間として遇されているが、ツンパはほとんど動物として扱われている。第七章「証拠」では、ツンパは文字通り「見世物」になる。笑う側は文明に属し、笑われる側は野蛮に属している。たといそれが言語的虚構にすぎないとしても、実際にそれが作動する歴史的現実がある。

 読者が白人ガストンを笑う場合に感ずる心理的優越感と、黒人ツンパに笑うと場合のそれとは同じではあるまい。ガストンは、白人であるにもかかわらず滑稽なのであり、ツンパは黒人であるがゆえに滑稽なのではないか。外国映画や小説などに登場する黒人の表象が、劣等の刻印を押されたステロタイプなものであり、そうした白人のまなざしを、われわれも内面化してきたからである。それが「有色の帝国」(12)の残存意識に繋がることを、今日のわれわれは気づいている。裏を返せば、作者も含めて当時の日本人は、それが自覚されていなかったということではないだろうか。しかし、本当にそうなのか。

 遠藤は人種問題を我がこととして理解している作家であり、発表の舞台となった『サンデー毎日』も、リベラルな週刊誌であった。『黒ん坊』が連載され、単行本化され、二年後には文庫化までされたのは、作者も編集者も読者も批評家も、要するに当時の日本人全体が、それを全く問題視しなかったことを証している。『黒坊物語』の題で刊行されたこともある「ちびくろサンボ」が黒人蔑視とされ、各社一斉に絶版となるのは一九八八年である(現在は入手可能)。このできごとの社会的背景としては、日本国首相や政調会長の発言に対するアメリカ黒人議員連盟の抗議もあったと指摘されている(13)。

 角川文庫版の解説者は、ドイツ文学者小松伸六である。彼には「ドイツ文学におけるフモール」(『早稲田文学』一九七七年一月)があるが、『黒ん坊』の笑いに関する比較文学的考察はない。彼はこの作品を「奇想天外な時代小説」といい、「二十世紀の日本でも、田舎に黒人があらわれたら、やはり目につくのではないだろうか。それは人種差別というようなものでなく、くろいもんだなあ、世界は広いんだなあ、といった素朴な驚きである」と記す。トーマス・マンやナチスに抵抗したケストナーの翻訳がある人だが、小松はこの作品に登場するルイス・フロイスやオルガンチーノ神父を「毛唐」と記していて驚かされる。小松がいうとおり、ツンパが「善良で無垢な自然児という設定である」ことは確かだが、黒人をそのように表象することには、西洋社会の長い伝統がある。小松の解説は、黒人をとりまく歴史的文脈を一切省みないもので、啓発されるものがない。

『黒ん坊』の解説を書いた三年前、小松は遠藤の小説「協奏曲」の文庫版解説を執筆しているが、ここで彼は驚くようなことを記している。イタリア人と結婚した小松の次女は、在住する南チロル(旧オーストリア領、現イタリア領特別地区ビピティノ)で、現地の子供たちからよく唾をかけられたというのである。また、一九六〇年代の終わりに小松自身がミュンヘン大学構内で「アジア人、下宿おことわり」というビラを見たことがあったという(14)。西洋白人世界の人種主義(有色人差別)について、そのような体験を持つ人であるので、『黒ん坊』に関する記述は、ことさら遺憾に思われるのである。もっとも小松は「単一民族、単一言語の日本ではあまりないことだが」と記しているので、西洋の人種主義については理解していても、日本の人種主義に対しては無自覚だったのかもしれない。「単一民族、単一言語」であるがゆえに、有徴の者に対する排除は苛酷であるとも考えられるからである。  遠藤に評論「有色人種と白色人種」があることはすでに述べた。フランス留学体験を踏まえ、白人世界に置かれた黒人のリアルな状況を冷静に観察して分析を加え、そこから有色人種たる日本人の在るべき姿について真摯な思索を展開している。実は小松は「協奏曲」解説で、遠藤のこの論考にも触れていた。彼は遠藤のフランス船内で受けた差別体験に触れ、ヨーロッパには「こんな苛酷な人種差別があった。いや、多分、現在でもあるだろう」と記しているのである。

 人種主義に関するそのような文章を書いた作家であるにもかかわらず、遠藤が黒人を笑われる存在として描いたのはなぜなのか。ここでわれわれは、ツンパだけが笑われる対象なのではなく、秀吉のような権力者も、読者の笑いを誘う存在として描かれていることに着目しなければならない。

『黒ん坊』では、荒唐無稽の哄笑とスカトロジーが全編に溢れている。これらは遠藤の純文学系列の作品群においては徹底的に抑圧されている。当時、遠藤は『沈黙』に続く純文学小説として、『死海のほとり』に結実する連作を執筆していた。新約聖書の福音書でイエスが一度も笑わないように、『死海のほとり』は笑いの欠落した深刻な小説である。さきに記したとおり、笑いの文学的伝統への親しみが遠藤にはあったが、キリスト教と笑いとの親和性は薄いと考えていたようである(15)。「日頃、聖書に親しんでいるはずのキリスト者自身が、聖書のユーモアについて、ほとんど知るところがないのが実情である」という宮田光雄の言葉は、遠藤にもあてはまるようだ(16)。純文学作品で抑圧された哄笑を、中間小説で解放したいと考えたのではないか。『黒ん坊』の笑いの世界は、『死海のほとり』執筆が強いる緊張による硬直から、精神の柔軟性を護ってくれるだろうから。

 さて、荒唐無稽の哄笑とスカトロジーとはいかなるものか、ツンパが信長の前で放屁しながら踊り狂う第一章から、象が肥溜から人糞を吸い上げ、秀吉ら五〇騎の兵に吹きかける最終章のスペクタクルまで、具体例を拾い出すことは容易い。第一章で、槍術の達人一柳俊之介が、三年の修行の末に得た免許皆伝の封書に「心なき、身にもくささは知られけり/湯気立つ糞の秋の夕暮」とあるのは序の口である。豊臣秀吉を寂光が訪ねる場面が第六章「覇者」にある。そこで秀吉の漢詩(狂詩)が三首紹介される。句点を補って順に示せば「道 道 道 脱糞。無紙 以手 拭。惜之 而食之」。「欲垂臨雪隠。雪隠中有人。咳払尚未出。幾度吾身震」。「椀椀椀椀亦椀椀。亦亦椀椀亦椀椀。夜暗何匹頓不分。始終只聞椀椀椀」となる(送り仮名は省略)。秀吉の呆れた「漢詩」に読者は笑うことになる。第四章「密使」では、桑実寺に残された寂光の書が紹介される。曰く「老翁 飲酒 酔死。老婆 驚愕 頓死」と。これを作者は「みごとな字であり、みごとな詩である」と評するのである。スカトロジーと狂詩といえば、蜀山人大田南畝にも『通詩選笑知』に「屁臭」と題する狂詩がある。曰く「一夕燗曝。便為腹張客。不知透屁音。但有遺失跡」と(17)。

 遠藤のスカトロジーに、江戸の滑稽文学との親和性を見るのは容易である。旧制中学時代の愛読書だった十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも、初篇の冒頭間もない箇所に以下の狂詩がある。「雖非亡命可奈何。借金不報㩮尻過。夫居本貫掛乞衆。将是川向成干戈」(18)。戦争が始まり、弥次喜多的人間を国家が許さなくなったころ、この本はふたたび輝きを増して遠藤の前に現れた。あるとき「自分は戦争中、日本人を信じたいために膝栗毛を読みました」と渡辺一夫から聞いた遠藤は、我が意を得たりと思った(19)。

 その渡辺が戦争中に訳したフランソワ・ラブレー「ガルガンチュワとパンタグリュエル 第一之書ガルガンチユワ物語」第一三章の「短詩」は以下のごとくである。「先日脱糞痛感。未払臀部借財。同香而非同香。濛気芬々充満。何人許諾欣然。希携行我佳人。善哉善哉。欣然塞小用孔。野人常不習礼。佳人敢弄繊指。得探我峡間穴。善哉善哉」(20)。訳者略註で渡辺は「全くの戯訳」と記すが、遠藤の狂詩は、『東海道中膝栗毛』を介して戦時中の苦衷を肝胆相照らした渡辺への、返礼でもあったはずである。渡辺訳ラブレーの笑いは「心の底から人生を肯定する」エネルギーに満ちた笑いだと、遠藤は考えていた。それは近代文学が好んだ「嗤笑や風刺の笑い」と違い、人間を孤独をより深めるものではなく、疎外された人間と世界との結びつきを回復させるものなのである(21)。

『東海道中膝栗毛』には、女性の尊厳を傷つける記述が多いが、全編に溢れるスカトロジー感覚と、そこから生じる笑いが特徴である。江戸のスカトロジーと笑いは、遠藤が帰依したキリスト教の倫理におよそ制約されぬ、端的に卑俗で下品な世界だった(22)。その下品な笑いの世界、「オコ(烏滸)」の世界に、近代文学が切り捨てた可能性があると遠藤は考えていた。「今の日本の純文学雑誌にはオコの文学伝統をまったく拒絶はしなくても軽べつするような気風が巖としてある」(23)のを遠藤は腹立たしく思っていた。

 講談研究家田邊孝治は、遠藤周作文庫版解説で、遠藤が戯作者であり、同時に「大きな苦悩を秘めた現代の文学者である」と述べ「氏の内部には、この二者が奇妙な形で、しかし実に巧妙に混在してゐるとしか思へない」(24)とする。これは遠藤文学全体をロマネスク教会建築に喩えてみればよい。聖人がいる重厚な正面が純文学系列の作品であり、奇妙な動物や滑稽な身振りの世俗的人物彫刻が見られる廻廊が中間小説である。教会が正面だけでできていないように、遠藤文学全体は、多くの中間小説で支えられている。したがって、中間小説の重要性に無自覚では、遠藤文学の全貌を明らかにすることはできない。

 さて、連載当時の日本は、今日とは異なり、都市部でも田畑には肥溜があり、家庭用汲取式便所も多く、列車の便所も新幹線以外は線路に直接撒く開放式で、糞尿に関する笑話は誰にも身近だった。しかるべき時と場所をわきまえない放屁や脱糞は、場違いなものゆえ笑いを誘う。遠藤はカトリック信徒であったので、神学的知見を参照すると、スカトロジーという問題設定が可能なのは、理性と肉体を持つ人間においてのみであることが浮かび上がる。トマス=カトリック的世界観に照らせば、天使は肉体を欠いた純粋に理性的な存在であり、動物は肉体を持つが理性を持たない存在である。自然界の動物には、場をわきまえた排便はありえず、放屁に羞恥心を覚えることもない。また、スカトロジーは、人間の天使的要素ではなく、動物的要素を強調する思想でもある。この作品においては、ともすれば自分を天使と同一視する「天使主義的虚偽」(25)に陥りがちな近代的人間、それを牽制のための文学的手法として、スカトロジーが機能している。そもそも、神学的には、動物という類のなかに、理性を有する動物(人間)と、理性を持たない動物(獣)という種があると考えるべきなのである(26)。このように考えると、作者がどこまで意図していたかは不明だが、スカトロジーをもってこのテクストが表現しようとしているものの一つは、動物を人間以下の存在とする西洋的世界認識への揺さぶりとも解釈できよう。

 前節で人間と動物について若干を述べたが、神―天使―人間―動物、というキリスト教的階層構造の図式を参照することは、遠藤文学を考える上で有効である。本作では、神―天使の部分が隠されており、人間と動物との関係が顕在化している。人間のなかに、近代西洋はさらに、白人男性―白人女性―有色人男性―有色人女性という階層を設けた。これはそのまま権力構造となっている。ツンパは、動物に近い存在として造形されているが、それは即ツンパが「野蛮」であるということを必ずしも意味しない。遠藤は動物と人間の関係を、単純な上下関係でとらえてはいないからである。

 遠藤はキリスト教徒ゆえに、神―天使―人間(白人―黄色人、男性―女性)―動物という西洋的序列意識に違和感を抱いた。そこで、「月光のドミナ」では、強い白人女性と弱い日本人男性との権力関係を描き、「男と猿と」(一九六〇年)では、労働者階層と知的障害者の白人男性、日本人留学生、公園の猿を登場させて、それぞれの流動的な権力関係を描いた(27)。そして『黒ん坊』の後には、『彼の生きかた』(一九七五年)で、西洋の動物観とは根本的に異なる、日本人とニホンザルとの濃密な関係を描き出す(28)。

 つまり、ツンパと周囲の日本人たちとの関係も、丁寧に分析する必要があるのだ。ツンパと上下関係ではなく横の関係を持つのは、身寄りのない少年(乙吉)、女性(雪)、そして動物(象)である。日本人のなかにも、織田信長のような権力者が頂点にいて、底辺には無名者の群がいる。ツンパはこの作品のなかで、日本人一般から笑われる存在なのではない。彼を虐げるのは権力者であり、登場人物たちは、彼と同列か、ほとんど上下関係を感じさせない立場なのである。ツンパは確かに「笑われる他者」ではあるが、ただひたすら笑われるだけの存在ではない。読み進めるうちに理解されてくるが、彼は、共感と友愛の対象でもある。ツンパは「われわれと違う」存在から「われわれと同じ」存在へと変容していく。それゆえ、第一節での主張は次のように言い直さねばならない。この小説は、一見すると、白人を上に、そして黒人を下にみる近代西洋の支配的な語りを無批判にミメーシスしているかに見えるが、徐々にそれが対抗的な語りになっていくのである、と。

「江戸時代はじめの権力者は、秀吉の猿や諸大名の猛犬のような好みが強かったようだ。[……]徳川家康は、オランダ人から虎の子とインコとを贈られて、これを江戸にいるふたりの孫、のちの家光とその弟に遣わした。[……]ペットになりにくいものを飼うのは、海外の地からの入手品のなかでも生きものは権力を誇示するのにとくに有効だったからでもあり、また常人には畏れられる動物を飼い馴らすことの力を自他ともに明らかにするからでもあった」と塚本学は記している(29)。信長が彌介を側に置いた理由にも、黒人=動物による権力誇示の意味合いがあったであろう。

 本作では、ツンパが属する世界で、人間と動物との境界が曖昧になる。第八章「怒れ、黒ん坊」には、いつしかツンパの仲間となる忍者佐助が、ツンパが「黒豹のような身軽さ」で岩から岩へと渓流を跳ぶ姿に驚く場面がある。「南の阿弗利加国など知らぬ佐助には、仲間と草原を走り、断崖を駆けたツンパの「幼年時代を想像しえない。食糧となる獣や鳥を追ってジャングルに小屋をつくって一夜をあかす黒人の生活を知らない。佐助が山での修行によって得たものもツンパは狩や毎日の生活から学んでいたのである」。未開で野蛮なアフリカというステロタイプが再表象されているとも見られるが、ツンパの運動神経に感心する佐助が、「犬男」と別称されていることは見逃せない。佐助の師は動物なのであり、ここでは通常考えられる立場が転倒している。動物的であることが、佐助がツンパに賛嘆する根拠となる。そもそも動物は、人間以上に誇り高い存在なのではないだろうか。  図式的にいえば、遠藤は、人間と神との関係を純文学作品で追求し、人間と動物との関係を中間小説で追求した。カトリック作家と神をモチーフにした『死海のほとり』は『黒ん坊』と繋がり、霊長類学者とニホンザルをモチーフにした『彼の生きかた』にも繋がっている。『彼の生きかた』で遠藤は、「同伴者イエス」(30)ならぬ「動物の同伴者」(31)としての人間を描き出し、神―人間―動物を捉える透徹したまなざしを獲得するのである。

『黒ん坊』というタイトルは、読者を身構えさせる。黒人に対する社会的まなざしが変化し、この言葉自体がスティグマ化されているからである。しかし「くろぼう」「くろんぼう」「くろんぼ」といった言葉自体、長い歴史を背負っており、『日葡辞書』や節用集、『倭訓栞』を参照しても、その示すところは現代とは大いに異なるのである(32)。

 この作品が黒人の尊厳を傷つける作品でないとは言い切れない。人種問題の繊細さに理解がある作家が、細心の注意を払って書いた作品には見えないからだ。だが、単純な黒人蔑視だけの小説ともいえない。『黒ん坊』は、研究者にさまざまな視点からの熟考を迫り、容易な合理化を拒むテクストなのである。本稿はその糸口となるべき一考察にすぎない。

 生涯をかけて遠藤が取り組んだ、日本人にわかるキリスト教の探求とは、西洋的「普遍」の価値観を相対化することでもあり、そこには感受性の西洋化(=植民地化)への抵抗も潜んでいた。西洋文化が持つ強力な同化作用への抵抗は、本作では、江戸のスカトロジーを介して、肉体を持つ動物という人間認識の強調と結びついて表現された。人間と動物の序列すら流動的なこの世界では、驚くべきことに、世俗的な序列も、肌色の違いによる差別も、「神」の下での人間がそうであるように、完全にその意味を喪失するのである。


【註】

1 初出は『サンデー毎日』一九七〇年六月二一日号―一九七一年三月二八日号。一九七一年五月に毎日新聞社から単行本化。一九七三年六月に角川文庫、一九七五年二月に講談社遠藤周作文庫版刊行。新旧『遠藤周作文学全集』(新潮社)には未収録。本文は、冒頭の「天正八年」が同九年に遠藤周作文庫版で変更されたほかは、踊り字の表記など些細な異同があるのみで、文章の大幅な変更はない。

2 彌介については藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店、二〇〇五年、第一章に詳しい。「彌介」の名は『家忠日記』初出という。

3 遠藤周作「遠くから来た人」『異邦人の立場から』日本書籍、一九七九年、二八六―二八七頁。初出は『芸術生活』一九六四年一二月。

4 遠藤周作『ぐうたら人間学』講談社、一九七二年、五五―五六頁。これは『夕刊フジ』(一九七二年一月―五月の連載「狐狸庵閑話」をまとめたものである。

5 遠藤周作「ぼくたちの洋行」『ぼくたちの洋行』講談社、一九七五年、三八―三九頁。初出は『小説新潮』一九六七年一〇月。ターザン映画における表象のアフリカについては、藤田前掲書、第四章第三節が詳細をきわめている。

6 同右、三五頁。井上は当時カルメル会修道士。司祭となり遠藤と終生親しかった。

7 同右、三六頁。なお『落第坊主の履歴書』(文春文庫、一九九三年、一三九頁)、及び『忘れがたい場所がある』(光文社文庫、二〇〇六年、八九頁)にも同種の記述がある。慶應義塾大学卒業の柴田は「イエスの裔」で、一九五二年に直木賞を受賞する。

8 毎日新聞社版は一八枚の挿画を収録する。ステロタイプな黒人の描き方を、秋山はどの画でもしていない。黒人を描くのは六枚。二枚は遠景か後ろ姿。戦災孤児一六人の笑顔に囲まれたツンパの全身を描いた二〇七頁の画はとりわけ印象的である。

9『日本万国博覧会公式ガイド』日本万国博覧会協会、一九六九年参照。

10 遠藤周作「笑いの文学よ、起れ」SEZ13、三六〇頁。初出は『東京新聞』一九六五年九月一六、一七日。

11 遠藤周作「外国人を書く」SEZ13、三二七―三二九頁。初出は『文學界』一九八二年一月。「小説で外国人の宣教師を登場させたことが再三あった。しかしその時、小心な私はいつもどこまで外国人がわかるかという不安がつきまとっていた」。

12 小熊英二『<日本人>の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、一九九八年、六六一―六六七頁参照。小熊は、有色人種の植民帝国だった日本を「有色の帝国」という言葉で概念化した。白人への憧れと反撥というアンビヴァレントな感情は、現代にも残存すると小熊は指摘している。

13 杉尾敏明・棚橋美代子『焼かれた「ちびくろサンボ」――人種差別と表現・教育の自由』青木書店、一九九二年、三四六頁。本書は焚書から絶版に至る詳細を記す。

14 小松伸六「解説」遠藤周作『協奏曲』講談社文庫、一九七九年、二四四―二四五頁。

15 小川国夫、加賀乙彦、高橋たか子といったカトリック作家の作品にも、笑いの要素は乏しく、随筆等でも、キリスト教と笑いを結びつける思索は見当たらない。

16 宮田光雄『キリスト教と笑い』岩波新書、一九九二年、七二頁。

17『『大田南畝全集』第一巻、岩波書店、一九八五年、四一六―四一七頁。永井義男『江戸の糞尿学』作品社、二〇一六年、一二一頁に教示された。

18『新編日本古典文学全集81 東海道中膝栗毛』小学館、一九九五年、五二頁。

19 遠藤周作「私の『膝栗毛』」SEZ13、二三九頁。初出は『日本古典文学全集』48 月報、小学館、一九七五年。遠藤は中学校の国語教師からこの作品を教えられた。

20 フランソワ・ラブレー『第一之書ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳、岩波文庫、一九七三年、八九―九一頁。同書の単行本初版刊行は戦時下の一九四三年である。

21「笑いの文学よ、起れ」SEZ13、三六一―三六二頁。

22 遠藤が深い関心を抱いたマルキ・ド・サドにもスカトロジーはあるが、無神論者サドの場合は、カトリシズムとの鋭い緊張関係を抜きにこれを考えることはできない。

23 前掲「笑いの文学よ、起れ」SEZ13、三六〇頁。

24 田邊孝治「戯作者狐狸庵――解説」『遠藤周作文庫・黒ん坊』講談社、一九七五年、四八七頁。この解説で講談本と本作との関連に踏み込んでいないのは遺憾である。

25 モーティン・アドラー『天使とわれら』稲垣良典訳、講談社学術文庫、一九九七年、第四章参照。人間は人間を語りながら、実は天使について語り、それに気づかない。

26 稲垣良典『天使論序説』講談社学術文庫、一九九六年、一八三頁。稲垣がこの区別を、生物学的分類ではなく哲学的分類として語っていることに注意が必要である。

27 第四章第一節及び第九章第一節参照。

28 第九章第二節参照。

29 塚本学『江戸時代人と動物』日本エディタースクール出版部、一九九五年、二一九―二二〇頁。生類憐令など、近世日本人と動物との関係には興味深いものがある。

30「同伴者イエス」への私の考察は、第九章第四節参照。『死海のほとり』については、第八章第一節も参照。

31『死海のほとり』での同伴者イエスの幻影と、『彼の生きかた』での猿を従えた主人公との照応については、第九章第三節参照。

32 藤田前掲書、一八―一九頁。四八―四九頁。六〇―六二頁。「黒坊」が意味する範囲は時代により変化し、安土桃山時代と江戸時代でも異なっている。


*初出:『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた、異文化理解と対決の諸相』関西学院大学出版会、2017年 

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