遠藤周作とアフリカ(2)〈ポーラン・シリーズ〉

 評論「神々と神と」で批評家として出発した遠藤は、フランス留学後、「白い人」(一九五五年)で芥川賞を受賞して小説家として再出発を遂げた。彼はその後、「黄色い人」(一九五六年)を書いた。日本人とキリスト教という、遠藤の生涯を貫く思想的主題がそこに込められていたことは事実だが、前節で見たように、「白い人」に先立つ「アフリカの體臭」(伊達龍一郎名義、一九五四年)「アデンまで」(一九五四年)で提示されていた、ヨーロッパ白人社会における有色人差別という主題も消えてなくなったわけではなかった。初期の遠藤文学には、マルチニック島出身の黒人思想家フランツ・ファノンと共通する近代西洋植民地主義に付随する有色人差別への怒りが底流していたのである。とはいえ、彼は続けて「黒い人」を書くことはなかった。

 ターザン映画でしか黒人を知らなかった遠藤にとって、生身の黒人との出会いは、敗戦後の東京で見かけたアメリカ占領軍兵士だった。少年期を満州の大連で過ごした遠藤にとって、ロシア人は珍しくはなく、国際都市神戸に暮らすようになっても、夙川教会のフランス人神父の存在などが身近におり、白人と接触する機会は、日本人にしては豊かであった。けれども、黒人と触れ合う機会は、ほとんどの日本人と同様、乏しかったのである。

 一九五〇年に横浜港からフランス郵船の旅客船でマルセイユに向かったとき、四等船室で同室だったフランスの黒人植民地兵たちとの遭遇が、黒人との本格的な出会いだった。サイゴンで彼らが下船するまで、遠藤は同じ室内で彼らと交流をすることになった。最初はどのようにふるまってよいか困惑した遠藤が、徐々に彼らと親密になっていった経緯はいくつかのエッセーに記されている。

 ところで、注意深く遠藤の仕事を見ると、純文学系列のいくつかの作品にも彼は黒人を登場させている。すなわち、「コウリッジ館」(『新潮』一九九五年一〇月号)、「異郷の友」(『中央公論』臨時増刊号、一九五九年一〇月)「ルーアンの夏」(『群像』一九六五年三月号に「留学」第一章として発表)、「黒い旧友」(『別冊文藝春秋』一三二号、一九七五年六月)がそれである。「コウリッジ館」については、ポストコロニアリズムにとって重要な人種問題の視点から分析した先行研究がある(1)。しかし、これらの四作は、いわばシリーズとして統一的な視点から考察することが必要である。ことに「異郷の友」を除く三作は、計算したかのように一〇年ごとに執筆されており、人物の設定状況も重なるなどの共通点があることに加え、何よりもそこで描かれる黒人像が大きく変容しているからである。筆者は「コウリッジ館」については以前に詳しく分析したことがあるが(2)、本稿では、後の三作と合わせて改めて論じることとする。

 個々の作品を考察する前置きとして、遠藤が留学した当時のフランスの大学生が置かれていた状況と、黒人差別を巡る状況について、これまでの遠藤研究では参照されることがなかった瀧澤敬一(一八八四―一九六五)の文章を一瞥しておくこととしよう。

 遠藤がルーアンからリヨンに移ったのは一九五〇年九月のことである。一〇月一四日土曜日の日記に、「瀧沢敬一老を訪問する。よくしゃべる元気な老人である」との記述がある。翌日の日曜にも「瀧沢老人、三雲兄弟とルージュ=クロワという所にある老人の田舎家にあそびに行く。成程老人が自慢するだけあって、なかなか気持のいい別荘である」記されている。瀧澤敬一は、横浜正金銀行員で、リヨン支店に異動してからフランスに長期滞在し、フランス人の妻を娶り、第二次世界大戦中も現地に止まった人で、フランス事情を伝えた著書『フランス通信』(岩波書店)は、一九三七年の第一集から、一九五二年の第一〇集までシリーズとなって日本国内でよく読まれた。三浦朱門の証言によると、遠藤は瀧澤に会ったときに、「フランスの捕虜になった日本兵みたいな気がした」と三浦に語った。これはおそらく、当時の自分の姿を瀧澤に投影したのであって、遠藤は自分がフランスの捕虜になった日本人のような気がしていたのだと三浦は分析している(2)。これまで遠藤研究において、瀧澤の文章を参照したものはないが、一九五〇年前後の瀧澤の文章には、遠藤が学生としてフランスにいた当時のようすがよくわかるので、少しく見てみることとしよう。

「月謝も本も下宿も恐ろしく上つて、パリ遊学費は少くも月二万と言はれ、中産者では骨が折れる」。「政府の給費生は年額七万フラン、三度のめしを二度にしやっと寝るだけでこの倍はかゝる。まして内職は出来ず勝手の知れない外国人留学生だと、余程貰はなくてはパリの学生生活は出来ない。大学都市の学生会館は室数に限りがあつてなか〱もぐり込めず、第一に宿舎が頭痛の種、妻を得んとせば先づアパートを確保せよとの格言を準用して、下宿が先入試は後となる」(3)。これは瀧澤が一九四九年一月に書いた文章である。フランスの学生は、経済的に裕福とはいえない戦争犠牲者の子女であっても、明朗快活で苦学生という印象を与えない。「若駒の意気に燃えてあまり広くない大学の門に突進して行くのは、文化国フランスの為に慶賀すべきことであらう」と結んでいる。

 これは、「学生生活の苦しさは、日本だけではありません」と述べ、リヨン大学の生活には月に一五〇〇〇フランは必要だという遠藤の証言ともほぼ一致する(4)。五〇〇〇フランの差額は、おそらく首都パリと地方都市リヨンとの物価の差に帰因するものであろう。フランスの質素な女子学生の姿を見て、遠藤は三年前の慶應大学の女子学生の方がよほど贅沢な服装をしていたと驚いている。

 さて、瀧澤には「白皙人の国に住んで」という文章がある。一九五〇年九月四日の『毎日新聞』に掲載されたものだが、この時期のフランス本国における有色人差別の証言であり、見過ごすことができない重要なテクストである(5)。瀧澤は、冒頭でまず、「フランス帝国の一部であるフランス熱帯アフリカ(A・E・F)のセネガル」出身のある青年が体験したエピソードから語り起こす。パリにやってきてホテルを探すが、どこも満室ですと断られる。そこで電話で宿泊を申し込んだところ、二つ返事で部屋がとれた。ところがいざホテルに到着すると、「あれだけ上手にフランス語を喋つたお客の顔がまつ黒とあつて急に風向きが変り、色々申訳をしてどうしても泊められない理由を説明した」。アメリカ人観光客が黒人を喜ばないからだというのである。「フランス本国こそ世界一自由の天地と信じて来た青年は落胆もし憤慨もしたのである」。瀧澤は、セネガル人を「あの地方の土着民は黒光りする愛嬌者」と表現している。この文章は、全体としてはフランス本国人の黒人差別を批判するものとなっているが、「黒光りする愛嬌者」とは、粉末飲料「バナニア」の広告に見られるステロタイプなセネガル人イメージそのままである。要するに、大きな子供としての黒人イメージである。

《私はフランスに住むとは思ふが白人国だと考へたり感じたりしたことはない。顔の色で差別待遇を受けた覚えは更になし、日常こんなことは話題にも上らないからである。フランスが誰にも住みよくて「二つの故郷がある、自国とフランスだ」なる諺を生んだ所以であらう。/白皙人種といふがラテン系で南国の男などは白いとは思へない。目鼻の恰好こそ違へ顔色だけではわれ〱と五十歩百歩のフランス人は沢山居る。シャンデリヤの舌では白人黄人の区別はつかずいゝ気になつてダンスも出来る。フランスの女を見馴れるとこれがほんとの色であつて、時折見かける金髪で肌のすき通る様なスウェーデン娘など人間ぢやない様 な気がする。》

 このように述べる瀧澤は、フランス人がドイツ人を「ボッシュ」といい、日本人が「毛唐女唐」「ロスケ」「イタ公」と呼び、アメリカ人が「ジャップ」ということを批判する。そして「皮膚の色をとやかく論じて居ては丸い地球も丸くは納まらず国際連合の旗が泣く。フランスに住むわれ〱が白人国だといふことを忘れられる様に日本に居る欧米人も黄色人国であることを感ぜず、誰しも人種上の優劣観念など持たぬ世の中にしたいものである」と結んでいる。 この文章にはわれわれにとって注目すべき証言が二点含まれている。第一に、当時のアメリカ人一般が持っていた白人至上主義が、フランスの黒人差別に影響を与えていたということであり、第二に、瀧澤が「顔の色で差別待遇を受けた覚えは更になし、日常こんなことは話題にも上らない」と述べていることである。「アデンまで」に見られる、フランス人と日本人の間に横たわる海溝のように深い人種的懸隔を思うとき、瀧澤のこの述懐は、一見不思議に思えるのではないだろうか。

 ところが、このような視点から遠藤自身のテクストを検討すると、「フランスに来れば人種の差別は忘れるとは日本でたびたびききました。事実そうでした。フランス人は、リヨンのような保守的な街でも、そう言う事に拘泥しない」(6)という文章を見出すことができる。これは一九五一年九月に発表されたものである。しかし、この文章には続きがあって、遠藤は大学キャンパスにおけるフランス人学生の黒人差別に関する次のようなエピソードを紹介しているのである。少し長くなるが、重要な文章ゆえ、煩を厭わず引用する。

《ある日のこと、ぼくは学生食堂で順番をまっていました。すると、次のような声をきいたのです。「乳色コーヒー、黒コーヒーはこちら」それは丁度彼等のうしろで順番をまっている褐色のアフリカの学生と黒色のアフリカの学生とに対する、あてこすりでした。こういう馬鹿愚鈍知能低劣な学生がフランスにもいるのかと、ぼくは驚きました。流石に他のフランス学生も気をわるくしてか、黙っていました。もう一度、「黒コーヒー」という声をききました。他人事ながら、思わずかっとなって、ぼくは言ってやりました。「ぼくはここに来て初めてフランス学生に幻滅した。ぼくはフランス学生のエスプリを尊敬していたけれど、そんなものだったのか。君たちがいつまでも白人というだけで優越感をもっているから、その優越感に反抗する他民族の敵意がたえないんだ。東洋の悲しい戦争も今、そこに一原因があるのだぞ。ぼくは日本人だけど、印度支那の戦争は単にコミュニスムの問題だけじゃなくて、君たちのそうした態度が、彼らをコミュニストに結びつけるんだ」しばらく行列の中で沈黙が続き、それから他のフランス学生たちが叫び始めました。「あいつらは本当のフランス学生じゃない。日本人、誤解するな」黒コーヒーといった学生たちは皆から行列外に追いだされてしまいました。(7)》

 ここでわれわれは二つのことに気がつく。第一に、日本人の遠藤自身は、瀧澤が証言しているように、フランス人学生から、あからさまな差別を受けることはなかったこと。第二に、しかし黒人に対するあからさまな差別は存在していて、遠藤がそれに激しい憤りを覚えたことである。第二の点について、最初に考察することにしよう。白人学生による黒人差別に、遠藤はなぜそこまで強い怒りを感じたのであろうか。舞台となった大学が、国立リヨン大学なのか、リヨン・カトリック大学なのか、判然としない。遠藤は両方で学んでいたからである。だが、どちらにせよ、キリスト教徒が人種差別をしている事実に強い衝撃を受けたからではないだろうか。遠藤は戦時中、「愛」の宗教であるキリスト教信徒であることによって、官憲から迫害を受けた経験を持っていた。彼がフランスに対して抱いた憧れは、「カトリックの長女」と呼ばれた国に行くという期待と重なり合っていた。ところが、そのフランスで彼が目撃した現実は、あからさまな人種差別だったのである。遠藤が憤激したのも当然であろう。「他人事ながら」と遠藤は記しているが、彼は他人事とは考えていない。彼は自分を黒人の側に引き寄せて考えているのであり、白人に対する有色人種として彼らと自分を同類視しているのである。そうでなければ、「アデンまで」が書かれることはなかったであろう。なお、改めて確認するまでもないことではあるが、フランス人学生が、差別主義者を「あいつらは本当のフランス学生じゃない」と言ったとあるが、レイシストの学生たちもまた「本当のフランス人」なのである。その点を遠藤が見逃していないことは、これから分析する諸作品を見れば歴然としている。

 さて、第一に点に論点を戻す。黒人差別を目撃した遠藤自身は、差別を受けていなかった。この事実は、遠藤に、同じ有色人でありながら、黄色人と黒人の、それぞれの白人に対する関係の差異について、改めて考えさせることになった。遠藤は、白人学生からは「黒人学生はしようがない。感情にむらが多すぎ、それに先天的に怠け者だ」とささやかれ、黒人学生からは「フランス人は、こんな所じゃ親切のように努めるけれど、アフリカではひどいんですよ」とうちあけられる立場にあった(8)。黒人が登場する一連の作品が生まれたのは、このような理由からと考えられる。

「コウリッジ館」の舞台は一九五〇年代のリヨンである。語り手は、当時カトリック系の男子学生寮にいた日本人留学生である。そこにいた黒人学生ポーランに、日本から書いた手紙という体裁をとっている。けれども、今現在ポーランがどこにいるのかを語り手は知らない。これはいわば、投函されることがない手紙――それゆえ、書き手が過去を確認するために、自分自身に宛てて書いた手紙なのである。  コウリッジ館の入寮者は全て白人だった。彼らフランス本国の青年たちは、露骨な差別をするわけではないが、語り手のチバは、彼らが「今度、黄色人(ジヨンヌ)がはいるんだってサ」「そうさ、便所が黄いろくなるぜ。来学期から」という彼らの陰口を聞いてしまった。娯楽室に入ると、彼らが話をぴたっとやめてしまうこともある。何となくしらじらしい空気がそこにはあった。それでも次第に話を交わす同宿者も現れてくるが、ここで描かれる白人学生たちは、煙草なり酒なり、語り手から何かしらの利益を得ようとするような、人間的に尊敬できない、ずるがしこく卑小な存在として描かれている。

 ある日、寄宿生たちは、アフリカからの留学生が入ることを老司祭から知らされる。「今度は黒人(ネグロ)だぜ」「便所が黒くなるぞ。明後日から」と白人学生たちが言い合うだろうことを語り手は想像する。その日、黒人学生ポーランは、「道化師のような服装」でコウリッジ館に現れる。「仏蘭西人なら、どんな学生でもしない、この醜悪な色彩の服装のなかに、ぼくは白人に嗤われまいとする君の悲しい努力の痕をみました」。翌日、語り手の部屋を、おびえた声で「ごめん下さい。ムッシュ」といいながら訪れたポーランは、部屋の主が日本人であることを知ると、一転して態度を豹変させる。「なんだ、お前か」。「どこから来たんだ。お前は」という言い方は、「ジブジに上陸した日、仏蘭西人の役人がパス・ポートを調べながら一人のアラビヤ人を怒鳴りつけた口調」だった。「君たちの彫刻の写真集がその本箱にあるぜ」と語り手がいうと、ポーランはいきり立つ。「え? アフリカを、お前、ターザン映画と同じだと思っているんだろ」「カサブランカは仏蘭西の街と同じなんだから。地下鉄だって、今、作っているんだから。日本で地下鉄、見たことないだろう」。旧稿でも指摘したところだが、当時のカサブランカには地下鉄は存在しない。ポーランはここで嘘をついて虚勢を張っているのである。

 このように、語り手の日本人留学生と黒人留学生とは、白人たちの館のなかで、互いに打ち解けることができない。モロッコと日本と、どちらがより「近代化」しているのか、つまりヨーロッパ化しているのかを競い合うのである。「あの日から、コウリッジ館の白人学生の中に放りこまれた二人の有色人種、ぼくと君とは、まるで白人という男を奪い合う二人のあさましい女のようでした」。  物語の結末は悲惨である。ある日、白人学生アンドレが、実家から送金された金がなくなったと騒ぎだし、どうやらそれは別の白人学生ピエールの仕業らしいのだが、ポーランに嫌疑がかけられる。「ネグロが、今朝、部屋にいたぜ」「そうだろ、チバ」とピエールが叫び、語り手は弱々しく頷く。学生たちはポーランの外出中の部屋に乱入する。夜、語り手は、帰宅したポーランが、散乱した自分の部屋のなかに呆然と立ち尽くす光景を寝床で想像するのである。……  遠藤はリヨン時代にクラリッジ館という学生寮にいたことがあり、そこには白人学生アンドレ、ピエールとともに、黒人留学生ポーランがいた。したがって、この作品が、自身の体験的事実から多くの素材を借りていることは明白である。もっとも、当時の日記を読むと、周囲の学生たちは親切だったようで、作品中で誇張して描かれているような露骨な有色人差別を遠藤自身が体験したりしたことはなかった(9)。マルセイユに向かうフランス船の中が、フランス社会の縮図であったように、遠藤は、コウリッジ館という寄宿舎をフランス社会――白人でキリスト教徒が圧倒的多数であるところの――として設定しているのである。そうしたホワイト・ワールドの中に、有色人、すなわち黒人と日本人を投げ入れることで、ポストコロニアル時代に残存するヨーロッパ社会の植民地主義を浮き彫りにしているのである(10)。

 この作品が書かれた一九五五年は、日本がサンフランシスコ講和条約発効により占領下から主権を回復してまだ五年足らずであるとともに、インドネシアではバンドン会議が開催されてアジア・アフリカ諸国が世界に存在感を示した年である。遠藤は「白い人」で芥川賞を受賞したばかりで、西洋植民地主義に対する鋭い批判意識を持続させていた時期であった。なお、先行研究がすでに指摘しているように、「コウリッジ館」の日本人留学生の名前は「チバ」であり、「アデンまで」の主人公と同じである。前者はフランス人女子学生との恋愛の破綻を描いた作品だが、二作を重ね合わせて読むことも可能であろう。「アデンまで」の主人公は四等船室で病気の黒人女性とともに過ごしている。白人船医は彼女に暴力をふるう。そして、黄色人種である日本人留学生の主人公は、白人と黒人の間に挟まって、葛藤している。

「コウリッジ館」に登場した黒人学生を思わせるポーランが、四年後に書かれた短篇「異郷の友」にも再登場する。外国留学生のパーティの席上のことである。主人公の「私」はリヨンにいる日本人留学生である。時代は一九五〇年。当時リヨンにいる日本人留学生は「私」と工藤の二人だった。この作品の主題は、同じ日本人留学生でありながら、暖かい友情だけで結ばれたわけではない同胞心理の複雑さであるが、ここにも黒人学生が重要な役割を果たす存在として登場しているのである。  その黒人学生ポーランは、ある集まりで、同席した白人学生に促されるままに、ジャズ音楽に合わせてダンスを披露する。

《曲がなりだすと、彼は手足を水車のように回転させながら奇声を発して飛びあがったり、しゃがんだりした。それは決して彼の国の民族的な舞踏といえるようなものではなかった。よし民族的な舞踏としても彼はこの奇妙な踊りが白人の学生たちに与える滑稽感に気がつかぬ筈はなかった。気づいた上で彼はこうした舞踏をやり、肌色のちがった連中に追従していることを敏感に私は感じとった。(11)》

  主人公は何人かのアフリカ系学生がポーランを軽蔑したまなざしで見ていることにも気づいた。彼等は白人学生の顔をうかがいながら、彼らと一緒になってポーランを嘲笑していた。この場面における黒人学生の二つの態度について、熊谷雄基は「自尊心や自文化の価値観を投げ捨ててまで白人社会に同化しようとする戦略をとることや、その過程に競争や優劣判断の観点を持ち込むことで誰かを蹴落とし否定すること」と要約し、主人公がこれを有色人種の陥る「罠」であると洞察していることに改めて注意を促している(12)。

 主人公は、自分がポーランのように白人に阿諛しようとは考えなかったが、気がつけば、もう一人の日本人留学生と競うようにして外国人学生たちと仲良くなろうとしている事実に気がつくのである。その意味で、黒人学生ポーランは、日本人たる自分の似姿であった。

 かつて洗礼を受けた事実を利用してフランス人学生に取り入ろうとしているとしか見えない工藤の前で、主人公は、わざと黒人学生と騒ぎながら通り過ぎたりする。すっかりフランス人になりきろうとしているふうな彼の姿が、自分の分身であったことに主人公が気づくのは日本に帰国してからのことである。ここでは、「コウリッジ館」の一人の語り手の日本人が二人に分裂しているばかりか、二重身同士が相争っているのである。

「コウリッジ館」に登場したポーランと同名の黒人学生が、白人たちに気に入られようと、パーティの席で、他の黒人学生たちの軽蔑のまなざしを浴びながら、滑稽なダンスを披露する。強い印象を与える場面だが、この情景は、その後の作品でくり返し反復されることとなる。

「ルーアンの夏」は、中編小説「留学」の第一章として書かれた。物語の設定は、遠藤が自分の留学体験から材料を借用しているという点で「コウリッジ館」と似ている。もっとも、主人公の日本人留学生工藤(「異郷の友」の工藤とは無関係である)は、リヨンの寄宿舎ではなく、ルーアンでホームステイしている。彼は異教徒の国にキリスト教を広める目的で、世界各地の学生をフランスに招くというカトリック教徒の篤志で運営されている奨学制度を利用してフランスにやってきた学生なのである。時期は一九五〇年代初めである。地元の新聞にも紹介されたために、それでなくとも東洋人ということで目立つ工藤は、街を歩けば声をかけられる。それが息苦しい。工藤は、外国に行くことなど夢物語であった時代に、キリスト教徒であったことで「出世の足がかり」を得たことに得意だった。だが、現地に来てみれば、「君たちの留学がやがて日本の布教に貢献すること」を期待しているという周囲からの圧力が息苦しい。ジイドを読んでいることを咎めるような「与えられた教理で固まった眼で万事を割り切」るフランス人を内心彼は批判する。「しかしその軽蔑がすぐに鋭い刃のように自分にはね返ってくるのを感じてしまう。この人たちがそうならお前は一体、何だというのだね。少くともこの人たちは自分の強い信念を持っている。お前ときたら自分の保護色を適当に変える意気地なしじゃないか」。

 さて、ある日工藤は、レストランで開かれた集まりで、モロッコ出身の黒人学生たちと出会う。「ポーランとよばれた黒人の学生は固い細い頭の毛を仏蘭西人のように無理矢理に二つにわけてべっとり油をつけている。それは工藤になにかあさましく憐れな感じを起させた」。

《ポーランは両足を拡げ手拍子をとりはじめる。歌いながら体を動かしだす。かん高い声を出し、こちらが見ていても恥ずかしくなるほど大袈裟な身ぶりをする。司祭はパイプを噛みしめながら笑いをこらえ、婦人たちはたまりかねて、横を向く。彼女たちがこの歌や踊りを美しいとは思っていないのが、工藤にもはっきりわかる。それなのにポーランは歌い続けている。彼は彼でこれらの婦人たちの心の動きをちゃんと心得ているし、計算しているのだ。(13)》

 工藤は目を背ける。「日本人も、ああいう風に歌ったり踊ったりすることが好きかね」と司祭に問われた工藤は「絶対にしませんよ。我々は……」と吐き出すように応じる。

 ポーランともう一人の黒人学生マギロとの間に口論が始まる。マギロは「もう沢山だ。巴里に帰る」とフランス語で叫び、ネクタイを外して退席する。司祭は「この頃、巴里で共産党の学生たちとつきあっていると聞いたが、マギロはその悪い影響を受けたのだ」と呟く。工藤はしかし、マギロに感動する。「強いなあ」。「工藤は、マギロが婦人たちを突きとばすように出て行った姿を羨ましいと思った。自分にもあの強さがほしかった」。

「砂糖菓子のように皆がくれる愛情を、払いのけて、反抗するほうを選んだ彼にくらべると、頭をかかえてうなだれながら婦人たちから慰められていたポーランはたしかに醜かった」。だが、工藤は自分は周囲の「善意」を傷つけることになるので、マギロのようには振る舞えないのである。

「ルーアンの夏」において、黒人学生の挿話は物語の中心的主題というわけでは必ずしもない。けれども、われわれの関心からすると、「コウリッジ館」で登場したポーランが、白人たちに必死になって媚びようとしていた点が、「ルーアンの夏」のポーランと同一であることに注目するとともに、マギロという白人に叛逆する黒人像がここで提出されている点に、前作との著しい相違を認めるのである。これは「ポーラン・シリーズ」として見た場合、驚くべき展開ではなかろうか。マギロは周囲の白人たちに正面切って戦いを挑む小さな英雄であり、純粋な怒りに光り輝いている。彼は、その誇り高さという点で、ほとんどフランツ・ファノンを思わせる。 「君の国に今よりも基督教の光があたるよう、我々は努力しよう」というフランス人の言葉に工藤は心中で思う。「日本はアフリカのチャッドやコンゴとは違う。あなたたちは日本について何も知らぬ」と。これは、アフリカの前近代性を述べているわけではなく、ヨーロッパの植民地主義と手を携えたキリスト教布教が、ある程度の成果を収めたアフリカのようには日本はいかない、という意味である。「私の国には基督教がその根を腐らしてしまう風土があるのだ」。主人公が呟くこの認識は、『沈黙』(一九六六年)でも強調されることとなるわけだが、ここでは、アフリカ世界に対するステロタイプな主人公の偏見もまた露呈しているのである。

 キリスト教を押しつける白人たちの「善意」をはっきりと拒絶するアフリカ出身の黒人学生は、読者に鮮やかな印象を残す。この作品が発表された一九六五年は、英仏植民地だったアフリカ諸国が次々に独立を果たしたことで、「アフリカの年」とよばれた一九六〇年からすでに五年が過ぎていた。アルジェリアの独立が一九六二年、アフリカ諸国が団結することで、植民地主義と戦うことを謳ったアフリカ統一機構の成立は一九六三年のことである。日本でもまた、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通し、高度経済成長時代の最中にあった。日本人も自信を回復しつつある時期だった。「コウリッジ館」の卑屈なポーランではなく、勇敢なマギロが登場する時代的背景は用意されていたのである(14)。

 なお、「留学」第二章は、一転して物語は一七世紀の切支丹留学生に変わる。そして、一九六四年に『文學界』に連載された「爾も、また」と合わせて長編小説「留学」として刊行された。「ルーアンの夏」を半ば独立して本節で扱ったのは、このような構成から、この章だけを扱うことが可能だからである。

 これまで見てきた三作は、いずれもフランス本国が舞台だったが、「黒い旧友」は現代(一九七五年)の東京が舞台である。当時は国際空港でもあった羽田空港で、語り手の「私」は、リヨン留学時代に寄宿舎で一緒だった黒人学生と、二三年ぶりに再開するために、スカンジナビア航空便の到着を待っている。彼は、昔は「暗い陰気な顔をした黒人だった」。これまで文通らしい文通をしていたわけでもなく、クリスマスカードだけは交換していたという設定である。寄宿舎の近くの停車場で、よく戦争で夫を亡くした狂女が毎日待っているという挿話は、「コウリッジ館」で使われたものの再利用である。寄宿学生は、ブラジル出身のマルセロと黒人の彼と自分以外は全て白人だった(これは遠藤自身の実体験と同じである)。入寮したとき、白人学生が案内してくれたが、黒人学生の部屋の前で「まだ眠っている。あいつら黒ん坊(ネーグル)はいつもこうだ」といったとき、「私」は反応する。

《黒ん坊(ネーグル)という言葉が私の神経をすこし傷つけた。日本にいた時、道をたずねた進駐軍の兵士に「ヘイ、ジャップ」と言われた不快感をこのとき、不意に思いだした。(15)》

 白人が黒人を「ネーグル」と呼んだことで、白人が自分を「ジャップ」と呼んだ過去の体験を再活性させられたということは、主人公が白人のなかに抜きがたく存在する有色人種への軽侮の念を知り、ショックを受けたということにほかならない。 ピエールという白人学生が、「俺たちはそいつを黒コーヒと呼んでいるよ。連中はこっちを嫌っているけど。こっちだって向うさんが好きじゃないから、それでいいのさ」という。ある日ピエールが「留学生友の会」に連れて行ってくれたとき、「私」は二人の黒人学生を見た。ほかにはヴェトナム、アラブ、インドなど、二〇人程度の学生たちがいた。黒人学生の一人がアコーディオンを弾き、もう一人が故郷の歌と踊りを始めた。「おどりながら歌う彼の声は奇妙で、しばしば白人学生たちの笑いを誘う。笑いには失笑ともあわれみともつかぬものがまじっていたが、黒人の学生はそれを意識して、かえって大袈裟な身ぶりや声を出すのだった」。「私」は「この国で自分の似姿を見させられたような気がして少し不快だった」。「道化みたいな真似をして、みんなから可愛い黒ん坊(ネーグル)と思われようとしているんです」と白人学生が囁いた。

 ここまで読むと、われわれは、作者が「ルーアンの夏」の世界を再現していることに気がつく。けれども、ここにはネクタイを捨ててその場から立ち去るマギロはいない。彼はどこへ行ったのであろうか。

 寄宿舎に戻った「私」は、そこで初めて黒人学生ポーランと出会う。部屋に誘い入れた語り手は、「留学生友の会」に行ってきたと言う。するとポーランは、自分はああいう会合には行かないと応えた。「あの会の仏蘭西人たちはニセの友情で黒人を砂糖づけにしようとしている」からである。会にいた二人の黒人学生のことをいうと、ポーランは「そいつら、本当の黒人じゃない。白人の真似をして、白人になりたがっている連中だ」と早口で激しく非難する。

《私が理解した限りではこの大学の黒人の学生には二つあって、一つは白人の文明や文化を自分が身につけたことを得意がり、その上、同じ黒い皮膚をもった黒人を馬鹿にする手合と、もう一つはわざと、可愛い黒ん坊(ネーグル)になりきって白人学生からいい奴だと言われて悦んでいる連中である。しかし俺はそんな黒人たちとは違うのだと彼は声をあげた。(16)》

「黒い旧友」のポーランは、「コウリッジ館」「ルーアンの夏」に登場した、あの卑屈で憐れなポーランではない。彼は「ルーアンの夏」に登場した反逆者マギロその人なのである。「俺は白人を憎むし、白人からそのために憎まれたほうがましだ」。「そのほうが対等の立場になれるじゃないか」。遠藤のなかで、ポーランは徐々に人間的に成長し、誇りを持つ人格に変容していったのである。これは驚くべきことではなかろうか。遠藤周作という日本人作家のなかには、ポーランという一人の黒人が生きていたのである。彼は目を背けたくなるような卑屈な態度を白人学生にとることもあった。だが、いつまでもそのような人格ではなかった。彼は自己を否定することで、新しい人間になるのである。

 語り手はしかし、周囲の白人学生たちが、日本人である自分もポーランの同類と見なすことを恐れる。求められるままにポーランと握手をした彼は、自己嫌悪を感じつつも、生理的な不快感から、彼が去ったあと、手を洗うのである。ポーランは明らかに親近感を抱いたようすで、ある日学生食堂で先に席をとってくれようとした。だが、白人学生の目を意識した語り手は、仲間に巻き込まれることを恐れ、ほかのアジア人学生と食べるからと咄嗟に嘘をついて断る。「一瞬裏切られたような幻滅の色」がポーランの目に走った。自己嫌悪にかられながら、「俺はポーランが黒人だから避けているんじゃない。ただ彼があまりに白人の学生を嫌い、その感情に俺を巻きこもうとするから嫌なんだ」と内心で反復する。 フランスにおける日本人留学生の、黒人学生に対するこのような微妙な心理的屈折を描いた昭和文学は、ほかには見当たらない。遠藤は、日本人が最も直面したくない現実と真正面から向き合おうとした作家であることが、このような場面からもわかる。

 寮で盗難事件があり、どうやらピエールが怪しいが、白人学生たちの間からは、ポーランの名前が出る。しかし証拠もないのに疑うのはどうかという意見もあり、事件はうやむやになる。だが、わだかまりは残り、しばらくしてポーランは寮を出た。作者はこのあたりは、「コウリッジ館」を若干変形して再利用しているわけである。

 そのポーランが、一九七〇年代半ばの東京にやってくる。どのような姿になっていることであろう。読者の期待も高まる。

《何という変わりかただろう。あの頃は洗いざらしたような長袖のスポーツシャツによれよれ兵隊ズボンをはいていた彼が、仕立てのいい紺色の背広を着て、幅ひろい流行のネクタイをしめている。たちどまって彼は眼前にならんだ日本人たちを少し見くだしたような眼で眺めている。(17)》

  周囲の日本人たちも、彼に無関心である。占領軍の黒人兵士に驚いた時代は去っていたからである。「サリュー」と二人は学生言葉で挨拶し合った。タクシーのなかで、二人は話題を選びながら会話を交わす。共通する思い出は大学と寄宿舎しかなかったが、二人にとって、あまり愉快な記憶ではなかったからだ。ポーランは貿易会社の経営者である。政府関係者との強いつながりや、従業員の数などを彼は自慢する。内ポケットから取り出した三枚の家族の写真。「その背後にはあきらかに彼の国が植民地時代に仏蘭西人が住んでいたにちがいない洋風の白い家があった」。彼は儀礼的に、小説家となった語り手に、何冊本を書いたのかと訊ねる。

《そばに腰掛けているこの黒い男が私の知っている二十数年前のポーランとはまったく別の人間のような気がしてくる。あの暗い、陰気な顔をして、足音を忍ばせながら寄宿舎を歩いていたポーランは死に、別の男がその名を使って日本に来たようだった。(18)》

 ホテルに入り、バーで並んで腰掛けたポーランは、語り手に、ホテルが良くないと不平をいい、「東京はきたないね。俺の国の首都のほうがもっと綺麗だ。ホテルだって素晴らしいのがある」という。まるで「コウリッジ館」のポーランのように。「それはあんたが昔、嫌っていたフランス人が作ったものだろう」という「私」の心の動きを察知したポーランは、「俺たちは結局彼等を追い出して、それを自分のものにしたんだ。今では仏蘭西人が俺たちの機嫌をとっているのさ」といった。

「コウリッジ館」「異郷の友」で描かれた一九五〇年代の卑屈な黒人学生ポーラン、「ルーアンの夏」で描かれた反逆児マギロ、そして彼らの二〇数年後を描いた「黒い旧友」に登場する、アフリカ新興国で成功した「別の男」のようなポーラン。遠藤が一〇年ごとに描き出した黒人像は、ヨーロッパ植民地出身の黒人が自信を深めていく時代背景をそのままに映し出していたということもできるだろう。一九七〇年代半ば、第三次中東戦争をきっかけとする第一次石油ショックの影響から、一九六〇年代の高度経済成長には翳りが見えていたとはいえ、それでも日本の経済大国化は著しかった。その時代から振り返ってみれば、自分が留学した一九五〇年代は何と現在とは異なる状況だったことだろう。作者はそのように考えたのではなかろうか。学生時代に寄宿舎で知った黒人学生ポーランは、遠藤に強い印象を与えていた。彼を忘れることはできなかった。その後の交流はなかったようだが、彼はずっと遠藤の心の中に生きていて、四編の作品に間歇的に姿を現したのである。

 遠藤には、「有色人種と白色人種」(一九五七年)というエッセーがある。これを読むと、本節で分析してきた四作品の背景がうかがわれる。横浜港から乗船したフランス船のなかで差別を受けたことについては、第一章で論じたが、このエッセーのなかにある、リヨン時代に見聞した黒人差別に関する記述に改めて注目したい。

《知り合った黒人学生を見ているうちに、彼等がこの人種的意識だけを糧として生きているのを存分に知らされた。一言でいえば黒人学生は昼と言わず、夜と言わず、その住む場所の如何にかかわらず、自分の黒い皮膚、扁平な鼻、針金のように固くて、縮れた頭髪を意識せずにはいられないのだ。〔……〕私たち黄色人ならば理念や抽象の世界に逃れることができるが、黒人は自分の肉体を考えずにはいられないのだ。(19)》

「今日でもリヨン大学の学生食堂では褐色のアフリカ学生は、「ミルク色珈琲」とよばれ、黒色の学生は「黒珈琲」と陰口を叩かれている筈である。彼等の中にはそのコンプレックスから逃れるため、時には幇間のように白人学生に追従し、時には彼等にたいして暴力的な反抗をみせる者が多い。この気分のはげしい移り変りは白人学生をして益々、彼等を不可解な存在にしてしまうのである」。この文章は、「黒い旧友」に登場するエピソードと重なりあう。

 遠藤は、「国際学生、友の会」に出たときに、「次第に何かを大きな声をあげて叫びたくなった」という。「それは私を白人のようにではなく人間として取り扱ってもらいたいこと、そして黄色人として正当に交際してもらいたいことなのである」。白人学生たちにはそれがわからないのである。  遠藤はまた、その会に出席する黒人学生側の問題点も指摘する。出身が異なるアフリカ出身の二人の黒人学生は、白人学生がいない場所では、白人の植民地支配をともに批判しあう。だが、白人学生と一緒の席になると、どちらの方がより西洋化されているのかを競い出すというのである。また、あるとき、一人の黒人学生が「奇妙な旋律で彼の部落の唄を歌った」。白人学生たちは笑いをかみ殺すのに必死だった。もう一人の黒人学生が冷たい視線でそれを見ていたが、あとから遠藤に「可愛いネグロ」になろうとしているのだと説明された。遠藤は、阿諛も反撥も、ともに同じ心理から生まれていると述べ、私たち黄色人もまた例外ではないと語っている。 以上のことから、このエッセーを読むと、四編の作品に登場する場面の多くが、遠藤自身が留学中に体験した出来事であることが明らかになる。

 白人世界に置かれた有色人種が胸に抱く屈折した感情を、遠藤はわがこととして体験し、そこから目を逸らすことなく噛みしめるところから文学者として出発している。一度作品に登場させた黒人学生を何度も再登場させ、同じ場面を何度も語り直すことを、遠藤は二〇年にわたり継続した。黒人に投影された有色人たる自己の問題は、それだけ重要な主題であったということができよう。世界には、白色人と有色人がいる。有色の人であるということが、日本人として生まれた自分の根源的事実であるとの認識が、フランス留学を経たカトリック作家遠藤の根底にはあった。「ポーラン・シリーズ」で、経済的自立とともに卑屈から尊大へと変容する黒人の姿を描くことで、ポストコロニアルの時代が進んでも、なお人間として相対することが難しい白人/有色人間の関係を、遠藤は改めて浮き彫りにしたのである。


【註】

1 熊谷雄基「遠藤周作の初期作品にみる人種問題の視点――「アデンまで」「コウリッジ館」を中心に」東北大学『国際文化研究』一五号、二〇〇九年、一一三―一二六頁。Christopher L. Hill, "Crossed Geographies : Endo and Fanon in Lyon," Representations, 128 , (2014)pp. 93-123. 両論文ともに、初期遠藤文学における人種問題を考察する上で「アデンまで」とともに「コウリッジ館」に注目している。だが、「コウリッジ館」は、シリーズの出発点となっている点が重要なのである。

2 拙稿「遠藤周作とフランツ・ファノンの比較文化論的研究――フランス本国における有色人差別体験を中心に」放送大学大学院文化科学研究科修士論文、二〇一四年三月。

2 三浦朱門「わが友、遠藤周作を語る」『文藝別冊 遠藤周作〈増補新版〉』河出書房新社、二〇一六年、一三七頁。

3 瀧澤敬一「学生生活の今日」『第八フランス通信』岩波書店、一九五〇年、一四九―一五四頁。

4 SEZ〔新版遠藤周作全集〕11、一二頁。

5 瀧澤敬一「白皙人の国に住んで」『第九フランス通信』岩波書店、一九五一年、二〇八―二一二頁。

6 SEZ12、一二三頁。

7 同右。

8 同右。

9 遠藤周作「作家の日記」(SEZ15所収)を読むと、作品中の人名が、すべて実際に寮にいた人物からとられていることがわかる。しかし、これらの人名が実際の人物とは全く異なる人間として造形されていることもまた了解される。確かに「アンドレ、ピエール、シモーヌ、モニック、こういう愚劣な学生と毎日つきあうのはたまらない。もう今日からおさらばにしたい」(一九五一年五月一日)といった記述を見出すことはできる。だが、これが一時的な感情であったことは他の日の記述内容から明白であるし、同じ理由から、遠藤の怒りが彼らの人種差別に帰因するものではないことも明らかである。五月三〇日には、仲間と飲酒して帰宅したところ、夜の一〇時半というのに門の前でポーランとクリスチャンヌが変な声をあげて騒ぎになり、パジャマ姿の学生たちが部屋から出てきたことを愉快そうに書いている。また、同年七月一日の日記では、彼らが次々に寄宿舎から出て行くことを感傷的に悲しんでいる。

10 フランス旅客船内の等級区別がフランス階級社会の縮図であったことについては、第一章参照。

11 SEZ6、三四四―三四五頁。

12 熊谷雄基「遠藤周作の初期作品にみる人種問題の視点――「アデンまで」「コウリッジ館」を中心に」『国際文化研究』一五号、二〇〇九年、一二一頁。

13 SEZ2、二三―二四頁。

14 反植民地主義の思想家フランツ・ファノンが遠藤に与えた影響を鑑みるとき、ポーラン・シリーズに登場する黒人イメージの変容に注目することの重要性はより高まる。

15 SEZ8、一九二頁。

16 同右、一九五頁。

17 同右、一九九頁。

18 同右、二〇〇頁。

19 SEZ12、二一三頁。


*初出:『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた異文化理解と対決の諸相』関西学院大学出版会、2017年 

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