湯浅年子・片岡美智・加藤美雄のパリ:第二次世界大戦下のフランス留学
遠藤周作のフランス留学時代の日記を読むと、リヨンやパリで接触のあった人物――瀧沢敬一(一八八四―一九六四)、森有正(一九一一―一九七六)、加藤周一(一九一九―二〇〇八)といった人々の名前が登場するが、なかには意外な人名を見出すことがある。フランス文学者片岡美智(一九〇七―二〇一二)である。
藤と片岡の関係については、これまで語られたことがない。一九五〇年一一月一六日にパリの片岡から手紙を受け取った遠藤は、四日後に彼女に雑誌を送っている。一二月一六日に片岡からふたたび郵便が届いた。「ヂュ・ボスの参考書文献とモーリアックのヂュ・ボス評、ターブル・ロンド誌にのったもののタイプ」が同封されていた。二日後、遠藤は休暇中にパリにいけない旨の返信をしている。しかし、二七日になって、遠藤は突然パリに行くことを決心し、パリに到着すると、タクシーで片岡宅を訪問している。それからルオーの展覧会を見たあと、夜汽車で黒人学生ポーランしか残っていないリヨンの寄宿舎に帰っている。翌年は、一月三一日に、片岡から手紙が来ている。その後は長らく音信がなく、一一月一日に「日本に発たれるとの事」と日記に記載がある。それまで「片岡美智嬢」と書かれていたのが、この日は「片岡美智夫人」となっている。同月八日にも「片岡夫人」から手紙が来た。同月一六日の日記には、翌月にパリに行く計画と、その際に面会すべき人名が列挙されている。「アルベール・ベガン、ジョルジュ・ビュルナン、労働司祭、クロード=エドモンド・マニー」と書かれた後に、「片岡美智、森有正、木下氏、萩原氏」とある。一二月三日の日記に「片岡夫人から手紙で事情わるくお泊め出来ぬという」とあるのが最後である。
フランスにわたった遠藤が一時期親しく文通し、日帰りでわざわざパリに会いに出かけた片岡美智とは、どのような女性だったのだろうか。年代的には、埴谷雄高(一九〇九―一九九七)、大岡昇平(一九〇九年―一九八八)、椎名麟三(一九一一―一九七三)、武田泰淳(一九一二―一九七六)、野間宏(一九一五―一九九一)といった、第一次戦後派の作家たちと同年代である。明治の終わりから大正にかけて生まれた世代、男性であれば、中国大陸や東南アジアの戦地に有無を言わさず送り込まれた世代である。
片岡美智はフランス政府給費留学生として、第二次世界大戦下のパリに学んだ人であった。本節では、彼女とその周辺に光を当てることで、第一次戦後派の同世代が体験したもう一つの人生を概観することにしたい。それは、片岡と、やはりフランス文学者である加藤美雄(一九一五―二〇〇〇)、そして物理学者湯浅年子(一九〇九―一九八〇)という三人の若い日本人をめぐる物語である。
第二次世界大戦では、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結び、枢軸国陣営として、英国、フランス、アメリカなどの連合国陣営と戦火を交えた。そのような時代に、彼らはどうしてフランスに留学することができたのであろうか。彼らは何を考え、何を求めてフランスに渡ったのか。そしてフランスでどのような体験をしてきたのか。
また、戦時という非常時においては、文学や科学を研究するということの意味が平時以上に鋭く問われざるを得ない。ドイツ占領下のパリでポール・ヴァレリー(一八七一―一九四五)の講義を聴くとはどういう行為なのか。扉も天井も窓も破壊された実験室で瓦礫をよけながら物理学の研究を続けるとはどういうことなのか。日本大使館の勧告に背いて解放直前のフランスになおも文学研究のために留まるとはどういうことなのか。そもそも学問とは――科学とは、文学とは何なのか……。彼らの物語は、そうした問いにわれわれを直面させずには置かない。そしてその問いかけに直面することは、遠藤周作という作家をより深く理解するためのみならず、昭和の戦争が風化しつつある現在にこそ必要なことでもあろう。
ステファヌ・マラルメやモーリス・セーヴの研究で名高い加藤美雄(とみお)が神戸港からフランス郵船のジャン・ラボルド号でマルセイユに向かったのは、一九三九年十二月のことである。当時のフランスは大英帝国に次ぐ世界第二の植民地大国だったが、大日本帝国もまたアジア諸地域に植民地を有していた。万世一系の天皇を戴く帝国日本は「大東亜」の覇者たることを自認していた。
大阪で生まれた加藤は、旧制第三高等学校で第一外国語としてフランス語を選択した。敗戦の翌年にサルトル「壁」を訳出してサルトル紹介の先鞭をつけた伊吹武彦(一九〇一―一九八二)の薫香を受けた。野間宏(一九一五―一九九一)が同窓だった。週一五時間の授業のほか、週二回の個人教授を受け、関西日仏学館にも通った。同館は詩人大使ポール・クローデルの努力で東京日仏学院に続いて一九二七年に開館した学校である。赴任は実現しなかったが、リセ教師時代のサルトルが派遣教師の公募に合格したことは有名である。
京都帝国大学で仏文学を専攻したのは、明治帝国憲法下で家督を相続する権利と義務を持たない次男だったからであろう。フランス語で書いた卒業論文は、モンテーニュ『エセー』であった。一九三八年度のフランス政府給費留学生試験に合格したが、最年少であることから翌年回しにされてしまった。年が改まり、留学が目前に迫った一九三九年九月、ナチス・ドイツが英仏に宣戦布告した。九月一二日、ポール・ヴァレリー(一八七一―一九四五)がラジオ・フランスで談話を読み上げた。偉大なドイツ国民を、思考の抑圧者ヒトラーから解放しなくてはならないと。
ヨーロッパからは、在留邦人たちが引き揚げ船で次々と日本に向かうことになる。一九三九年九月九日、ボルドーに入港した鹿島丸は、宮本三郎、野上豊一郎、野上弥生子、中村光夫ら一四二名を載せて同月二五日にニューヨークに向けて出帆した。榛名丸は一二月二五日にマルセイユから四九名の日本人を乗せて出港した(1)。
留学どころではなくなってしまったと加藤は思った。ところが三ヶ月後、フランス大使館から「貴君の生命の保証はできないが、フランス留学を許可し、渡仏のための実費及び準備費を支払うこととする」という通知がきた。このようなわけで、二四歳の加藤は、第二次世界大戦下のフランスに渡ることとなったのである。私財を投じてパリ日本館を建てた薩摩治郎八が、給費留学生一人一人を箱根の別荘に招いて、祝福と必要な情報を授けてくれた。
ジャン・ラボルド号は純白の船体に四本の煙突を備えていた。甲板の上から見送りの人々を眺めながら、「自分が戦国に輸送される兵士の姿にも似て一抹の悲壮感があった」と加藤は回想している(2)。神戸からマルセイユまで、寄港地や到着日時は全て秘密だった。フランスの敵国ドイツの潜水艦に狙われないとも限らないからである。ちなみに加藤は二等船客として乗り込んでいた。船員たちは親切で、歴史専攻の学士という給仕と食後に話し込んだりもしている。神戸を出帆してから二週間後、偶然、パーサーと話を交わした加藤は、一等甲板の更に上層にある船長室で船長とも会見している。航海予定、フランス領の港について説明した船長は、フランスの雑誌を数冊貸してくれた。その後、メートル・デテル(食堂長兼世話係)の案内で、本来二等船客には立ち入ることが禁じされている特等室、半特等室、一等室、読書室なども見学した。「整然としているが、豪華というにはほど遠い」(3)という感想が面白い。船内にはフランス人のほか、アメリカ人、タイ人、インドシナ人など国際色豊かだった。彼らと卓球をして遊んだ。船内で不愉快な思いをすることはなかった。「フランス船はその船上での生活とともに留学生を国際的に育ててくれた」(4)と加藤は記している。
香港では、桟橋で英国軍楽隊の賑やかな出迎えを受け、山上にある英国人別荘地の美しさに感嘆した。そこは「夢の楽園」に思えた。サイゴン港が近くなると、英仏の水上機が護衛のためにラボルド号の上方を飛行していた。シンガポールの印象はあまり良くなく、サイゴンよりも見劣りがすると感じた。マラッカ海峡では、敷設機雷で沈没した英国船のマストが海上から突き出ているのを見たりもした。コロンボでは、案内所の主人が日本語を話すことに驚いている。アデンを経て、ソマリランドのディブーティでは、夜、「大きな建物の壁のうら側の月光のあたるところに白いものが一ぱいころがっている」ことに驚いた。「白い布にくるまって月光を浴びて眠っている」人間たちだったのである(5)。スエズ運河を渡り、ポートサイドではエジプト見学を自粛した。戦時中であり、無事にフランスに到着することが給費留学生としての義務だと考えたからである。こうして加藤は一九四〇年一月三〇日午前七時にマルセイユに着いた。薩摩治郎八の息子が手配した日本郵船関係者が出迎えてくれていた。マルセイユを観光し、ホテルで一泊した。
日本近海では、その九日前、ホノルルから横浜に向かっていた日本郵船の貨客船浅間丸が英国軽巡洋艦に臨検され、ドイツ人乗客二一名が戦時捕虜とされるという事件が起きている。日独防共協定を結んでいた日本と英国の関係は悪化した。第二次世界大戦は日本にもすでにこのような影響を与えていたのだった。
ジャン・ラボルド号には、加藤のほかに二人の給費留学生が乗船していた。三四歳の笹森猛正(一九〇五―一九九〇)と、三二歳の片岡美智である。
笹森は青森県出身。弘前高等学校卒業後、黒石実科高等女学校の英語教師をして学資を蓄え、東京帝国大学仏文科に学んだ篤学の人である。戦後は学習院大学で教鞭を執り、ボーヴォワールの翻訳など多数がある。本人も詩を書いた。
片岡は福井県出身だが、十一歳で東京に出ている。土佐出身の祖父片岡健吉はクリスチャンで、明治憲法発布以前は投獄された経験もあるが、後に衆議院議長を務めた硬骨の人である。父は歯科医だった。美智も幼い頃から「いいだしたら、きかない」(6)一本気な性格だった。「お茶の水」ではなくキリスト教系の女子学院に進学したのは、母親が「これからの女は英語が出来なくては」という意見だったからである。
関東大震災に被災した翌年洗礼を受け、東京女子大学に進学した。文学から哲学に興味が移っていた片岡は、英語専攻部予科から高等学部に編入し、大学部哲学科に進んだ。カント『純粋理性批判』に関する一〇〇枚の卒業論文を書いて卒業した。片岡はパスカルにも惹かれるものを感じていたので、ドイツ語とともにフランス語も学んでいた。学生時代に、ドイツから帰国したばかりの高倉徳太郎牧師の研究会に顔を出し、紹介されたルドルフ・オットー『聖なるもの』に感銘を受けた。内村鑑三の集会にも数回話を聞きにいった。しかし「その熱意には動かされたが、しかし、それが晩年の内村氏であったためか、あまりに排他的挑戦的で、依怙地に思えるほど独善的なその調子に共感がもてなくなってしまった」(7)という。一九二八年に大学を卒業してからしばらく放心状態だったが、部屋に溢れる書物にうんざりした片岡は、これらを売り払い、世の中に出ようと思った。
書店で働きはじめ、左翼の若者とのつきあいも生じた。メーデーに参加したりもした。街で「女子大まで出たくせに」ビールを飲んだことがスキャンダルとなり、彼女は店主から解雇を申し渡された。せめて解雇手当を出させるべく、「何が彼女をさうさせたか」の作家藤森成吉宅(一八九二―一九七七)の応援を得ようと組合関係の知人二人と同宅を訪問した後、片岡は特別高等警察の男たちに取り囲まれ、一晩拘留された。この体験は、彼女を意気消沈させるどころか、憤激させた。彼女は確かに、着飾ることや、ダンスホールやバーに行くことが好きだった。けれども彼女はそうした形だけの「モガ」(モダンガール)ではなく、硬骨漢たる祖父の血を引く鉄の女だったからである。
一九三四年、法政大学文学部仏文科に入学した。学科長豊島輿志雄が女子学生の入学を認めることに積極的で、東京女子大を卒業していた片岡は口頭試問だけで、予科を免除され本科に入学することができた(8)。
卒業論文はスタンダールだった。法政大学を卒業した一九三九年、フランス政府給費生試験に女性も応募できることになり、挑戦して合格した。しかし、このときにも片岡は特別高等警察に出頭を命じられ、麹町署で取り調べを受けた。「少しでも外国に関りを持つ女をスパイとにらむことが、当時の特高の第六感」(9)だったのである。「おまえのような女は、死んだ方が御国のためだ!」と片岡は罵られた。ところが、警視庁外事科で片岡の調査を担当した人が、偶然アテネフランセの同窓であり、未知の人ではあったが彼女を信用してくれたために事なきを得た。彼女は大日本帝国で「これ以上生きてゆくことに熱意を失い始めた」。「この社会はあまりにも窮屈だ!」としか思えなかったからである(10)。
一九三九年一二月、片岡は銀座で留学用のコートなどを揃えた。通りでは、日本髪の「五黄の寅」の女性たちが出征兵士の腹巻きに千人針を縫っていた。駅では日章旗の小旗を手にした人々が出征兵士のために口々に万歳を叫んでいた。
片岡が乗り込んだジャン・ラボルト号。灯火管制で薄暗く、甲板では喫煙さえ禁止だった。明滅する煙草の光を目印に攻撃を受けるかもしれないからである。娯楽らしい娯楽は一切なし。乗客はまばらだった。船は「北支」(秦皇島)まで上った。二〇〇名のインドシナ人兵士をサイゴンまで移送するためである。加藤の目には見えても見えない存在である彼等が、片岡には見えていた。「濃い鉄色の塊が、巨大な幼虫のようにうごめいている」(11)のは、作業をする苦力たちだった。上海の南京町は「悪魔的とさえ思えるほどの悲惨」だった。しかしサイゴンは美しかった。コロンボ観光の自動車のなかで、自分を魅了した世界について、加藤と笹森に語った彼女は、笹森から「フン、片岡さんのスタンダールって、そんな程度のものですか」と嘲笑され、すっかり萎縮してしまった。船の中で、笹森は無口で深刻な顔つきをいつもしていたという。
マルセイユは雨だった。年配の女たちの繰り服装が、さながら喪服のように見えた。パリに行く列車の車窓からは、冬枯れの景色だけしか見えなかった。車内も灯火管制が敷かれ、乗客たちはだまりこくっていた(12)。片岡の記憶のフランスは、こうして始まっている。パリ行きの列車は朝八時にサン・シャルル駅を出発した。パリに到着したのは夜の一〇時だった(13)。
パリのリヨン駅で加藤、片岡、笹森の三人を出迎えてくれたのは、前田陽一(一九一一―一九八七)ら三人の日本人だった。前田は東京帝国大学仏文科を卒業した一九三四年から、フランス給費留学生としてパリにいた。妻と乳飲み子がおり、日本大使館で官補としても働いていたのである。ほかの給費留学生たちはすでに日本に帰国していた。
加藤はパリ国際大学都市内の地方会館に入ることになった。設備が整っている日本館は、フランス政府の徴用となっていたからである。地方会館はフランスの各地方出身学生のための宿舎であった。各部屋のインテリアは部屋ごとに同一色で見事に統一されていた。中心となる国際会館も大部分が徴用されていたが、食堂だけは学生たちに開放されていた。この時点で、給費留学生の今後には不透明なところがあったわけだが、受付窓口の女性は、戦時下でも給費は継続されるだろうとの見通しを誠実な口ぶりで伝えた。
片岡は国際女学生会館に入った。翌日の午後、留学生たちは大学都市事務所で諸手続をし、日本大使館に出向いて大使に会った。午後は前田陽一のルノーでパリ見物をした後、加藤、笹森、片岡そろってパリ大学文学部で初めての聴講をした。
コレージュ・ド・フランスでは詩人ポール・ヴァレリーだけが「詩学」の講義を続けていた。数十人の聴講者を前に、六九歳の「フランスの知性」は黒板を使いながら九〇分の講義を行っていた。聴講者に女性や年長者ばかりが目についたのは、若い男は兵役にとられていたからであった。ヴァレリー自身、息子フランソワが九月一六日に入隊していた。ヴァレリーは一九三七年十二月からコレージュ・ド・フランスで「詩学」を講じていた。内容は詩作技巧に関するものではなく、人間存在のさまざまな制作行為に関する生産システムの解明を目指したものであった。前年一二月一日に三年目が開講され、講義は金曜日と土曜日の一一時から八番教室で行われていた。一月の土曜日の講義では、レオナルド・ダ・ヴィンチについて、日本の浮世絵画家を例として挙げながら講義がなされていた(14)。
ヴァレリーを聴講した翌日、加藤らは日本大使館に行った。紀元二千六百年を祝賀する紀元節(二月一一日)だったのである。パリの日本人は全て大使館に集まった。一〇〇人くらいだった。大使が非常時日本を思わせる謹厳荘重な挨拶を行って、加藤ら留学生たちを重苦しい気持ちにさせた。記念歌を斉唱し、大日本帝国万歳を三唱した。「フランス政府のわれわれ留学生にたいする応対と、日本人大使館の邦人の扱い方にはまさに雲泥の差があるように思われた」と加藤は記している(15)。 二月末の未明に、加藤は初めて空襲警報を聞いて飛び起きた。ドイツ機の飛来があったらしかった。不機嫌になっていたヴァレリーは「寝ているところを起こされて、避難場所に連れて行かれたわたしの孫娘は、怒って、ドイツ人を全員殺したいと言いました。それは、とってもすばらしいアイデアです!」と書いている(15)。
灯火管制のため、家の全ての窓に青ペンキが塗られているパリの暗さが、明るい地中海を経てきた片岡の眼には陰惨に映じていた。ルーブル美術館などでは、万が一の事態に備え、貴重な収蔵品を地下室に移動させたりしていた。とはいえ、パリでは音楽会や演劇などがまだ行われていた。桑原武夫や伊吹武彦を識っている日本人贔屓の本屋があり、日本人留学生たちには二割引で本を売ってくれるなどのささやかな慰めもあった。
三月二日、加藤がコレージュ・ド・フランスでヴァレリー講義を聴講していると、途中で教室の後ろから笹森と片岡が入ってきた。学生たちがふりかえったが、ヴァレリーは気にすることもなく講義を続けた。夜一〇時にリヨン駅に井上正雄(一九一五―)と湯浅年子が到着するとの電報を受け取り、それを知らせるために二人は教室に加藤を探しに来たのであった(17)。井上は高知出身の数学者、湯浅年子は東京出身の物理学者である。二人とも加藤、片岡らと同じ年のフランス政府給費留学生試験に合格していたのだが、一ヶ月遅れでパリに到着することとなったのである。
湯浅の父親は農商務省特許局に勤務する官僚(技官)だった。東京帝国大学工学部を卒業した人である。年子は、小学校入学の口頭試問で「大きくなったら何になりますか」と質問されたとき、「理学博士」と答えたという(18)。自然現象に興味を抱く少女で、東京女子高等師範学校附属高等女学校(通称、お茶の水)を経て東京女子高等師範学校へ進み、さらに東京文理科大学物理学科に進学した。一九三四年卒業。同大副手となり、翌年には東京女子大学講師になった。一九三八年東京女子高等師範学校助教授の職にあったが、大学で読んだジョリオ・キュリーの人工放射能に関する実験証明論文に感動して留学を決意した。この年のフランス政府給費生試験には、二次の口頭試問で不合格となった。湯浅によれば、当時の給費生試験は、「大学またはアテネ・フランセ卒業者に対してその推薦によって応募資格が出来、全国で法律経済で一人、文学哲学で二人、理科と数学で一人または二人、それに医学が一人、芸術と音楽は別扱いでそれぞれ一人くらいであった」(19)。フランス行きを考えたのは、自分が教職の資質に欠けていると感じられたこと、学閥や教授間の複雑な人間関係など「全ての自分を縛っているものから逃れたい」と考えたことが大きかった。女性であるということの不自由さも痛感していた。 翌年の試験に合格したものの、仏独の開戦によって九月出発が凍結されたことはすでに述べた。ラジオでヒットラーの演説を聴きながら、湯浅は「これで私の希いもすっかり水泡と消えていったのだと思った」(20)。その頃、長兄の死、手術不可能なまで進行していた癌による父親の入院など、留学を断念するには充分すぎるほどの困難な状況が、湯浅の身辺を取り巻いていた。しかし父親が湯浅にフランス行きを強く勧めたので、遂に出発を決意したのだった。東京駅まで行った湯浅は、決意が鈍り、東京帝国大学病院の父親の病室に引き返した。「何をしに戻ったのか?」と言われた湯浅は、返事ができず、ふたたび東京駅に向かったのだった(21)。
湯浅らが神戸から乗ったフランス船は、フェリクス・ルッセル号といった。一月二六日早朝、船は桟橋を離れた。いつまでも振る手がちぎれそうに冷たくなった。観光客はいない。公用、社用の人々ばかりである。湯浅は二等船客だったが、そこでも上級軍人の家族、宗教関係者など少数だった。サイゴンでは、一〇〇〇人ほどのインドシナ人兵士たちが四等船室に乗せられた。「まるで馬の輸送である」(22)。「何もしらないで勇んでいるこの兵士達をみたりサイゴンの街の情景に接して植民地の悲哀を身に痛く感じた。征服されさく取される人民達の生活をみて、私は義憤を感じた」(23)。中国からの留学生からは、時計を北京時間に合わせていた。日本軍は、北京の時計を日本時間に合わせていたのである。「日支事変」の不当さについて二人は話し合っている。このような経過があって、ようやく湯浅はパリに到着したのである。
加藤らは前田のルノーに彼らの荷物を積んで、まず湯浅を片岡のいる国際女子学生会館に送り、それから大学都市地方会館まで井上を送った。
翌日、国際女子学生会館の談話室で湯浅と会った加藤は、彼女の印象を次のように記している。
《湯浅さんはわたしより少し年長だが気持のやさしい女らしさをもった人で、決して男まさりには見え なかった。お茶の水大学の校風とでもいうのか、それとも湯浅さんの家庭の習性なのか、極めて礼儀正しい女性で、話し振りも決してまくしたてるような口調ではない。いわば大人しいタイプなのだが、後で次第に分かってきたのは彼女がいかにも頑固で一徹なところがあることだった。例えば誰かと一しょに道を歩いているとき、その方向が間違っていると同行者の一人がいったとしても、彼女はその方向を変えようとしない。それが間違っているたしかな目印に出会わないかぎりそちらに歩くことを止めようとしないのだ。〔……〕しかもその意志の強さを微 笑を浮かべながら表現するので、周囲がそれを止めることができない有様だった。(24)》
さて、湯浅は三月一一日、ラジウム分離の功績によりノーベル化学賞を受賞したマリー・キュリーが創設したラジウム研究所を訪ね、ジョリオ・キュリー夫人イレーヌと会見した。イレーヌはマリー・キュリーの娘であり、ジョリオはその夫だった。湯浅は研究員にしてもらうために会見の申し込みをしていたのである。当時研究所は軍の管理下に置かれていた。外国人研究者を採用することが禁止されていたため、採用は困難だと思うと言われた。湯浅は緊張が一挙に緩み「ここで研究できなければ父も病気ですからすぐ帰国します」と言った。イレーヌはしばらく考えていたが、夫ジョリオに相談することを約束してくれた。三月二九日に湯浅はジョリオと面会し、コレージュ・ド・フランスの研究所に入所を許可された。ラジウム研究所が駄目ならば、コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所に入れるようにすると約束してもらえたのである。「心が宙に浮いたようになって、フラフラ、フラフラと街を歩きに歩いた」(25)。午後、湯浅は「Kさん」(加藤の回想に記述がないので、おそらく片岡であろう)とビールで祝杯を挙げ、リュクサンブール公園で、買ってきたメロンを食べた。
一九三九年の時点で、フランスは原子力エネルギー抽出に関して世界最先端の位置にいた。実はこの時期、ジョリオ・キュリーは原子エネルギー放出実験の際に中性子の減速材として必要な重水をドイツに渡さないために奔走していた。ノルウェーの工場にある重水全てがドイツ側の目を欺いて飛行機でパリに到着したのは三月一六日のことである。そのような非常時に彼らが日本からやってきた湯浅を迷惑がらずに迎えてくれたのは、イレーヌが次のような考えを日頃から持っていたからと考えられる。すなわち「フランスは外国の若い研究者を受けいれることを誇りとしました。マリ・キュリーはこのことを特別に重要視し、それが自分にとってかなり迷惑なことであったり、それらの若い研究者たちがフランスの若い研究者に要求される第一段階的な知識のすべてを持ち合わせていないような場合であっても、これらの若い研究者が彼女の実験所に近づくことを容易にしてやることによって、外国に対するフランスの影響を強めることに役立つのは自分の義務であると考え」ており、自分も同じだということである(26)。ノーベル賞受賞者である彼らの生活は質素きまわりなく、派手な社交とも無縁だった。自転車による新婚旅行時代から、彼らの簡素な生活は終生変わらなかった。湯浅はジョリオと気軽に握手する習慣になかなかなじめなかった。深々とお辞儀をしてしまうのである。ジョリオがドアを開けてくれたときに、ジョリオの前を通るかわりに、壁際に控えてしまうこともあった(27)。
湯浅は加藤に誘われて、ヴァレリーの講義に出たこともあった。「目の前に現実の人としてその講義を聴くのであるから、感激した。しかし大きな眼鏡がやせた顔の大半をかくしていて、声は小さく、暗い教室の中でボソボソとしかきこえないのにヘキエキして描いた同教授〔加藤〕のスケッチは、今も持っている」(28)と湯浅は書き残している。ヴァレリー自身、自分の声がよくないこと、教師としてのトレーニングを受けていないことは自覚していた(29)。それはとにかくとして、加藤は湯浅が隣にいたのでそのような振る舞いに及んだのである。講義の内容を理解するのは容易ではなく、加藤は常に真剣に講義に臨んでいたからである。「詩学」講義は、概要が公式記録によって、また速記の一部が活字にされているが、全貌を伺うためには不完全なものである。見過ごされがちであるが、毎回出席する数十人の聴講者がいなければ講義は成立しなかった。週二回のコレージュ・ド・フランスでの講義は、毎朝のカイエ執筆とともに当時のヴァレリーの人生を支えるものであった。そして加藤はその講義を支える一人だったのである。
五人の給費留学生全員がようやくパリに揃った。戦時下のパリではあったが、勉学の傍ら飲食をともにし、共通の楽しみをみつけることにも努めた。ある日水彩画を描こうということになった。井上は地方会館を、加藤は教会を描いた。湯浅は井上と加藤が描いている後ろ姿を描いたらしいが、「それをわれわれに隠そうとして逃げ回る始末であった」(30)。一九四〇年に加藤が描いた水彩画の図版と湯浅のそれを並べて見ると、使用した絵の具が同一だからであろうか、共通する雰囲気を感じ取ることができる。それらは孤独の中でではなく、友情の中で描かれたものである。 湯浅は四月からコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所に籍を置くことになったが、加藤は、戦局の進展に伴いパリからボルドーに拠点を移すことを考えはじめ、四月にその計画を実行した。彼は、国家博士号はもとより、パリ大学が授与する学位の取得も考えていなかったから、パリへの執着がなかったのである。ボルドーは、パリ、リヨン、マルセイユに次ぐ、フランス第四の都市である。パリから列車で九時間かかった。ボルドー大学で勉強することにしたわけだが、この地でも、四月二〇日以降、空襲警報が頻繁にさかんに鳴るようになった。そして五月一〇日、ドイツ軍がオランダ、ベルギー、ルクセンブルグに侵攻したことが報じられたのである。
五月一九日、夕食後に加藤が下宿先の家族たちと話をしていると、玄関のベルが鳴った。湯浅年子と片岡美智だった。一七日、湯浅は研究所でジョリオ教授の部屋に呼ばれ、「すぐに大使館に行くように。その結果を伝えに来るように〔……〕フランスを去る必要はないが、二週間か一ヶ月くらい、田舎へ行っているように、状態が回復しさえすれば必ず呼んであげるから、貴女も逃げたらすぐに手紙を書きなさい」と言われたのである。ジョリオは前日に軍需省大臣から呼び出され、研究所にストックしてある重水を安全な場所に移してドイツ側に知られないようにするよう告げられていた(31)。ジョリオらはフランス銀行大金庫に重水を移し、数日後、リオムの中央刑務所に再移送した。
湯浅はボルドーに避難することとした。駅も列車も避難民でごった返していた。加藤は二人のための宿を探したがどこもふさがっており、マダムの許しを得てこの家に泊めてもらうことになった。二人の話では、ドイツ軍戦車がランスまで迫り、パリには避難民が流入してきていた。パリでは毎日ドイツ機が現れ高射砲の音が聞こえるとのことであった。実際のところ、片岡は「百姓たちが、納屋という納屋の隅々から狩り出したと思われる古色蒼然たるがたがたの馬車や荷車に、豚や鶏まで積み込んで、疲れ切った体を揺られながら〔……〕南へ南へと行進してゆく有様」を見ていた(32)。その晩、湯浅と片岡は床の上に対角線上に寝た。翌日、加藤は何とか二人の落ち着き先を確保することができた。荷物を駅から運び、二人をボルドー大学に案内した。二人は空き教室で手紙を一所懸命にしたためていた。湯浅はジョリオに手紙を書いていたのである。翌日加藤が二人を訪ねると、やはり話をしながら彼女たちは次々に二〇通を越える手紙を書いてしまった。(33)。
二二日、パリ日本人会と日本大使館から帰国の勧告がなされた。加藤は湯浅と片岡に知らせにいったが、彼女たちは「耳を貸すどころではない! 一瞥の下にはねつけてしまう」(34)。二四日、パリの井上から手紙が届いた。「パリでは大砲か爆弾かわからないが腹にこたえる薄気味悪い音に悩まされた」とあった。翌日、二人の女性を訪ねると、モンテーニュの館を訪ねようと提案された。二六日、バスで三人は遠足をした。すばらしい風景で、湯浅はモンテーニュが思索のために入ったという場所の積石に刻まれていた言葉などを書き写した(35)。
五月二八日の夕食後、加藤のもとに湯浅と片岡が来た。ラジウム研究所のジョリオ教授から湯浅に帰還命令が出たのでパリに戻る。片岡も一緒に戻る。ついては、加藤も一緒に帰らないかという提案であった。加藤の目には、二人がジョリオの命令に「盲従するところがあるらしい」と映った。結局、三一日、二人だけがパリに戻ることになった。「運命をどう判断するか女性の場合は意外に速断、悪くいえば、早とちりになるのを危惧するばかりである。」(36)。出発前の二人は、カフェで加藤と三〇分話し合った。「女性の決断は一度きまったら迷わないものだということを知らされて、却って気持がさっぱりする」。湯浅はジョリオに「ここで研究できずに日をすごすことは、大変辛いことです。たとえパリの研究所で爆弾の下に死ぬとも悔いないから、どうぞ呼び戻してください」と書いたところ、翌日に電報で「すぐ帰るように」と連絡が来た。そこで「天にも昇る気持ちで」パリに戻ることを決意した湯浅は、片岡とともに軍本部に出向き、旅行許可証を取得したのである。湯浅にとって、研究所から離れることは、死ぬことと同じだった。彼女にとって、研究所がどのような存在であったのかは、後年の次のような回想でよくわかる。
《朝から晩まで、時には夜を徹して、研究と真向った生活。これこそ私が望んだものだった〔……〕女性であることも、異国人であることも捨象されて、ここでは研究だけが生き物のように成長して行く。 朝、一分でも早く研究所へ行こうと焦り向う脛が棒のようになって動かなくなるほど走りつづけ、パンテオンの円柱に薄紫の朝の陽光がさしはじめるのを ふり仰いではじめて立止る瞬間、「自分は幸福だ!」 と心の底から思った。(37)》
六月に入ると、パリでも空襲があったとの報が加藤の耳に入った。加藤は帰国を考えたが、「結局わたしの考えが早まっていたことに気付いた」。「今こそフランスの文化が戦争に抵抗して継続発展する様子をしかと掴みとらねばならない」(38)と考え直したからであった。 六月七日、昼のラジオ放送で、ペタン将軍が、フランスがドイツに降伏したことを国民に告げた。下宿先の女性たちは泣きはらした眼をし、男たちは黙ったままだった。加藤は町に出て二種類の新聞を買ったが、どちらにも「敗戦」という言葉は使われていなかった。
五月二三日にパリを出て家族とともにブルターニュに避難していたヴァレリーは、ラジオのペタン演説を聴きながら号泣した。
六月九日、ラジオ・パリは首相がパリを脱出するよう呼びかける放送を行った。湯浅と片岡は、国際女子学生会館を出てホテルに一泊したが、ホテルも閉鎖され、日本大使館に転がり込んだ。一四日、ドイツ軍のパリ入城を二人は目撃している。先頭は軍楽隊だったが、凱旋門を一周する二〇歳位の若いドイツ兵たちは、疲れ果て、目もろくに開けておられず、馬から落ちそうになりながら、入城してくる。睡眠不足で息も絶え絶えで凱旋門に入ってくる。それが彼女らが見た真実の光景であった(39)。このときの情景を、湯浅は日記にスケッチしている。
ジョリオはコレージュ・ド・フランスの研究所で、ドイツ側に研究動向を知られないよう、資料を焼却した。そして六月一一日、ジョリオはイレーヌとプジョーに乗ってクレルモン・フェランに必要な実験器具を運んだ。一軒のヴィラで仮の実験所を設置するのである。しかし、さらに計画は変更され、六月一六日、ボルドーに彼等は移動する。船で重水を英国に移すのである。六月一八日、英国船ブルムパーク号は無事出港した。
六月二五日、仏独に休戦協定が結ばれた。ハーケンクロイツのマークが付いた飛行機がボルドー上空を飛び始めた。ドイツ兵たちを乗せた泥まみれの自動車が、次々に通りを通過するのを加藤は見た。ボルドーにやってきたドイツ兵たちは礼儀正しいようだったが、各家庭は兵士を泊まらせねばならぬこととなった。七月からは、時計も一時間繰り上げとなった。「ドイツ中央標準時間」に合わせるということだった。「ドイツ兵はみな若く楽しそうに見える。自由時間をフランス人の市街で楽しんでいるようであった。顔色は戦場焼けか土にまみれたあとの色が見える」(40)。フランスの新聞の論調が変化した。対独協調路線が明らかであり、加藤は不愉快であった。対独協力のヴィシー政権が成立し、ド・ゴール将軍の自由フランスも、またロンドンからラジオ放送を開始していた。ボルドーの市民たちの反応はどうであったのか。煙草屋の娘は、フランス語のわからないドイツ兵に「ヴォワラ・コン(ばか)」といって煙草を渡していたという(41)。
日本国内では、この時期に「贅沢は敵だ」というキャンペーンが行われ、九月には仏領インドシナに日本軍が侵攻している。
九月、加藤はドイツ占領下のパリに戻った。パンは美味かったが、バター不足のために料理は味が落ちていた。砂糖も不足気味だった。一〇月から大学が再開されることになった。当時の加藤は何を考えていたのだろうか。「戦争のまっただなかでのフランス留学はいわば戦争のなかに平和を見出す作業であり、戦争と平和の共存を体験することである」(42)と、後に加藤は記している。九月二七日には日独伊三国同盟が結ばれた。フランス人はショックを受け、いつもならば日本に対する批判めいた言葉を口にしない周囲のフランス人も、非難めいた言葉を加藤に投げかけた。なぜこの時期に日本がヨーロッパの紛争にわざわざ関わろうとするのかという非難である。「われわれの行動はよほどつつしむ必要がありそうに見えた」(43)。ドイツ占領下を思わせる事柄は多々あった。月初めに給費の小切手を貰いに国立財団に足を運ぶのだが、そこでもドイツ兵の許可を得てから中に入るようになっていた。 ジョリオの研究所では、ドイツ軍科学問題担当者が軍服で現れて、研究所員を前に「輝くばかりの」賛辞を述べた(44)。ドイツ側はウランや重水を入手したいがために、ジョリオたちに友好的な態度を示そうとしたのである。双方の交渉により、ジョリオは所長の立場を継続し、ドイツ人研究者が四人研究に参画することとなった。実験機材を接収されないためには致し方なかったのではないか。ジョリオは「対独協力者」になった。そうしたこともあって、彼はその後、レジスタンスに深く関与することとなるのである。彼は英国に逃れることを周囲から勧められるが、聞き入れなかった。
一〇月四日、コレージュ・ド・フランスでは、ヴァレリーの「詩学」が再開された。ヴァレリーも九月二一日にパリに戻っていたのである。パリ大学でも「十六世紀のフランス語」「フランス文学のルネサンス」といった講義が始まった。また、ソルボンヌの学生を対象に、ゲルマニア学院という無料のドイツ語講座が融和政策の一環として始まった。大学都市内の地方会館隣のモナコ館には、ハーケンクロイツの旗が翻っていた。一〇月二五日、ヴァレリーは、アカデミー・フランセーズでペタン将軍に祝福のメサージュを送るという提案に強く抗議した。アカデミーが対独協力政策に好意的な姿勢を示すことを拒否するよう求めたのである。
一一月一〇日、紀元二千六百年記念式典が日本大使館で行われた。君が代斉唱、皇居遙拝、参事官祝辞、記念歌合唱、大日本帝国万歳三唱。それから日本料理の立食となった。日本国内では、すでに前月に大政翼賛会が発足し、東京のダンスホールが営業中止となるなど、暮らしへの締め付けも強くなっていた。
三日後、加藤が大学に行くと、ドイツ官憲が教室の壇上に立ち、学生たちに次のような警告を放った。二日前の前大戦平和記念日に、フランス人学生がエトワール凱旋門において、無名戦士に花束を手向けるがごとき示威行為を行ったために逮捕された、今後は注意せよと。「これを聞いていた学生たちが一せいに起立して拍手するのを見てただ驚くばかりだった」と加藤は記している。「敗戦国フランスを象徴する光景」(45)だった。この事件については、前田陽一の証言もある。前田によれば、学生たちは二本の釣り竿を先導者が掲げて行進したのだという。つまり、「ドゥ・ゴール」(二本の釣り竿=ド・ゴール将軍)というわけで、「対独レジスタンスの最初の国内表示」だったわけである。この事件でパリ大学総長は罷免されたという(46)。やがて、大学もコレージュ・ド・フランスも、東洋語学校も、閉鎖されてしまった。
日本から届いた手紙を加藤が開封すると、砂糖やマッチが切符制になり、物価は二倍、ビールの入手も難しくなっているとあった。友人に紹介されたインドシナ人と話を交わすと、彼はフランスの植民地支配を非難し、日本軍の侵攻を歓迎すると言った。やはり西洋人による支配から脱却したいのだなと加藤は思った。 このころ、加藤はサン・ミッシェル通りの映画館で、コリンヌ・リュシェールの「美しき闘争」を観ている。そして、その後、日本大使館を通じて半年遅れの手紙が日本から届くと、日本でもこの映画が大評判となっていることを知る。ヴィシー政権は対独協力政権であったので、フランス映画は日本国内でも見ることができたのである。小説第一作「アフリカの體臭」でコリンヌ・リュシェールを登場させた遠藤周作もまた、この映画を日本国内で見た一人かもしれない。 一二月二〇日、大学に「学生に告ぐ」という掲示が出たのを加藤は見た。「フランスの再興は若い学生諸君の双肩にかかっている。その責務は軽くはない!」。文学部長が教室で学生たちに大演説をしたが、学生たちは「淋しい拍手を送るのがその反応のすべてで、非常な失望を禁じえなかった」(47)。
年が明け、一九四一年元旦、日本大使館にパリ在住日本人が集まった。新年祝賀会があったのだ。レコードに合わせて軍歌を合唱した。一九三七年からパリにいた大倉商事パリ支店の大崎正二(一九一三―)は「この悲壮感はヨーロッパにない特殊なもの」だと感じていた。その後日本映画が上映された。「軍馬として徴用されて行く愛馬に、別れを惜しむ農家の人たちの尽きぬ涙のその場面がじめじめといつまでもつづく。映画は徹頭徹尾、国民に涙を強いる不愉快なもので、これまた奇異な感がした」(48)。出席者一同は、最後に大日本帝国万歳を三唱した。
三日から、ヴァレリーの講義も始まった。寒いパリの冬だが、暖房用の燃料が不足してたいそう寒かった。四日にベルグソンがなくなったが、ユダヤ人ということもあり、葬儀すら行われなかった。ヴァレリーはアカデミー・フランセーズで九日に追悼演説を行い、翌日の「詩学」講義でも、ベルグソンを「思想の最後の代弁者」と称えた(49)。ヴァレリーの追悼原稿は、その後密かにパリの知識人の間で読まれたという(50)。
一月二八日、湯浅は日本軍艦が在留日本人を迎えに来るという情報を得て、「帰るか、残るか」悩んだ。日本船が来るとの情報は加藤にも伝わった。一月二九日、加藤は片岡、湯浅と会っている。片岡が落ち着いた口調で「わたし居残ることにするわ!」というのを聞いて、加藤は「なぜか虫酢が走る思い」がした。加藤は帰国を半ば決意していた。「湯浅さんはこの軍艦に便乗できると考えているのか、しきりに迷ったあげく、わたしにも「帰るの?」と聞く。〔……〕女性であることをどう考えているのか、明瞭でなく、やや気の毒に思うがいたしかたない。〔……〕女性というものはいざとなると協調ができなくなるらしい」と日記に記している。加藤は当然帰国するべきだと考えていたのだ。一月三一日、「湯浅さんがやってくる。彼女はまだくどくどと繰りごとを言いながら帰国についてのわたしの意見を聞きたいという。しかし決断は各自の問題なので自分で決める以外には方法はないと忠告するほかなかった」。彼女は迷いに迷っていたのである。「湯浅さんをどうするか、彼女は本当に迷っているのか? われわれは彼女のために何をすべきなのか」。加藤は友人と遅くまで話し合ったが、「結論は出なかった」。
「発てば生きてお父様に会える。これは大きな誘惑である。しかし今帰ってしまったら、私は研究をしたといえるだろうか」。これは湯浅の二月二日の日記だが、翌三日に、「日本政府は女性と子供の乗船を禁じたという。これで私は全力で研究するしかない。父の希いを実現するためにも。パリはまた雪。」と記した。この情報は加藤にも伝わっていた。「船のことはわれわれと湯浅さんとのあいだの気まずさにつながりそうだった」と日記に加藤は記している。
二月六日、加藤の下宿に留学生たちが集まった。湯浅はよくしゃべった。片岡は黙りがちだった。二日後、湯浅から加藤に手紙が来た。「あの日は夕食にもお付き合いをするつもりだったが、片岡さんのエゴイズムのためにやむなく同行できなかった」と詫びた後で、加藤の帰国には反対である。再考してほしいと書かれていた。「彼女の温かい友情には感謝しきれないものがあった」(51)。一七日、日本大使館を通じて日本からの手紙が来た。この日、遅くまで片岡、湯浅とホテルで話し込んだ加藤は「湯浅さんは父親が健在らしいのを喜んでいた」と記している。しかし彼女の父親は、一月一九日にすでに亡くなっていた。訃報が届いたのは三ヶ月後のことである。帰国しても生きた父には会えなかったのである。
ポルトガルのリスボンに来るというのは新造船あさか丸八〇〇〇トンという話であった。結局、スペインのビルバオ港から出帆することになり、加藤は鉄道でボルドーを経由してスペイン入りした。パリのメトロで、湯浅ら数人の友人たちが見送ってくれた。仏西国境では、ドイツ兵が「ドイツ出国許可証」のスタンプを加藤のパスポートに押した。加藤は乗船前に闘牛を観た。六頭の牛が殺されるのを見て、吐き気を催した。
停泊している濃紺の船は「あさか」と書いてあり、甲板上のものには全て覆いが被せられていた。二門の大砲が備わっており、マストには海軍旗がはためいていた。日本郵船の貨物船浅香丸が海軍に接収され、横須賀で軍艦に艤装されたのである。加藤は知らなかったが、魚雷をドイツ側に提供し、ドイツから海洋遠距離爆撃機ミッサー・シュミットなどを受け取り、日本に運ぶことを第一目的としていたのである(52)。万一敵艦に攻撃されて沈没したならば、加藤らはパリで客死したということになっていたらしい。総勢一〇〇人ほどの日本人が乗り込んだ。無寄港で日本を目指すのである。三月二一日には海上で春季皇霊祭りの遙拝式が行われた。甲板でフランス語の本を読んでいると、海軍将校の一人が硬い内容のフランス本を貸してくれたりもした。機関銃や大砲の実弾訓練も行われた。凄まじい轟音に加藤は驚いた。加藤が船上の人であった頃、日本国内では治安維持法の改正が行われ、厳罰化が進んだ。
あさかが横須賀港に到着したのは四月二八日のことである。翌日は天長節。正午のサイレンの後に礼砲がとどろく。大日本帝国がアメリカ合衆国を相手に戦争を開始する八ヶ月前のことであった。「今こそフランスの文化が戦争に抵抗して継続発展する様子をしかと掴みとらねばならない」と考えたこともある加藤だったが、結果的にそれを見届けたのは、加藤ではなく、湯浅であり、片岡であった。
片岡美智は、湯浅のようには帰国について悩まなかった。何があろうともフランスに留まろうと心に決めていた。それには理由があった。パリに来て早々に直面したことがあったからである。
《文学を学ぶことの容易でないことが解った。科学に身を委ねるのならば、専門の範囲というものが定まっている。毎日身を閉じこめて没頭することの出来る研究所、実験所というものがある。それに反して、文学とは、有って無きが如きものではないか。文学とは、生活と共にあり、文学への理解は生活と共に深まってゆくものではないか。これは大変なことになった! と私は悲鳴を上げた。留学年限として与えられた二年という短い期間に、どれほどのこ とが出来よう?〔……〕 たゞでさえ限りのないものであることに気がついたのに、私が手をつけ始めたのは、フランス文学ではないか。科学者にとってならば、言葉は単なる手段でしかない。彼等にとっては、仕事が本領であるから、一定の語数、一定の表現形式を知っておけば、研究の成果を発表することも出来ようし、互の間に意思の疎通も可能であろう。ところが、一つの国の文学は、その国の言語と一体をなしている。(53)》
この思いが、コレージュ・ド・フランスの研究所に嬉々として通う実験物理学者湯浅年子を傍らに見ることで生じた認識であったことは明らかであろう。彼女は「未だかつて覚えたことのない絶望のどん底に落ちこんだ」と記している。彼女はその絶望状態から這い上がるために、一から勉強し直そうと、パリ大学で文学の勉強をするかたわら、大学附属の海外フランス語教員養成校に入学した。「私は前の晩、というより夜半過ぎまで宿題にかじりつき、着の身着のまま数時間まどろんで、毎朝八時迄に学校へ駆けつけるのであった。スュフロ街を横切る時、空を被っているパンテオンの大ドームから、時として朝日がほのかな後光を投射していた。」(54)。
そういう片岡から見て、パリ大学の学生たちは、真剣さが欠如しているように見えてならなかった。片岡は、そのような義務はなかったにもかかわらず、留学中に博士論文を書き上げることを誓った。湯浅が学位論文を書くことを目指していたことも意識したのではないだろうか。しかし、鋼鉄の意志を持つ二人の女性たちの友情は、次第に危ういものになっていったようである。
湯浅は父親の死を六月になってようやく知るところとなり動揺した。
《私は父の死の床に侍られなかった。悔いる気持ちも今となってはすべて無。神もない、父もない、希望も未来も物理もない。あるのはただ母だけである。帰ろう、帰るより仕方がない。〔……〕野良犬のようにうろうろとした気持ちで、一人パリの街を歩き、夜は夢を見て、突然声を立てて泣いた。しかし朝は再び平静な態度で研究所へ行く。/私はいつしか悲しむのに疲れた。ともかく成るようになる。そんなときKさんに会った。/Kさんの十分な知性や才能にもかかわらず、何か大きな距たりを感じる。……(55)》
六月二九日、大学人国民戦線の非共産党員メンバーであったジョリオが逮捕された。戦前に彼の助手だった反ナチスのドイツ人の尽力でほどなくして解放されたが、彼はその後共産党に入党し、地下活動に本格的に関わることとなる。レジスタンス活動に挺身するようになるのである。イレーヌは持病の肺結核のために、サナトリウムで療養することも多くなった。
十二月八日、太平洋戦争が始まった。「私はこの種の問題には冷静で、重大さを感じないと思っていた。しかし今日は心に深い悲しみを覚え、突然、この心痛を同胞と共有しなければならないと考えて非常に深刻になった。」と湯浅は日記にしたためた。(56)。
年が明けた一九四二年の二月一二日の湯浅の日記。「昨夕、つまらぬことでKさんと言い争い、一時的な合意に達して帰ったものの、多くの誤解があり、気分の悪い一夜をすごした。」(57)。湯浅との人間関係の軋みについて、片岡は大倉商事の大崎正二に相談した。相手の女が誰かは言わなかったが、大崎には見当がついた。大崎は絶交状を指南して、日本大使館の集まりなどで会っても口を聞かないこと、手紙が来ても開封しないように言った(58)。こうして二人の友情は終わった。片岡はパリの日本人社会の「不快な対人関係」に苦しんでいた。「誰がこういった彼がああいったと耳にするだけで、既に過敏になっている私の神経は苛立たずにはいなかった。苛立てば勉強が思うように進まず、私はいよいよじれた。」(59)。しかしそれは湯浅も同じだった。三月二日、湯浅は掌編小説「モンストル」を書いている。パリにいる「お化け」、「手繰ればたぐるほど、親分、子分とある化け物で、いくらでも、いくらでも、出てきて、しかも千変万化」なモンスターである。
片岡は、ある朝、養成校で仲の良い友人ドレフュスの紺色の服の胸に黄色いシオンの星のマークが付いていることに衝撃を受けた。また、ある日ポーランド人の友人ハンナの下宿にお古のハンドバックをあげようとして訪ねると、未明にドイツ兵が来て連行していったと玄関番から言われて愕然とした(60)。帰国した加藤が見なかった占領下フランスの現実を、片岡は目撃していた。ちなみに、片岡は外国人であるにもかかわらず、同盟国ということもあり、フランス政府から給費を受け続けていたが、実はヴィシー政権は、大学生の約一割が受けていた給付を、ユダヤ人学生に対してだけは停止してしまったのである。(61)。
七月に海外フランス語教員養成校の最終試験に合格したので、片岡は国会図書館東洋部の知人ギニャール夫人に挨拶に行った。夫人はやせ細った片岡を見て、ロアール地方でドミニコ会主催の修養会があるから田舎の空気を吸ってくるように勧めた。片岡は早速申し込んだ。会場となったシャトーは広大な敷地と神秘的な雰囲気を持ったすばらしいところだった。マリー・マドレーヌ・ダヴィー女史が組織したこの共同体で片岡は二ヶ月間を過ごすことになるが、数日間は昏々と眠り続けたという。やがて元気を取り戻すと、日本人が一人もいない環境のなかで、彼女は自分が解放されるのを感じた。惹きつけられる修道女がいて、彼女と対話をするようになり、聖書を読んだ。物質的なものに対する執着が消えてなくなるのがわかった。九月にパリに戻ると、彼女の人間嫌い、日本人嫌いは消えていた。十月四日、彼女はプロテスタントからカトリックに改宗した。ドミニコ会総管長の司祭から洗礼を授けられた。それは「生きるか死ぬかの問題であったのだ。私は、死をではなく、生命の方を得た」(62)。片岡は修道会に入ることを望んだ。この共同体(ドミニケーヌ・ド・サン=ジャック)は知的活動も使命としていたので片岡に相応しかった。代表者はマドレーヌ・ダヴィーという博士号を持つ女性であった。片岡はパリを去ることにした。彼女は自分を「放蕩娘の帰宅」だと感じていた。ロアール河畔のモールバール、ブルーに生活の拠点を移した。心に溢れるものを感じていた片岡は、パリを去る間際に、兄に話すような気持ちで一人の日本人男性に夏の体験を話した。ところが彼の口から出た言葉は恐ろしいものであった。「そんなことが口に出していえるようじゃ、まだ駄目だ!」。片岡は、日本の男がフランス文化をどれだけ学んでも、実生活の上では「〈オイ!〉〈コラッ!〉式の居丈高な殿様根性を、絶対に捨てようとはしないのだ」(63)と思うしかなかった。
湯浅が「人工放射線核から放出されたβ線連続スペクトルの研究」でフランス国家博士号(理学博士)を取得したのは一九四三年十二月のことである。日本人女性として初めてのことであった。「私共審査官一同の祝辞とともに理学博士の学位を……」というところまでくると、拍手が沸き起こり、人々が次々に湯浅に握手をしに集まってきた。「何だか泣きたいような気持ち」。大きな目標を達成した。だが、人々が去り、がらんとした広い講堂に一人残されたとき、彼女は虚無に自分が浸されるのを感じた。
恐ろしき虚無みつめ居り吾が仕事なれるといへるこの朝にして
幾度か悲しき想ひあふれきぬ友の投げたる数(す)言の罵り
「これからは死のための準備もしておかなければならないと思う」と湯浅は日記に記した。おそらく彼女は人生の一時期を完全に生き切ったのだ(64)。
おそらく学位取得以上に嬉しかったであろうことがあった。片岡との和解である。一九四四年の二月二日の日記を引く。
《Kさんから手紙が来る。ミス・ワットソン〔国際女学生会館の主人〕が私の論文のことを知らせたためのお祝なのである。何ともいえずひろがりゆく喜びを感じた。やはり私に欠けていた「友情」が再び帰ってきたよろこびなのであろう。 /交わりを絶ちゐし友の送り来しペルス・ネイジュの花鮮しき 》
片岡がフランス国家博士号(文学博士)を日本人女性として初めて取得するのは一九五〇年のことだが、彼女にとって、湯浅の学位取得は「わがこと」のように嬉しいできごとだったはずだ。「どれだけの女が――しかも女だけが――闇に葬り去られたかも解らない」封建的な日本社会から逃れ、「自分の全エネルギーを注げる場、自分の中に萌芽として持っている凡ゆる可能性に伸びる機会を与える試練の場、それを私はフランスに見出したのであった」(65)と戦後回想する片岡は、同じ情熱を湯浅のなかにも見出していたはずだからである。
四月八日、湯浅は片岡がいるブルーのシャトーに赴いた。片岡が彼女を誘ったのに違いない。小鳥たちが鳴き交わす、豊かな自然に囲まれた美しいシャトー。そこは片岡自身が新生した聖なる土地であった。
《どんなにかぎこちなくもあろうかと思った旧友との会見も案外自然であり、昔と同じように話し合って、散歩して、そして今自室に引きこもってみると、不思議なことに心の作用がピタリと止まったように、何の情念も起こってこない。うれしいのか、心苦しいのか、なつかしいのか、悔ゆる心か、どれでもない。〔……〕私のかたくなさがこの場に至って卑怯にも逃げを打っているのであろうか。すなおな心、裸の心で話し合ってみたい。お互いにまだまだ脱ぎきらない衣を心に着ている。
二年をおのもおのもにすごしつゝ今あひ見たり友と我はも
苦しみを超えて会ひたる友と我かたみに何の言葉もなき(66)》
到着六日目の日記には「昨日は皆と一緒にヌーイの教会まで行き、前にKさんがいたというシャトーを見て、帰りに裏山でわらびなどをとって帰ってきた。夜の集りに私の歌の仏訳を詠んだ。詠みながら不意に涙が出てしまった。止めようとしても止まらなかった。」とある。湯浅はふたたびパリに戻り、片岡はブルーに留まる。二人の人生の航路が大きく分かれるのは、この数ヶ月後、パリ解放の前後である。
五月、ヴァレリーはコレージュ・ド・フランスの前で、ドイツ人士官にここは美術館かと尋ねられた。ここはコレージュ・ド・フランスという学校です。「それは、何を話しても許される家です」とヴァレリーは言った。日本国内では日本文学報国会が組織され、自由な言論は封殺されていた。「何を話しても許される家」はどこにもなかった。
連合軍によるノルマンディー上陸が伝えられた六月六日、イレーヌは子どもたちとパリを脱出してスイスに亡命した。大学人国民戦線の責任者になっていたジョリオは抵抗運動のために研究所から忽然と消えた。湯浅はドイツ側からジョリオの行方について訊ねられたが、「私たち日本人はこういうとき、たとえ知っていても言いません」と応えた(67)。ジャン・ピエール・コーモンと名を変えたジョリオは、その後、塩素酸カリウムとガソリンを混合させる爆弾を自らパリのあちこちに仕掛けるまでになる(68)。
六月七日、湯浅は日本大使館からパリを引き上げるよう勧告される。「私は、もはやこの戦争の行く末がわれわれの予想するものである以上、わざわざドイツまで行く気がしない。パリで、研究所へ通いながら、もし死ぬものなら死にたいと思う。大使館の人たちにはこの気持ちが通じない。日本人として、行動を共にすべきだという。非国民的行為だという。しかし、ドイツへ逃げて、戦争の終るまで何もしないでいるのが、はたして祖国のためになることであろうか」と湯浅は日記に記した。(69)。この時点で湯浅はパリを去る気持ちがなかったことがわかる。けれどもその二ヶ月後、彼女は「パリで、研究所へ通いながら、もし死ぬものなら死にたい」という思いをひるがえす。
《私への引揚命令は大使からのものであると報ぜられました。これをきいて私は決心をひるがして、ドイツ行を決めました。〔ジョリオ〕先生は私が大使のゆえに、この命令に従ったと思われないだろうと 信じます。しかし、それならなぜか、と思われるでしょう。これは私にもそのときまで、まるで予期しないことでした。「大使の命令は天皇陛下の御命令である」と考えた瞬間、私のうちに知らずにあった天皇に対する忠誠心ともいうべきものが、明確に姿をあらわしたのです。(70)》
この心理の背後には、湯浅の尊敬する父親が、天皇に忠誠を誓う大日本帝国の官僚であったこともあるのではなかろうか。八月一五日、日本大使館の公用車二台、前田陽一のルノーら合計八台に分乗してのパリ脱出だった。この旅については前田の「欧州戦遁走記」に詳しいが、強制収容所の政治犯一行を目撃した文章は紹介しておきたい。「粗い縦縞のピジャマのようなものを着て、ピョコピョコと何かおどけたような歩き方をして来る人々の四列縦隊」を前田は見た。「歩き方といい、表情といい、生気の通っているもののようには見えず、初めの印象では、フランスの子供達が片手を入れ指で動かして遊ぶギニョルという操り人形のような滑稽味さえ感じられた」。それは四、五〇〇人の囚人であった。「文字通り骨と皮ばかりなので、生物通有の温い曲線を画く運動は最早できなくなり、顔の表情も余りに長い苦しみに、苦しさの感覚さえ殊によると喪失してしまったのではないかと思われる程であった」。行列の傍らには凶暴そうな番犬がところどころに配置されていた(71)。当時の前田は「ナチ政権の為したことでも全部が全部悪いとは決して思っていなかった」が、この光景には戦慄を禁じ得なかった。
こうして一行はベルリンに辿り着いた。パリ解放後の八月二六日、湯浅は「全ての希望は無残に踏みにじられてしまった。/八月一五日午前四時パリを出発した。Kさん、その他の同胞を残して」と書いた。その他とは、主に配偶者がフランス人の、長谷川潔(一八九一―一九八〇)のような人々であった。
片岡は一人の独身日本人女性としてフランス国内に留まっていた。無論、彼女の許にも日本大使館からの勧告は届いていた。「在外の日本帝国臣民は皆、行動を一にして母国へ急ぎ帰れという天皇陛下の御命令だとのことである。それに従わず外国にとどまるものは国賊とみなされ、生涯日本の地を踏めないかも知れないとの噂が、私の耳にも入った」(72)。しかし片岡は即座にこう決意していた。
《本質的なものにつくべきだ。自分の道を見出して修業の途次にある私のなすべきこと、それはこの道を進んでゆくことだ。そのために国賊呼ばわりされ、祖国から見捨てられても万已むを得ない。人間として、何ものかに到達することが出来るならば、いつかは何かを与え得る人間になれるだろう。問題は、私自身が、与え得る人間になることだ。(73)》
片岡は「天皇陛下の御命令」に従わなかった。留学前にすでに特別高等警察から「国賊」扱いされ「おまえのような女は、死んだ方が御国のためだ!」と面罵されていた片岡は、湯浅のように「天皇に対する忠誠心ともいうべきもの」に動かされることがなかったものと考えられる。「永遠に日本の土を踏むことなく、世を去る」ことも、彼女は覚悟していた。
パリ解放が伝えられると、片岡は知人のトラックに同乗させてもらいパリに向かった。どこまでも続く麦畑を眺めながら、彼女はシャルル・ペギーを思っていた。パリにドイツ軍が入城する直前、パリ市内のあちこちでペギーの連続朗読会が行われていたのだ。朗読会の最後にはフランス国歌ラ・マルセイエーズが奏でられた。麦畑のなかに、アメリカ軍の戦車が並び、黒人兵たちが大勢いるのを片岡は見た。しかし、その遙か向こうに、シャルトルのカテドラルの尖塔が浮かび上がった。「フランスは滅びない!」と片岡は心に叫んだ(74)。
パリ市内は混乱していた。彼女はヒッチハイクをしてパリから五〇キロほど離れたブリー地方のシャトーに居を定めた。修道会関係のシャトーである。地下室には、ドイツ兵が脱ぎ捨てていった制服が山積みにしてあった。片岡らはそれを茶、臙脂、紺などに染め直して普段着に仕立て直した。二ヶ月間をここで過ごした。近くの国道を軍用トラックが若者たちを大勢乗せて毎日走っていく。ドイツ軍の軍服を着ているが、復員するフランスの青年たちであった。片岡は、三階の部屋の窓から、あるいは庭先から、彼らに手を振った。トラックからは、それに応える喚声が上がった。
八月一八日、ヴァレリーは『フィガロ』紙のビルのバルコニーから、ド・ゴール将軍の到着を待つ群衆を見守っていた。戦車。国旗。歓声。その後仕事に取りかかったヴァレリーは、不意に笑いに襲われた。「それは、放心という無防備な道を通って、わたしの底意からやって来た笑いでした。そして、その笑いとは、「出て行った、やつらは出て行った」、というものでした」(75)。
十月、日本では、神風特別攻撃隊の出撃が始まった。一一月以降は、東京、名古屋、沖縄などでアメリカ軍による大規模な都市部への空襲が行われるようになる。
ベルリンの湯浅は後悔の念に襲われていた。一一月三〇日、「それにつけてもパリを捨てたこと自身、やはり私の勉強に対する気持ちの純粋さのなかったことからきたのだということを、しみじみ思う。その点Kさんの方が純粋だったと思う」と彼女は日記に記している。湯浅は気を取り直し、翌月にはベルリン大学附属第一物理研究所でクリスチャン・ゲルツェンの下で研究する道を開拓していた。
一九四五年二月、日本大使館が邦人の避難勧告を出したが、湯浅はベルリンに留まった。パリを捨てた二の舞を演じることを自らに禁じたのであろう。三月一五日、湯浅は陸軍中佐から、もはやベルリンに残ることは赦されないと言い渡された。陸軍は決して科学を理解しないと悟った湯浅は、日記にこう記した。「私のとるべき道は明らかである。研究を続けること」(76)。湯浅は逃げ惑う人生を止め、踏みとどまる人生を再選択したのである。日本大使館が慌ただしく引っ越し準備に追われている最中、湯浅はベルリン大学で研究を続けた。「研究所の扉も天井も窓も壊されて、硝子の破片が廊下や部屋に山と積まれる中を、よけよけ研究を続けている。〔……〕丁度火事場で研究しているようなもので、狂人の部類に入ろう」(77)。こうして、湯浅はパリ時代に作成に着手していたβ線スペクトロメーター(ベータ線スペクトル測定用二重焦点型分光器、質量と運動量を同時測定する世界最初の装置)を完成させた(78)。
四月一五日、湯浅は日本大使館の再度の勧告に従い、ベルリンからマールドルフに移った。日本大使館自体がベルリンを去るがために、食券の配給がなくなってしまうからである。完成させたβ線スペクトロメーターをリュックサックに入れた。「どうして飢えに負けて、研究を途中で抛ってしまったのか? 妥協性! その点で私はKさんの足許にも及ばないことをしみじみ感じる」(79)。ここでも湯浅はフランスに留まった片岡のことを思っている。
マールドルフはベルリンから南西に八五キロほどの地点にある村だった。広大な森に囲まれた、地下室のある三階建の古城に一二〇人ほどの日本人が居住することになった。三月初め、大倉商事の大崎正二と三井物産の上野辰雄が副領事の自動車で使者として城主の伯爵夫妻のもとに滞在していた。夫妻の信頼を得ておくこと、日本人宿泊者用組立式二段ベッドを村の木工場で急いで製作させたりする必要があったからである。伯爵夫妻に初めて会ったとき、大崎はフランス語で話しかけた。するとフランス語に堪能な夫妻の顔に困惑の表情が浮かんだ。当時は危険な行為だったからである。(80)。
五月八日、ドイツの無条件降伏承認調印の翌日、湯浅はさらに戦争を継続する日本について思索を巡らせている。政府に戦争の無謀さを伝えようとしなかった在外諸官吏、外交官、陸海軍武官たちこそ「国賊とよばれるべき」もの、「吾等同胞の血を吸って生きてきたものである」。
パリでは、ヴァレリーが「ドイツが息絶える。そして、ドイツとともに、ヨーロッパも――なぜなら、大国は非・ヨーロッパの国々ばかりだから」と書き記していた。すでに衰えていたヴァレリーは、二ヶ月後にこの世を去り、国葬に付される。
湯浅ら一行は五月一八日に軍用トラックでベルリンに運ばれ、二五日にモスクワに移動した。満州里までシベリア鉄道で移動し、敦賀港に着いたのは六月二六日だった。疎開先には、変わり果てた母親がいた。
《やせ衰え、老いまして、貧しいふとんに寝ておられ〔……〕ああ、この姿、姿、私は何も知らずに自分一身のことに屈託しているあいだ、お母様は身をけずり、骨を砕いて、私を待って、待って、待ちきれずにこうして病み倒れてしまわれたのだ。〔……〕 これは夢ではないのか。〔……〕この何もかも「年子のために、年子が帰ったら」と、食べるものも食べず、貧しいなりですごして、とうとう身も心も弱ってしまわれたお母様を、もう一度もとのお母様に戻して〔……〕、静かに二人の生活をして、母の余生をすごさせ、その後に私はカトリックの僧院に入って、静かに信仰の生活を送ることにしたい。(81)》
七月七日の日記だが、同月二八日、母親は死去する。
湯浅は東京女子高等師範学校助教授に復職し、長野県の疎開先に赴任する。八月六日、広島に投下された新型爆弾が原子爆弾であることにすぐに気づいた彼女は、学生たちにその可能性について話したという。八月一五日、玉音放送が流れた。放送を湯浅は聴けなかったが、「ついにことは私の予想したごときなるを知った」。
うしほのごとおしよする涙乙女等はなきて大君のみことうけたり
大君のみこゝろもへばみたみ吾等あらがふべきに あらねとはいへ
短歌は湯浅の人生を支えるものであった。彼女の母親が江戸時代の歌人、国学者橘守部(一七八一―一八四九)を曾祖父に持つ人物であったことも、ここで思い起こす必要があるのかもしれない。「おおきみのみこと」「おおきみのみこころ」。こうした語彙が科学者湯浅年子の日本語世界の根底に沈殿しており、それらが大日本帝国崩壊のときに彼女のなかで甦ったことに私は驚くのである。
日本の敗北を、片岡はブールヴァールのシャトーの自室で知った。博士論文の第一稿を書くために机にはりついていた。一人の友人が部屋に入ってきた。「ミチ、あなたに一刻でも早く知らせたいと思って……」。片岡は黙って聞いていたが、「私はある厳粛な気分に支配された。自分の中で、何かがしゃんと襟を正し、両肩に大きな責任がかかったように感じられた。その瞬間から、頭は冴え、異様な力が漲って、勉強が面白いほどはかどった」。数日後、一人の日本人と出会い、「日本が敗けたと知ったとたん、何もかもガラガラッとくずれ落ちた気がした」と言われ、片岡は「同じ日本人でありながら、自分の中に起ったことがそれと正反対であったことに気がついたのであった」(82)。驚かざるを得ないのだが、フランス外務省はパリ解放後も彼女に留学生給費を継続し続けた。パリ大学の二名の教授の推薦、パリ国際大学都市会長の口添えなどに拠る計らいであった。それは彼女の身の安全を保証する証しともなったのである。
片岡はパリに戻り、一三区にある北向きの小さな部屋に落ち着いたが、世話になったカトリックの共同体は解体しつつあった。片岡に洗礼を授けたドミニコ会総管長の司祭が解体のために動いていた。パリ大学で公開講義を持つまでの権威を持つマリー・マドレーヌ・ダヴィー女史の人格が急速に崩壊しつつあったからである。若くして哲学教授資格を取得し、「ギュイヨーム・ド・サン・チェリーの神学と神秘思想」で学位を取り、聖ベルナールの二巻の編集などの業績がある彼女は、次第にカルトのグルめいてきて、「あちこちから詐欺師として訴えられるようにさえなった」のである。ダヴィーがのめり込んでいったのはエゾテリズムの世界だったが、当時のパリは、ジプシー占い、ブラヴァツキー夫人の神智学、ルドルフ・シュタイナーの人智学、クリスチャン・サイエンスなどがあちこちで集会を開き評判を呼んでいた。クルシュナムルティ自身の講話もあった。有閑階級の女性たちが、そうした世界に熱中していた。驚いたことに、ダヴィー女史にもそうした秘教的世界の「寵児たらんとするあがき」が見られるようになった。片岡は、「非凡な体力と才能とを兼ね備えた一人の人物が、千丈の谷に落ちる深山の古木のように、どっと破滅の淵に落ちてゆく様を目のあたりにしたのであった」(83)。共同体を立ち去る時が来ていた。ちなみにダヴィー女史は一九五〇年からシモーヌ・ヴェイユに沈潜するようになり新生したようだ。一九六〇年代に、ヴェイユ研究書が二冊邦訳されている。 片岡は、サルトルが登場した戦後のパリで営々と研究を続けた。書き上げたスタンダールに関する学位論文が審査されフランス国家博士号を取得するのは一九五〇年のことである。それからさらに二年間、片岡はフランスに留まった。一二年間余の留学生活。三〇代初めだった彼女は四〇代半ばになっていた。遠藤周作がフランスに留学したのが一九五〇年のことである。遠藤と片岡が文通を交わしていた事実は、冒頭に記したとおりである。遠藤は、片岡とパリで会っていた頃までは、フランスで博士号を取得することを考えていたのかもしれない。
敗戦後、湯浅は東京に戻り、東京女子師範学校校舎に寝泊まりしながら、理化学研究所の嘱託となり、研究再開を期した。しかし、GHQは日本の原子力研究を禁止し、一一月二四日、理化学研究所の二台の陽子サイクロトロン(核反応実験のための機器)が東京湾に廃棄される。翌日の朝刊でそれを知った湯浅が、駆けつけた理研の実験室の傍らで「呆然と立ちすくんでいた」姿を、その場にいた山崎美和惠は記憶している(84)。彼女は自らを実験物理学者として定義していたから、実験の手段を奪われたことは死の宣告をされたも同然だった。
湯浅はその後、やむなく理論研究を進める傍ら、ジャーナリズムからの執筆依頼に応じて啓発的な書き物を大量にものしたので、彼女の世間名は高まった。フランスで研究を続ける片岡を意識しないということはなかったであろう。戦後の日本社会で彼女が痛感したことは、人々があきらめの中に「安住」していることであった。「血みどろになっても正しさを守ろうという熱意があらゆるところに欠乏していること」であった。ドイツ占領下のパリでも「ただ一つ、自分の生命をかけて自己の主張を守るという権利だけは、だれにも左右されずに残されているということを実感をもって考えたもの」であった彼女には、それが歯がゆかった(85)。
一九四九年、コレージュ・ド・フランス附属原子核化学研究所の招聘により、湯浅は再度渡仏する。四〇歳になるのを目の前にしての決断であった。同世代の湯川秀樹(一九〇七年―一九八一)がノーベル物理学賞を受賞した年である。ちなみに湯川は戦時中に日本の原子爆弾製造計画に関与していた。科学者にとっては長い空白の時間が湯浅にはあった。けれども意を決して渡仏した彼女は、二度と日本には戻らず、パリで客死することとなる。日記には、科学者としての頭脳の老化を自覚する文章が散見され、痛々しいが、死ぬまで科学者として生ききろうとした気迫には並々ならぬものがうかがわれる。片岡と違って解放直前にパリを去り、三〇代という科学者人生の黄金期に空白の五年間があったことへの苦い思いがあったからに違いない。
湯浅はこのとき、ベルリン時代に制作したβ線スペクトロメーターとともに、原子爆弾投下後の広島を撮影したフィルムを持って行った。それを見たフランス人が受けた衝撃は大きかった(86)。アメリカ合衆国が広島・長崎に原子爆弾を投下したことに、ジョリオとイレーヌは戦慄していた。ド・ゴールもそうだった。一九四五年一二月、フランスは原子力委員会を発足させる。巨大エネルギーの利用に関するさまざまな危険な思惑に対処するために、原子力研究の国家独占を保証するためであった。ド・ゴールは原子力委員会に核の軍事利用研究も指示したものの、「核抑止」という論理とまだ出会っていなかったため、この時点ではフランスの核武装を考えてはいなかった(87)。ジョリオは委員長に就任、イレーヌは委員となった。二人は原子力の平和利用を掲げた。一九四八年、フランスは最初の原子炉を稼働させた。湯浅が渡仏した一九四九年四月に三日、ジョリオはフランスで原子爆弾を開発する可能性について、明確にこれを否定する見解を提示した(88)。一九五〇年、彼は原子力委員会委員長を解任される。冷戦が始まり、ジョリオが共産党員であることが問題視されたのである。コレージュ・ド・フランスでは、挨拶をしなくなる同僚が現れた。学生たちだけが彼に忠実だった(89)。この当たりの消息を、瀧澤敬一が文章にしている。『ニューヨーク・トリビューン』から批判されたジョリオは「フランス共産党員は政府から委任された職務のある他のフランス国民と同じく、いかなる国に対しても個人のものでなく国家に属する研究の結果を良心をもつて漏らすと考へることは出来ない」と記者会見したのだが、瀧澤はカトリック信徒で反共産主義者だったので、「フランスの大科学者にはよく赤がいる」といい、ジョセフィン・ベーカーの「恋は二つ生まれ故郷と花のパリ」と重ね合わせて「黒ん坊芸人ならぬ大学者に祖国が二つ舌が二つならば大変だ」と記したのである。(90)。
三人のなかで、最も早く留学生活を切り上げて帰国した加藤美雄のその後の軌跡についても記しておこう。幸運なことに、加藤は敗戦まで応召されることがなかった。京都にいたので、空襲とも比較的に無縁だった。親族で戦死した者もあったが、たとえば同窓の野間宏は中国大陸やフィリピンに送られたばかりか、思想犯として陸軍刑務所に収監までされているのである。「真空地帯」とも、殺し殺される戦争の惨禍とも、加藤はとりあえずは無縁であった。彼が戦後サルトルに関心を示していないのも、専門領域の違いもさることながら、戦争中に一貫して「銃後」にいたこととも無関係ではあるまい。
帰国した湯浅と加藤は京都を逍遙して旧交を温めた。そして湯浅がパリに再度渡仏した一九四九年、三四歳の加藤はディドロ『盲人書簡』を岩波文庫で刊行した。吉村道夫との共訳書である。加藤が書いた訳者あとがきに拠れば、吉村は一九四四年三月に応召され、中国で戦死していた。これは彼の遺稿だったのである。アンスティチュ・フランセ関西のホームページにある沿革には、次のような記述がある。「ジロドウの若き翻訳者であった吉村が、戦争の最後の日、中国で戦死した。インドシナ占領に協力することを拒んで、召集され中国へ送られた。インドシナ占領を拒んだのは、愛するフランスに敵対して働かざるを得なくなるのを避けたのだった」(91)。その後、加藤はマラルメ研究に着手する。
一九五二年、フランス人の夫とともに帰国して南山大学に奉職した片岡は、京都外国語大学に移ったときに、加藤に専任教員として来ないかと誘った。すでに大阪大学で教鞭を執っていた加藤は、丁重に誘いを辞退した。こうして、加藤、湯浅、片岡の三人は、それぞれの戦後、それぞれの後半生を歩み始めたのであった。
「〔彼女は〕科学者の道の中に一種の司祭職を見ていた」――これは湯浅その人について語った言葉ではない。ウージェニィ・コットンがジョリオの岳母マリー・キュリーについて語った言葉である。彼女は続ける。研究者の生活というものは、「大きな自己放棄を含む」とマリーは考えていたと(92)。湯浅が自らの人生をどのように形成していったのかを見てきたわれわれは、彼女もまた研究職が「自己放棄」を必要とするものであることを理解していたことに気づく。それは片岡にも当てはまる。今日、彼女たちを讃美することほどたやすいことはない。同時にそれは虚しいことでもある。湯浅や片岡の格闘がわれわれに衝撃を与える理由は簡単だ。われわれが学問や人生の目的を見失っているからである。アイデンティティーとしての小さな自己を捨て去り、コミットメントとしての大きな自己を生きるという行為自体は、とりわけ賞讃されるべき美徳ではないし、まして他者から強いられるべきものではない。しかし、どこであろうと「最前線」で闘い続けるためには、そうした生き方が必要なことは明らかだ。
第二次世界大戦のさなか、世界各地の戦場で、国家から自己放棄を強いられた若者たちが、殺し合いを繰り広げていた。その時期に、湯浅も片岡も、自らの意志で自己を捨て去り、研究の最前線で闘っていた。「血みどろになっても正しさを守ろうという熱意」が彼女たちの原動力だった。
遠藤周作がリヨンから日帰りでパリの片岡をわざわざ訪れたのも、戦時中にフランスに留まった彼女の一徹な生き方に魅せられていたからかもしれない。留学から帰国後、「アフリカの體臭」(一九五四年)、「アデンまで」(一九五四年)、「白い人」(一九五四年)、『海と毒薬』(一九五八年)と、欧化主義者やナショナリストの神経を逆なでする問題作を次々に発表した遠藤の反骨を思うとき、そのような推測をせずにはいられない。祖国を棄てようとさえした片岡の生き方を知り、フランスで仏文学の学位を取ることが意味する真実を彼は知った。モーリアックに関する実証的研究で手堅く学位をとり、帰国して母校の教壇に立つことへの疑問が胸に兆したとしても不自然ではない。留学中に小説家として生きることを決断するに際して、片岡の存在は小さくはなかったのではなかろうか。
【註】
1 泉孝英『日本・欧州間、戦時下の旅――第二次世界大戦下、日本人往来の記録』淡交社、二〇〇五年、四六―四七頁。五二頁。なお、和田博文『海の上の世界地図――欧州航路紀行史』(岩波書店、二〇一六年)第六章〔42〕「ヨーロッパからの引揚げ、「大東亜戦争」による欧州航路の消 滅」は、この時期の状況を詳細に記している。
2 加藤美雄『わたしのフランス物語――第二次大戦中の留学生活』編集工房ノア、一九九二年、三〇頁。
3 同右、四一頁。
4 同右、五九頁。
5 同右、四六頁。
6 片岡美智『人間――この複雑なもの』文藝春秋新社、一九五五年、二九頁。
7 同右、八〇頁。
8「座談会片岡美智さん(京都外国語大学名誉教授)大崎正二さん(元大倉商事ロンドン・パリ支店長、翻訳家)に聞く――ドイツ占領下(一九四〇―一九四四)のフランス」『人文学報、フランス文学』一―五六、七頁。
9 片岡前掲書、一九五頁。
10 同右、一二七頁。前掲座談会七頁。
11 同右、一三一頁。
12 同右、一三五頁。
13 加藤前掲書、五九―六〇頁。
14『ヴァレリー集成Ⅲ〈詩学〉の探究』筑摩書房、二〇一一年、五一八―五一九頁。
15 加藤前掲書、七四頁。
16 ドニ・ベルトレ『ポール・ヴァレリー』松田浩則訳、法政大学出版局、二〇〇八年、六〇六頁。
17 加藤前掲書、八一頁。
18 山崎美和恵編『湯浅年子 パリに生きて』みすず書房、一九九五年、四頁。
19 湯浅年子『続パリ随想――る・れいよん・ゔぇーる』みすず書房、一九七七年、二〇六頁。
20 湯浅年子『パリ随想――ら・みぜーる・ど・りゅっくす』みすず書房、一九七三年、一九八頁。
21 湯浅年子『パリ随想3』みすず書房、一九八〇年、二四〇頁。
22『続パリ随想』二二〇頁。
23『パリ随想』3、二四一頁。
24 加藤前掲書、八三―八四頁。
25 山崎前掲書、三七頁。
26 ウージェニィ・コットン『キュリー家の人々』杉捷夫訳、岩波新書、一九六四年、一八四頁。
27 エレーヌ・ランジュヴァン=ジョリオ「思い出の湯浅年子先生」山崎美和恵編著『物理学者湯浅年子の肖像Jusqu’au bout最後まで徹底的に』梧桐書院、二〇〇九年、二九四―二九五頁。
28『パリ随想』六頁。
29 ドニ前掲書、五七五頁。
30 加藤前掲書、九六―九七頁。
31 ピエール・ビカール『F・ジョリオ=キュリー』湯浅年子訳、河出書房新社、一九七〇年、七七頁。
32 片岡前掲書、一三七頁。
33 同右、一五七―一五九頁。山崎『湯浅年子 パリに生きて』四二―四四頁。
34 加藤前掲書、一六〇頁。
35『湯浅年子 パリに生きて』四四頁。
36 加藤前掲書、一七〇頁。
37『パリ随想3』二四二―二四三頁。
38 加藤前掲書、一七九頁。
39 前掲座談会、一五頁。
40 加藤前掲書、二一六頁。
41 大崎正二『パリ戦時下の風景』西田書店、一九九三年、一二二―一二五頁。
42 加藤美雄『続わたしのフランス物語――第二次大戦中の留学生活』編集工房ノア、一九九四年、八頁。
43 同右、二四頁。
44 ピエール前掲書、八三頁。
45『続わたしのフランス物語』七四頁。
46 前田陽一『西洋に学んで』要書房、一九五三年、三〇―三一頁。
47『続わたしのフランス物語』一二八―一二九頁。
48 大崎前掲書、一五八頁。
49 村松剛『『評伝ポール・ヴァレリー』筑摩書房、一九六八年、四一八頁。
50 及川邦夫「解説」ポール・ヴァレリー『精神の危機他15篇』及川邦夫訳、岩波文庫、二〇一〇年、五〇七頁。
51『続わたしのフランス物語』一二六頁。
52 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、一九八九年、九九―一〇一頁。
53 片岡前掲書、一四一―一四二頁。
54 同右、一四三頁。
55『湯浅年子 パリに生きて』六八頁。
56 同右、七二頁。
57 同右、七三頁。
58 前掲座談会、二三頁。
59 片岡前掲書、一五一頁。
60 同右、一四四―一四五頁。
61 瀧澤敬一「プレサレールかアルバイトか」『第十フランス通信』岩波書店、一九五二年、一二九頁。
62 片岡前掲書、一六〇頁。
63 同右、一三四―一三五頁。
64『湯浅年子 パリに生きて』八七―八九頁。
65 片岡前掲書、一二五―一二七頁。
66『湯浅年子 パリに生きて』一〇二頁。
67『物理学者湯浅年子の肖像』九六頁。
68 ノエル・ロリオ『イレーヌ・ジョリオ=キュリー』伊藤力司訳、共同通信社、一九九四年、二三九頁。
69『湯浅年子 パリに生きて』一〇八頁。
70『パリ随想3』二二〇頁。
71 前田前掲書、一一〇―一一一頁。
72『続わたしのフランス物語』一七六頁。
73 片岡前掲書、一七六頁。
74 同右、一九五―一九六頁。
75 ドニ前掲書、六六四―六六五頁。
76『湯浅年子 パリに生きて』一三二頁。
77 同右、一三三―一三四頁。
78 石原あえか「大戦下ベルリンの湯浅年子」『パリティ』二〇〇八年八月号、六九頁。
79『湯浅年子 パリに生きて』一四〇―一四一頁。
80 大崎正二『遙かなる人間風景』弘隆社、二〇〇二年、七―九頁。
81『湯浅年子 パリに生きて』一四八―一四九頁。
82 片岡前掲書、五二頁。
83 同右、一八七―一九四頁。
84 山崎美和惠「湯浅先生と私」『物理学者湯浅年子の肖像』三八七―三八八頁。
85『物理学者湯浅年子の肖像』二六三―二六四頁から再引用。
86 エレーヌ・ランジュヴァン=ジョリオ「思い出の湯浅年子先生」『物理学者湯浅年子の肖像』二九六頁。
87 美帆シボ『核実験とフランス人』岩波ブックレット、一九九六年、三八―三九頁。
88 ピエール前掲書、一三二―一三三頁。
89 ノエル前掲書、二九九頁。
90 瀧澤敬一「鉄の扉の西東」『第八フランス通信』岩波書店、一九五〇年、一七五―一七七頁。
91 http://www.institutfrancais.jp/kansai/about/lhistorique/(二〇一六年一一月五日確認)。
92 ウージェニー前掲書、一八〇頁。
*初出:『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた、異文化理解と対決の諸相』関西学院大学出版会、2017年
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