須賀敦子のパリ:1950年代のフランス留学

 須賀敦子はパリ時代について多くを書き残していない。彼女が端正な文章で語り続けたのはミラノを舞台としたイタリア時代である。そのためか、パリ時代はほとんど素通りして論じられることがない。しかし、ほぼ同じ頃に渡仏した留学生たちの回想が存在する。これらを補助資料とすることで、須賀敦子のパリ時代を復元してみたい。

 東京銀座でも戦災孤児が見られ、日が暮れて星々が瞬き始めると渋谷の街角に娼婦が立ち並んだ一九四九年、一人の少女が横浜港からフランスに向かった。高野耀子である。東京音楽学校の生徒だった彼女は、パリ音楽院に入学するために私費で渡仏したのだ。「OCCUPIED JAPAN」と表紙に印刷された連合国総司令部発行の出国証明書には、係官のサインの下に吉田茂の署名があった。寄港地全ての滞在許可証も携えていた。戦後最初期のフランス留学生である。翌年以降の留学生を挙げてみよう。遠藤周作、森有正、田中希代子(五〇年)、加藤周一、黛敏郎、田淵安一(五一年)、三保元、白井浩司(五二年)、須賀敦子、なだいなだ、小川国夫(五三年)、高階秀爾、平川祐弘(五四年)、二宮フサ、芳賀徹(五五年)、加賀乙彦、辻邦生、辻佐保子(五七年)、阿部良雄(五八年)。数え上げればきりがない。とはいえ、「一大決心をして、いのちを投げ出すほどのつもりで」(なだいなだ)船に乗った彼らは、「一度行ったら、もう二度と行けないんじゃないか」(高階秀爾)、という思い詰めた気持ちで海を渡ったのである。

 すでに本国と極東植民地を結ぶイギリス国営海外航空がヨーロッパと日本を結んではいた。しかし、フランス国営航空が、パリからベイルート、カラチを経由して仏領インドシナのサイゴンまで行くヨーロッパ線を東京まで延長し、アジア極東路線として定期便を運行し始めるのは一九五二年一一月。サンフランシスコ講和条約発効の七ヶ月後のことである。銀色に輝くロッキード社コンステレーションが、東京‐パリ間を五〇時間で結んだ。しかし高額であり、留学生の利用が主流となるのは、第三次中東戦争の影響で六七年にスエズ運河が封鎖され、船便がアフリカ南端経由になって以後のことである。

 一九五〇年代、ほとんどの留学生は船を利用した。その際、フランス郵船が本国と植民地を結んだ極東航路便を利用する方法と、日本郵船の欧州航路便を利用する方法があった。旅客船か貨物船か、どの等級を選ぶかという問題もある。こうした違いに着目する研究者がいない。だが、当時の留学を考える際には大切である。どういう立場に置かれるか、あるいは一度置かれたかで見えてくる「現実」が違うからだ。なにしろ三五日間の船旅は、長期間にわたる身体的移動を伴う非日常的な変化と危機の「時」なのである。

 フランス政府給費留学生試験合格者、フランス政府私費留学生試験合格者、そして純然たる私費で行った者、これら三者の違いにも考慮が必要だ。東京大学仏文科講師だった中村真一郎は、父を早くに亡くし私費留学が困難だった。そのため、役職上要求される水準の研究遂行能力が維持できないと考え、助教授の発令直前に「多大の屈辱感とともに辞職した」(1)。だがそのための給費留学生制度である。往路の旅費さえ工面すれば、学費、生活費、帰国の旅費はフランス政府が支給してくれる。平川祐弘によれば、中村は受験したが不合格だったのだ(2)。高校進学率が五割、大学短大進学率が一割だった五〇年代半ば頃、留学自体が、国内大多数の選良から象徴的に聖別され身分的自信を深めることだったが、給費留学生への選抜は、叙任儀礼を経てフランス政府という最高権威から爵位を授けられることを意味していたのである。

 さて、フランス郵船極東航路の定期旅客船は、マルセイエーズ号という豪華客船だった。船体から煙突まで全て純白の「白亜の宮殿」を利用した留学生は多い。遠藤周作、森有正、田中希代子、黛敏郎、野見山暁治、小川国夫など、五〇年から五三年に留学した者は、皆この船を利用している。一等、二等、そして四等があった。給費留学生黛敏郎は一等船客だった。給費留学生だが森有正は二等船客だった。特別だったのは森ではなく黛である。非給費留学生遠藤周作は四等船客だった。四等船室とは船尾の上甲板と船艙の間に存在する空間だった。垂直の梯子を下りると黒人集団がいた。サイゴン裁判で釈放され日本送還になった日本人捕虜を護送してきた、マグレブ出身の植民地兵だった。フランス語もろくに話せず、文字の読み書きもできない彼らと、遠藤は同じ船室でサイゴンまで過ごさねばならなかった。フランス人給仕が「四等の奴は客じゃないぜ。船はお前たち黄色人や黒人を憐れんで乗せているんだ」と遠藤を面罵した。黛敏郎と同じ便、しかし一等ではなく二等船客として乗船していた上智大学派遣留学生田川茂は、四等船客の友人村山素夫を自分の客室に招き入れたところをフランス人パーサーに見咎められた。金モールの肩章を付けた彼は「バ・タン(シッ、シッ)」といいながら即座に村山を部屋から追い出し、その場にいた田川も部屋から追い出そうとした。田川が二等船客であることを証すると、その途端、パーサーは威儀を正し「ずいぶんと恐縮していました」(3)。パリ音楽院へ留学する田中希代子は二等船客だったが、一等船客用サロンにあるグランドピアノでの練習を許可され、毎朝五時から六時までの清掃時間に練習ができた(4)。業務用大型電気掃除機の騒音の中とはいえ、政府給費留学生という威光ゆえの特別待遇であろう。一等船客はこのサロンで楽隊の演奏による舞踏会を催したが、四等船客は、上級船客の料理の残余らしきものを、バケツから自らアルミ皿に盛り、鎖で繋がれた折畳式カンパスベッドに腰掛けて食べた。要するに、マルセイエーズ号は「小さなフランス」だった。そして四等船室はその「小さな植民地(第三世界)」だった(5)。したがって、若く誇り高い日本人が何等船客として三五日間を過ごしたかは、きわめて重要な事柄なのである。給費留学生でありながら四等船客として渡仏した珍しいケースが、なだいなだである。彼は「荷物なみにしか扱われ」ず「炎熱地獄の熱帯の海を、船底で頑張らねばならぬ」(6)苛酷な旅を文章で再現していない。

 五四年にマルセイエーズ号が引退し、高階秀爾はヴェトナム号、芳賀徹や阿部良雄はラオス号、加賀乙彦と辻邦生はカンボジア号に乗った。三隻は姉妹船で、五二年に建造され、定期客船として交互に横浜港にやってきた。「白亜の宮殿」が「フランスの貴婦人」になっても、船内の階層構造はさほど違わなかった。給費留学生加賀乙彦、平岡篤頼は、カンボジア号の二等船客として、保護留学生辻邦生は同じ便の四等船客として乗船した(給費留学生辻佐保子は同年航空機で渡仏)。一等は白人のフランス人や裕福な華僑で、二等以下の乗客とは服装からして違っていた。彼らは船上でクレー射撃をしていた(8)。ちなみに、一等は、さらにラックス(極上)からGクラスまで七つの等級区別があった。マルセイエーズ号と違って三等にも食堂があった。三等船室には作り付けの二段ベッドがあったが、四等はキャンパスベッドが柱に括り付けられているのだった。女性は入室不可。食事も「刑務所の食事のようなもの」。「それはもうほんとに並の神経の人には耐えられないような場所でした」。辻が四等船客になったのは「海洋の冒険ロマンを求めて」と言うことだが、実際は経済的な事情だったように思われる(7)。

 横浜港を出発すると、神戸、香港、シンガポール、マニラ、サイゴン、コロンボ、ジブチなどを経由してスエズ運河を上り、マルセイユに到着する。その間、留学生たちは巨大な絵巻物のように眼前に繰り広げられる光景――戦禍で焼け爛れた東南アジアの街を、日本の戦時輸送船の残骸が浮かぶ港湾を、あるいは植民地支配されたアラブの港を裸足で歩く現地人の姿を目に焼き付けることになる。受け止め方はさまざまだった。辻邦生はこれらの寄港地に興味を抱けず、現地人の港湾労働者を眺めながら「こういう色の黄か黒か褐色かにくらべると、僕がいかに白い人たちを理解しているかがわかる。彼らの人生観、宗教観、生活様式、歴史、文化、言語に、いかに僕らは通暁していることだろう」(9)と日記に書いた。そしてジブチから乗り込んだ「気味のわるい」黒人植民地兵について、フローベールを思わせる精密な描写を試みた。加賀乙彦はジブチの現地人の悲惨を目の当たりにして「ヨーロッパ人の優越感を肌で感じ」(10)た。「欧米に対するいわれのない劣等感」など「はじめから存在しない」世代といい、「自信をもって気軽にヨーロッパへ向か」ったという給費留学生阿部良雄は、寄港地で「うまい物を食べたり気楽な見物をしたりしながら一月の船旅を重ねた」(11)という。

 長い前置きはこのくらいにして、須賀敦子の旅を見てみよう。五三年七月、横浜港から、二百人のフルブライト留学生を乗せた氷川丸がシアトルに向けて出港した。汽笛が鳴り、船が動き出すと、デッキの留学生たちと岸壁を埋め尽くしていた見送り客たちを繋いでいた数百本の七色のテープが、徐々にちぎれ、風に吹かれ、海に落ちていった。同じ月に、横浜港から、黒い船体に細い白線が入った日本船が静かに港を出た。黒い煙突に白い帯、さらにそこには二本の赤線が入っていた。日本郵船の「二引旗章」である。船体に平安丸と書かれたこの船は、翌日神戸港に着いた。この船に、白いスーツを着た一人の若い女性が乗り込んだ。フランス政府保護留学生須賀敦子である。第二平安丸は、マルセイエーズ号のような「旅客船」ではなかった。須賀は自著で貨客船と記しているが、それは一代目のことで、二代目は「貨物船」である。三等級の船室を持ち、三〇〇人以上の乗客を乗せられる氷川丸が貨客船である。一代目平安丸には三三〇人の旅客設備があったが、二代目には僅か六名分の設備しかなかった。日本郵船は五二年にスエズ経由欧州航路を再開したが、平安丸は五一年に建造された日本郵船戦後建造外航第一船であった。同年に建造された貨物船二代目赤城丸は、五三年一月に遠藤周作がマルセイユから帰国の際に利用した船である(12)。十二名分の客室があった。乗り込んだ遠藤は、給仕が出す渋茶と漬け物に感動した。そこはすでに日本だった(13)。

 須賀のほかに三人の乗客がいた。二人は大学教授、あとの一人は洋画家だった。船長と五人の上級船員、そして五十人の船員たち。乗客は船長と食事をした。日の丸を掲げた平安丸の空間は「小さなフランス」ではなく、日本だった。基隆(台湾)、香港、シンガポール、ポート・スウェランハム(マレーシア)、ペナン、アデン、ポート・セッド、アレクサンドリアに寄港した。須賀はマルセイユまで行かず、ジェノヴァで下船した。父の知人の大学教授の出迎えを受け、パリへ列車で向かったのである。

 この船旅について、須賀は『ユルスナールの靴』のなかで次のように記している。

《一九五三年の七月一(ママ)日、颱風が去ったばかりの神戸港を出てジェノワに着くまでの四十日の船旅の日々を、海と空しかない索漠にかこまれて、到着の日を待つことだけに私は精力を使い果していた。航海を愉しむ余裕はなかった。〔……〕香港、基隆(台湾)、マニラ、シンガポール、さらにマレーシアのポート・スウェッテンハムと、つぎつぎにアジアの港をまわって荷を積み、荷を下ろす、それを待つあいだの時間をみはからって、四人の船客はあたふたと町の見物に出かけた。だが、買物をするための金などあるはずもなかったし、どの土地に行っても太平洋戦争を仕掛けた側としての気まずさばかりで、 見物もそこそこに船に戻ってくる。》

 アデンで須賀は初めて「居丈高な」イギリス人植民地行政官と対面した。現地のアラブ人男性の鋭い視線とも初めて遭遇した。「一分でも早くヨーロッパに着きたい、それだけを一方的に希いつづけていた私にとっては、じぶんをとりまいている異形の人びとも〔……〕ひたすらうっとうしいだけで、興味をそそるものではなかった」と須賀は記している。須賀の旅は、「海と空」ばかりであり、寄港地で現れる「異形の人々」すなわち「他者」とは出会い損ねるものであった。彼女は想像上のヨーロッパに眩惑されていたからである。

 留学前年、須賀は加藤周一『戦後のフランス――私の見たフランス』(未来社、一九五二年)を読んだ。クロード・モルガンの抵抗文学『人間のしるし』(岩波現代叢書、一九五二年)に感銘した須賀は、加藤の『抵抗の文学』(岩波新書、一九五一年)も読んだに違いない。モルガンについて、須賀は『遠い朝の本たち』のなかで次のように記している。フランスのレジスタンス運動に対する理想化が明らかに見て取れる。

《『人間のしるし』が、あの時代に私たちをとりこにした第一の理由は、それが抵抗運動について書かれたものであったからであるのは、まちがいない。わずか三、四年の違いで、戦争に行った人たちと大きく隔てられていた私たちの世代は、おとなに対してヒツジのように盲従し、メダカみたいに列をつくって、戦争に参加した。そのおなじ時代にヨーロッパでは、同年代の若者を含むあらゆる年齢層、社会階級にぞくする多くの市民が、まずなによりも、人間らしさを大切にするという理由のために、抵抗運動に参加したことを、私たちは戦争が済んでから知って、唯々諾々と戦争を受身で生きてしまった自分たちの精神のまずしさに慄然とした。》

 加藤周一は航空機で東京国際空港からバンコック、チューリッヒを経由してパリに飛んだ。飛行機には、クレー射撃に興じるフランス人も、半裸で横たわる黒人兵も存在しない。「はじめてパリの町をみたときに、私は大都会というものはどこでも大同小異であると思」ったと加藤はいう(14)。東京から座ったままパリに到着した人らしい感想である。彼は留学前に『抵抗の文学』を著した。この書物はドイツ占領下の抵抗運動を「国民的運動」であったとするレジスタンス神話を日本国内に広める役割を果たした。フランスに留学した加藤は『戦後のフランス』を著したが、そこで彼は「私が日本でフランスについて考えていたことは、まちがっていなかった」と記した。加藤が『抵抗の文学』の評価を改め、《「抵抗」の歴史的な事実から出発して、詩を評価したのではなく、詩の評価から出発して、「抵抗」の歴史を想像しようとした》書物であり、《「抵抗」の運動に触れた部分は、根拠に乏し》いと認めて活字にしたのは歿後の二〇〇九年である(15)。かつて《「抵抗」こそは、占領下のフランスの真に国民的な運動であったといえる。第一に、その目的が〔……〕本来国民的な関心に係るものであったし、第二に、その支持者が〔……〕フランス国民の全体にわたっていたからである》と書いた加藤は、五八年後に《すべてのフランス人が「抵抗」の英雄であったわけではない。――それはあたりまえの話である》と記した。もっともフランス側の政治的宣伝を見抜けずレジスタンス神話を拡散する文章を書いたのは彼だけではなかった。ただ、抵抗運動の裏面にいち早く気がついたのが、「パリ以外のフランスから日本をみることは、そもそも不可能である。フランスの地方と日本との間には何の関係もない」(15)とパリで書いた加藤ではなく、リヨンで学生生活を送った遠藤周作だったことは書き添えておきたい。

 そのようなわけで、留学前の須賀は、松本正夫や、何よりフランスから帰国したばかりの三雲夏生による「新しい神学」に関する新鮮な情報も得ていたものの、加藤の文章などを通した、輝かしいレジスタンスの国という歪んだフランス像ももっていたと考えられる。「新しい神学」は対独抵抗運動から生まれたものであったから、現実のフランスに接したとき、須賀は違和感に苦しめられることになるのである。

 パリ南部には、戦間期にできたパリ国際大学都市があり、各国の学寮群があった。国柄を表現した各国館はパリ万博会場のミニチュアのように見えなくもない。土地を政府が提供し、建物は各国が建てる。もっとも、フランス政府が自ら建てた館もあった。植民地館である。七階建で六〇室以上ある日本館は、ある富豪が私財を投じて二九年に建てたもので、帝冠様式に似た日本館には日本庭園もあり、鯉が泳ぐ池もあった。玄関奥とサロンのステージには、藤田嗣治の大作が掛かっていた。留学生の多くがここに入った。給費留学生阿部良雄は国立高等師範学校の寄宿舎に入ったが、須賀に少し遅れて到着したなだいなだ、小川国夫もここに入った。二人の部屋は隣り同士だった(17)。館長はフランス人で、交換制度により三割が外国人だったが、ここはフランスにある「小さな日本」だった。

 須賀がここに入らず、カトリック修道会が経営する女子学生寮に入ったのは、当時の日本館が男子学生用だったからだと思われる。女子寮には五〇人ほどの学生がいた。二人部屋で、ルームメイトは次々に変わった。「ベッドとベッドのあいだが一メートルそこそこ、衝立でかこった洗面台とタオル掛け、窓ぎわに向いあっておかれた、幅が五〇センチあるかないかの勉強机ふたつという、せせこましく混み合った部屋」だった。この寮には、中国人、ヴェトナム人、マルチニック島出身の黒人などがおり、「かたまって行動することが多かった」。他の学生寮に入れてもらえなかった植民地出身の学生が多かったため、植民地出身のフランス人学生が驚き、「わたしが現地人なんかといっしょに住んでいるって知ったら、両親が気絶しちゃうわよ」といってすぐに出て行くこともあった(18)。つまりここはフランスのなかの「小さな第三世界」だったのである。

 朝鮮半島出身のある学生は、須賀が眼鏡をかけると、日本の兵隊を思い出すから掛けてくれるなといった。戦争中にハノイに逃れ、そこからパリに来た中国人姉妹もいた。第一次インドシナ戦争の最中だったので、民族衣装アオザイを着て市内を歩くヴェトナム人女子学生への市民の視線は険しかった。故郷と音信不通になり送金が途絶えた学生もいた。

 加藤周一は「パリでは私はインドシナ人であった」と記している。フランス人にとって、アジア人といえば、中国人か、植民地のインドシナ人だったのだ。フランス人の日本人、ヴェトナム人に対する見方には単純ではないところがあり、五五年にパリ大学研究員として渡仏し、翌年に同大非常勤講師となった今道友信は、アパートを借りようとしたが、貸し主の女性から、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。その気持ちを理解してください」と断られたことを「暖かいスープ」というエッセイで記している。

 須賀は学生時代、サイゴンで生まれ育ったフランス人教師からフランス語を教わった。「目立ってよくできて、トップクラスだった」(19)が、パリではそうはいかなかった。《こちらがおずおずと発音に気をつかって口にするセンテンスは、大学でも、語学学校でも、買物の店先でも、ほとんど例外なく、聞きちがえられたり、なおされたり、もっとはっきり言いなさいよ、とどなられたりした》(「ほめる」)。遠藤周作も、初めて訪れたパリで、「r」音がうまく発音できず、首をかしげられたり、クスクス笑われたり、「憐憫とも軽蔑ともつかぬ眼で」眺められた(20)。これは日本人だけの問題ではない。マルチニック島出身者は、「r」音が脱落しがちなので、間違えるまいと自意識過剰になる。須賀が来る前年にパリにいた遠藤は、郵便局でフランス語の上手でない日本人教授が窓口の女から「黄色人のくせに」と大声で怒鳴られるのを目撃して抗議している。周囲の客はニヤニヤと笑っていた(21)。

 遠藤は、インドシナで日本兵に拷問された身内を持つフランス人青年から、日本人の残虐さについて静かな抗議を受けているが、フランスの徹底的な暴力によって独立を阻まれているヴェトナム出身の学生を多く周囲に持った須賀には、そのような体験はなかったようだ。フランスは第二次世界大戦後も植民地維持に執着し続けた。ド・ゴール率いる「自由フランス」の「国土」は、海外の植民地だった。連合国によって解放され、威信を落としたフランスの帝国意識が高まったのは、むしろ大戦後のことであったといわれている。五三年一一月、ディエンビエンフーをフランス軍が占領すると、ベトミン軍が武器食料を集結してこれに備えた。翌年三月に戦闘が始まると、ベトミン軍の攻撃により、五月にフランス軍は大敗を喫して威信をさらに落とす。須賀がシャルトル巡礼に参加したのはその翌月のことである。二日間かけてパリから三万人の学生がシャルトルまで歩く。準備から巡礼まで須賀の世話をしてくれたのは、学生寮で一緒だった学生だった。彼女は父親がフランス人、母親は中国人、仏領インドシナ出身だった。彼女はどのような思いでこの巡礼に参加していたのだろうか。須賀の文章からは、明敏な女子学生の姿が浮かび上がってくるが、そのあたりの消息については書き記されていない(『ヴェネツィアの宿』)。

 この年一一月には、アルジェリア戦争が始まる。アルジェリア民族解放戦線は、ディエンビエンフーでのヴェトミンの勝利に力づけられていたのである。加賀乙彦は、サイゴンで、アルジェリア戦争に投入されるフランス旧植民地兵がカンボジア号に多数乗り込むようすを目撃している。インドシナ戦争時には、フランス政府は北アフリカから植民地兵を大量にインドシナに投入していた。いずれも本国兵の損害を少なくするためである。しかし本国兵士によるアルジェリア人に対する拷問、殺戮、「簡易処刑」が明らかになるのは後年のことだ。指揮官ジャック・マシュ将軍は、対独抵抗運動の闘士であり、兵士たちにもレジスタンス経験者がいた。レジスタンスの英雄であり植民地主義者であるという二重性。人権の祖国が植民地帝国であるという矛盾。それは長い間、隠され、意図的に「忘却」されてきた。ヴィシー時代に内務官僚としてユダヤ人迫害に荷担し、アルジェリア戦争時にはアラブ人迫害の責任ある立場だったモーリス・パポンの裁判で、フランス人が過去の記憶にようやく向き合ったのは、八〇年代以後のことである。

 日本、中国、ヴェトナムの区別がない「普通の人」はいただろうが、自分の周囲では「日本の差別っていうことはまったく無」かったと高階秀爾は回想している(22)。芳賀徹は、「フランス人は、全く対等に我々に接してくれた。〔……〕あれがフランス留学の、最大のメリットでした」と語っている(23)。パリのアカデミーでは差別がなかったことがわかる。しかしそれは人種差別がフランス社会に存在しなかったこととは同じではない。同じ頃にパリにいた須賀は、「東洋人」として「街で不当な扱いを受けるたびに不満をもらし」ていたし、学生寮の二人部屋でレユニオン出身の黒人学生と同室だった平川祐弘は、植民地出身の黒人学生の多くが自分の出身地について多くを語らないことに無関心だったが、フランス語を自分より遙かに自在に操る彼らが「黒い肌ゆえに自分の他者性を思い知らされて」いることを見逃さなかった(24)。「北アフリカ人」というときの「パリ人の軽蔑した目つきや声」に須賀は気がついていた。北アフリカ人とは、アルジェリア、モロッコ、チュニジアといったいわゆるマグレブのことである。だから須賀は、アルジェリア戦争がすでに始まっていた冬に寮友のベルギー人から「あなたって、根本的にノマッド(遊牧民、引用者註)かもしれない」といわれたとき、「(ノマッドとは)サハラ砂漠なんかの、隊商とかラクダとか天幕とか、目つきの鋭い男たちや黒布で顔を被った女、そういった風景につながることばじゃないの?」と返した。「そういった風景」とは、アルジェリアの風景にほかならない。「どうして、私が北アフリカ人なのよ」と須賀は抗議した。フランス人のアルジェリア人に対する侮蔑意識に、須賀自身の言葉を使うと「感染」していたのである(25)。

 須賀は、パリにきて一年近く経ったころ、つまりアルジェリアで抵抗運動が盛んになっていたころ、対独抵抗運動から生まれた「労働司祭」が、金曜夜にミサを行っていることを知った。シモーヌ・ヴェイユに惹かれていたこともあったのだろう、須賀は出かけた。教会は禁止していたため、彼女は「非合法な政治集会に参加するのにも似た、ある精神の昂揚を感じて緊張した」。しかし、ミサにあずかり、講義を聴き、薄暗い会場を出て帰路についた彼女は「ミサのあった場所が、十三世紀の天才的神学者アクイナスのトマが、ナポリからパリに来てソルボンヌで教えていたときに泊まっていた修道院に違いない」ことに気づき、トマらが「今夜会った労働司祭たちとはちがって、おそらく生気に溢れていたのだ」と想像した。そして「その後、二、三度、通っただけでやめてしまった」(26)。想像したパリに日本で憧れた須賀は、現実のパリに来ると、今度は過去のパリを想像して憧れている。「もっと新しい風潮にじかに触れられるかと期待していたのに、せいぜいがサン・ジャック街のミサぐらいだった」とも彼女は記す。労働司祭という言葉に惹かれた須賀は、その現実の姿に落胆している。つまり、胸に抱いてきた理想のフランス像が、現実のフランス社会の前で、もはや維持しきれなくなっているのである。

 パリ大学の堅実な実証主義が、彼女には「硬直した」もの、血の通わぬ「化石のような」ものとして急速に色褪せて見えてきた。「一分でも早くヨーロッパに着きたい、それだけを一方的に希いつづけていた」須賀は、パリに幻滅したのである。「貧しいけれども勉強する。で、勉強するに十分値するパリでした」と芳賀徹は回想している。この評価の違いは何だろう。留学の動機がそもそも違った。大学院で専攻した社会学におそらく幻滅した須賀にとって、「神を信じるものも、信じないものも、みないっしょに戦った」レジスタンス運動から生まれた「新しい神学」の実態を自らの目と耳で確かめること――これが留学の最大の目的だった。「新しい神学」は、当時の須賀の目には、キリスト教による社会変革の希望の光として映った。そしてそれを生み出したのは「教会の長女」フランスだった。彼女が抱いた期待が現実とずれていたとしても、それを非難することはできない。当時フランスは日本国内の言論界で神々しく輝いていたからである。自由と人権の祖国、理性と文明の国、偉大なるフランス。世界の光源パリが放つ、まばゆいばかりの栄光と威信……。それはしかし、権威者たちの手によって豪華に飾り立てられた壮麗な言語的虚構であり、無数の歪みを持つ、理想化されたフランス像であった。

 共和国フランスはナチス・ドイツに正式に協力した国であり、ユダヤ人迫害に組織的に関与していた。強制移送はフランス官憲の手により、市民の目の前で行われた(27)。また須賀の留学中に始まるアルジェリア戦争では、かつての対独レジスタンスの闘士たちが、アルジェリアの独立を阻止しようと、対仏レジスタンスを凄まじい暴力で弾圧することになる。国民の多くも、植民地の独立を阻止する政府方針を支持していた。社会変革の希望に満ちた「新しい神学」を見出すために共和国フランスに渡った須賀が全身で感じ取ったものは、予想だにしない、植民地大国フランスの血みどろの足掻きだったのである(28)。植民地での暴力の実態はフランス国民には隠されていた。けれども、日々の暮らしのなかで、自らと周囲に突き刺さるようなフランス社会からの風圧を、須賀が感じ取らずにいたはずがない。なぜなら、彼女の生活の本拠地は「小さな日本」ではなく「小さな第三世界」だったからである。

 これが須賀敦子のパリだった。彼女が出会ったフランスだった。しかし、同時にそれは、ヨーロッパの現実世界への、彼女に開かれた、ただひとつの入口だったのである。


【註】

1 中村真一郎『愛と美と文学――わが回想』岩波書店、一九八九年、一五三―一五四頁。

2 平川祐弘「幻想振りまいた仏文の知的群像」(『公益財団法人国家基本問題研究所』二〇一一年一一月二五日役員論文)〈http://jinf.jp/articles/archives/6592〉二〇一三年八月十三日確認

3 酒井新二編『燃えて生きる――田川茂神父の40余年にわたる教育実践』誠文堂新光社、一九九七年、四一頁、五八頁。

4 萩谷由喜子『田中希代子――夜明けのピアニスト』ショパン、二〇〇五年、八九―九一頁。なお、同書一九頁にはマルセイエーズ号の写真が掲載されている。

5 遠藤周作「有色人種と白色人種」『遠藤周作文学全集』第十二巻、新潮社、二〇〇〇年。遠藤自身の旅のようすについては『ぼくたちの洋行』講談社、一九七五年等を参照。

6 なだいなだ『ぼくだけのパリ』平凡社、一九七六年、一六頁。

7 辻邦生『言葉が輝くとき』文藝春秋、一九九四年、三二〇頁。

8 加賀乙彦『加賀乙彦自伝』集英社、二〇一三年、一三二頁。

9 辻邦生『パリの手記Ⅰ――海そして変容』河出書房新社、一九七四年、八五―八六頁。

10 加賀乙彦『加賀乙彦自伝』集英社、二〇一三年、一三二頁。

11 阿部良雄『若いヨーロッパ――パリ留学記』中央公論社、一九七九年、一〇―一一頁。

12『日本郵船歴史博物館 常設展示解説書』日本郵船株式会社、二〇〇五年.、『七つの海で一世紀 ――日本郵船創業100周年記念 船舶写真集』日本郵船株式会社、一九八五年参照。

13 遠藤周作『忘れ難い場所がある』光文社、二〇〇六年、一〇一―一〇二頁。

14 加藤周一『続羊の歌――わが回想』岩波書店、一九六八年、一五七頁。

15 加藤周一「「途絶えざる歌」追記」『加藤周一自選集1』岩波書店、二〇〇九年、三九二頁。

16 加藤周一「日本からみたフランスとフランスから見た日本」臼井吉見編『現代教養全集』2、 筑摩書房、一九五八年、三七頁。

17 なだいなだ『ぼくだけのパリ』一二六―一二七頁。小川自身の日本館時代の回想としては、小 川国夫「灰色の群れ」『ユリイカ』二〇一二年八月臨時増刊号「野見山暁治 絵とことば」所収がある。また、パリ日本館については、林善彦『パリ日本館だより――フランス人とつきあう法』中央公論社、一九七九年、小林茂『薩摩治郎八――パリ日本館こそわがいのち』ミネルヴァ書房、二〇一〇年、パリ国際大学都市日本館ホームページ http://maisondujapon.org/ を参照。

18『須賀敦子全集』文庫版第一巻、河出書房新社、二〇〇六年、三八八頁。同第二巻、一八六頁。 同第三巻、三四頁。なお、須賀の下宿時代については、三保元「パリ留学時代のガス」『須賀子全集』第七巻月報、河出書房新社、二〇〇〇年も参照。

19 三雲苑子「夢を引き寄せたひと」『須賀敦子全集』第三巻月報、河出書房新社、二〇〇〇年。

20 遠藤周作「哀れな留学生」『ぼくたちの洋行』講談社、一九七五年、四八頁。

21 遠藤周作「黄色い人の哀愁」『異邦人の立場から』日本書籍、一九七九年、一〇四―一〇六頁。

22 高階秀爾「オーラル・ヒストリー二〇一〇年六月四日」『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ』〈http://www.oralarthistory.org/archives/takashina_shuji/interview_01.php〉二〇一三年八月十八日確認。

23 高階秀爾・芳賀徹「一九五〇年代パリ 君と僕の青春」『大原美術館紀要』2、大原美術館、二〇〇五年、参照。

24 平川祐弘『日本語は生きのびるか――米中日の文化史的三角関係』河出書房新社、二〇一〇年、頁。

25『須賀敦子全集』文庫版第四巻、河出書房新社、二〇〇七年、八一―八三頁。

26『須賀敦子全集』文庫版第二巻、一九四―一九八頁。

27 以下を参照。渡辺和行『ナチ占領下のフランス』講談社、一九九四年。『ホロコーストのフランス』人文書院、一九九八年。

28 フランスの植民地主義については以下を参照。平野千果子『フランス植民地主義の歴史――奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』人文書院、二〇〇二年。バンセル/ブランシャール/ヴェルジェス『植民地共和国フランス』平野千果子他訳、岩波書店、二〇一一年。なお、本稿執筆時には未刊だった平野千果子『フランス植民地主義と歴史認識』岩波書店、二〇一四年も必読の文献である。 


*初出:『三田文學』2014年1月 なお、編集部の意向で全て割愛した註を復元した。   

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