高橋睦郎(2)海辺の修道士
イコン制作を本格的に勉強するためにロシア留学を計画していた知人から、ロシア教会側の書類の不備で計画が延期になったという知らせが来た。ロシア正教徒の彼女は、慶應義塾大学で美術史を学んだ人だが、画家として、宗教的な作品を制作している。父上は、札幌ハリストス正教会で、鷲巣繁男とも接触のあった方だ。残念でならない。しかし、いつか必ず彼女はロシアに行くだろう。彼女は導かれているのだから。
その知らせが来たころ、ギリシア正教の聖地アトス山が、NHKの特別番組で紹介された。取材のカメラが入るのは初めてということで、めったに見ないテレビの画面に食い入るように見入った。蝋燭とイコン。立ちこめる乳香。わたしはニコライ堂で体験した聖体礼儀の光景を想い出していた。黒衣に髭を生やした修道士たちがたくさん出てきた。彼らは、かつては会社員であり、運転手であり、法律を学ぶ学生であった。この世の生活を捨て去り、祈りの生活をしているのだ。中でも、集団を離れ、十数年ひとりで海辺に暮らしているひとりの修道士の姿が印象深かった。青い海を臨む断崖の小屋。海から吹き上げる風が、オリーブの樹の枝を揺らしていた。そこで修道士は、庭にある井戸を覗き込み、闇に向って祈りの聖句を唱えていた。その姿は、孤高であるが、決然として、そして、傲慢なところは微塵もなかった。……
番組を見ながら、アトス山を訪れたことのあるひとりの老詩人を思い浮かべていた。ああ、何ということだろう、高橋睦郎も古希を迎えたのだ。歳月は光のように過ぎさる。わたしがこの詩人の存在を知ったとき、彼は三〇代で、精悍な面構えをしていた。たまに新聞や雑誌で写真を見るが、髪も髭もすっかり白くなり、静かな、落ちついた顔つきをしている。彼は鷲巣繁男が永眠した年齢を超えたのだ。さまざまなこの世の栄誉に包まれ、絢爛華麗な交遊関係も知られているが、にもかかわらず、この人には、井戸を覗いて詩句を唱える修道士のように孤独な印象があるのは何故だろう。在俗の修道僧、というよりも、信徒神学における信徒使徒職としての詩人、として理解したらどうか。画家でもあったカトリック修道僧の師のように。
高橋睦郎がドローイングを始めたのはそう昔のことではないという。二〇〇一年、銀座の東京画廊で初めて個展をしている。このときは、うかつにも「現代詩手帖」で城戸朱理氏が一頁の文章を書いているのを読んで初めてそれを知り、会期が終了していることに落胆したのだが、幸い今回(「高橋睦郎個展 植物の慰め」二〇〇四年一二月六日―二五日、於東京画廊)は足を運ぶことができた。会場には、クレヨンで淡彩がほどこされた五〇点ほどのデッサンが展示されていた。たまたま会場から出ていく来観者たちとすれ違いに入場したので、しばらくの間、一人でじっくりと展示を見ることができた。
会場の中央に、古びた鉄製の白いテーブルと椅子があり、テーブルの上には鳥かご、そしてその中には四羽の小鳥のオブジェがあった。真珠色の体で、尾羽だけが本物の羽毛であった。逗子の詩人の明るく光の射し込む広間の窓際には、鳥籠がいくつかあって、小鳥たちがいる。本当は、詩人はオブジェの小鳥ではなく、本物の小鳥たちを連れてきたかったのではないだろうか。テーブルと椅子、それに、会場入口のすぐ右横にあった白い棚も、湘南から運んできたものに違いない。デッサンに描かれているものが、庭に咲く向日葵であり、食卓の花束であるように、この会場は、展覧会というものが醸し出す非日常的空間の対極にある、日常空間の延長として作られているように感じられた。詩人の家では、庭にも室内にも花々があふれている。会場に低く流れているコンパクト・ディスクの歌曲も、思えば、以前高橋邸を訪問したときに流れていたものと同じものと思われる。
それぞれのデッサンの下には、標題が小さく書かれた紙が貼ってあるが、普通ならばワード・プロセッサで記される標題が、全て手書きであった。「こんな小さなひまわり」「もっと小さなひまわり」といった標題が、独特の詩人の字で記されているのである。
手書きへのこだわり、手づくりへのこだわりといったものを、近年の高橋睦郎には感じる。
詩集『起きあがる人』(二〇〇四年)を手にしてまず驚くのは、函の周囲に、よく見ると微妙に不揃いの半円形のエンボス加工が施されていることだ。詩集を函から取り出してみると、やはり半円形の囲みと鏤められた星印がエンボス加工をされた表紙に書かれた「起きあがる人 高橋睦郎 書肆山田」という文字は、詩人の手書き文字なのである。
背表紙も同じ。表紙をめくると、中の扉もそうである。本文にいたって、ようやく活版印刷となるのである。できることならば、すべて手書きの詩集にしたかったのではあるまいか。これは、取り次ぎを通して書店に並ぶ商品としての詩集という体裁を装った、手作りの品に感じられる。
ここでふと思い出すのは、詩人の館では、合成樹脂の成型品といった大量生産品が断固として拒否されていることである。そこには詩集からうかがわれるものと同じ精神――騒々しい時流に流されることを拒否する精神が、感じとれるのである。
ぼくの手が描くもの
6Bを持つぼくの右手が
ただいま描くことのできるのは
せいぜい 食卓の上の今朝の朝食
馴染みの皿の焼きたてのスコーンや
罅の走ったカップの湯気の立つ中国茶
まだ 窓の外 吹きつける風の中の
荒れ狂う木木を 描けない
手につづくぼくの隠れた心が
あらしに泣き叫ぶ木木の心に
木木を苛みつづけるあらしの心に
ならなければならない
それ以前に 鉛筆を持つ手が
木木になり あらしの全体に
ならなければならないのだ
これが、あのナルシシスムとエロティシズムに彩られた絢爛豪華な作品を書いた高橋睦郎の詩であろうか。もう一篇、「詩人にⅡ」を引こう。
賞めるなら ヒバリだけでなく
ムカデのことも 賞めよ
ヒバリの光の声が美しいなら
ムカデの無数の足も美しいはず
形容詞を脱がせて 名詞を裸に
名詞の裸すら暴いて 血と骨に
血と骨を取り去ったがらんどうに
歌うとは 無惨と向きあうこと
これは、あからさまなまでに、過去の己の否定である。「詩人にⅠ」では「詩人の仕事は讃めること/と あなたは確信を持って言うが/讃辞の霞で真実を見えなくすること/が 詩人の仕事ではあるまい」と記す。「あなた」と二人称になっているが、「詩人の仕事は讃めること」と「確信を持って言」っていたのが高橋睦郎その人にほかならぬことは周知の事実だからだ。
詩人も、ここにきて、抱えていた多くのものを潔く捨て去ったように思われる。現在の歩みは、実に軽やかに見える。
『小枝を持って』(二〇〇二年)『恢復期』(二〇〇一年)『柵のむこう』(二〇〇〇年)と近業をさかのぼっていくと、『日本二十六聖人殉教者への連祷』(一九九九年)に行き着く。『姉の島』(一九九五年)までの仕事は、長い持続と、その集成という趣きがあるが、近年の詩集には、わたしは初期中期からの詩集の持続は認めることができず、むしろ新しい世界への跳躍と自由な飛翔という印象が強い。その転換となったのは、『日本二十六聖人殉教者への連祷』のように思われる。この詩集は詩人たちの間でほとんど話題にならなかったと聞くが、わたしは何人かの知人から熱烈な讃辞を聞いた。内容と、エクテニア(連祷)という形式との渾然たる合一は、ややもすると修辞過多内容空疎に陥りがちな現代詩において、稀なことと思われるが、そのような分析以前に、一読、胸を打たれる作品なのである。長崎の知人から、詩人自らがこの詩集を長崎で朗読したときのようすを聞いたが、その光景を想像するだけでわたしは心が震えるのを覚える。おそらくこの詩集が感動的なのは、詩人の、歴史に対する、いわば形而上的参与があるからだろう。
高橋睦郎は若き日にカテキズムを学んだ人だが、洗礼を受けたキリスト者ではない。「逃げ出した」と詩人は語ったことがあるが、この言葉が持つ意味は決して単純なものではない。洗礼を受けなかったことによって、トマスという霊名は確かに「幻の洗礼名」となったわけだが、とはいえ、カトリシズムを一切無視してこの詩人を語ることもまた誤りなのである。
さきほどわたしは、彼の詩集が手作りの品めいた感触を持つと述べたが、さらにいえば、そこに収められた詩もまた、美に自己完結した「作品」たることをやめ、さながら日常世界における「書簡」のような、否、書簡の定型からすら自由な「私信」のような手触りを持ちはじめており、そのことの意味をわたしは考えずにいられないのである。その姿勢は、大衆に向けたプロパガンダの対極にある表現活動であろう。突飛な連想かもしれないが、書簡といえば、パウロを例に引くまでもなく、宗教の世界においては、それが持つ意味はきわめて重かった。書簡だけが、真実を伝える唯一の手段であった時代もあるのだ。そのような連想からふたたび文学の世界に戻るとき、高橋睦郎という詩人が、現在の時代に、このような形で詩を書くことで、何か大切なものを断固として護ろうとしているようにも思えてくるのだ。
*初出:『羚』15号 2005年3月
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