宇佐見英治:「同時代」の精神

     Ⅰ

 兵庫県立神戸高等学校は、神戸市灘区の海を見下ろす高台にある。老朽化から取り壊しが検討されているこのクリーム色の重厚な近代洋風校舎は、一九三八年に建てられたものだ。鉄筋コンクリート造三階建。地階及び、ロンドン塔と呼ばれた塔屋がある。モダーンゴチック様式のこの校舎は英国パブリックスクールに範をとったというが、驚くのは銃眼が具えられていることだ。中世南ヨーロッパの城塞のイメージがあると、近年の調査では報告されているとのことである。  

 正月を家人の実家がある神戸で過ごした。神戸高校は近在なので、散歩ついでに訪れてみたのである。神戸高校は兵庫県随一の名門と謳われる。京都大学に学んだ岳父の母校でもあるが、わたしの関心は、詩人でフランス文学者の宇佐見英治もまたこの学校の出身であるということだ。無論、旧制第一神戸中学校時代のことである。  

 一九一八年に大阪で生まれた宇佐見は、一九三〇年にこの学校に入学し、一九三五年に卒業している。三六回生である。当時校舎は中央区にあったから、冒頭で紹介した校舎で学んだわけではない。宇佐見は大阪から汽車に乗って毎日この学校に通学した。四二九人受験して二五九人が合格したが、宇佐見は首席で合格したというから秀才である。卒業時には一九六名に減っていた。六〇名以上が学業半ばで脱落したのである。当時神戸一中は硬教育で知られており、上級学校への進学率が全国でも指折りであった反面、落第者、退学者も多かったのである。宇佐見は第一高等学校へ進学したが、宇佐見が進学する二年前には、一高、三高に三八名進学し、全国一の合格者数を誇ったという。  

 以上は神戸市中央図書館で閲覧した『神戸高校百年史』に拠るが、年表を見ながら今更のように思ったのは、一九二五年以後、学校教練が正課となり、宇佐見が中学校に通っていたころにはすでにミニタリズムの足音が学舎にこだましていたという事実である。  

 第一高等学校に進学した宇佐見は、生涯の師と仰ぐ片山敏彦と出会う。当時敏彦は第一高等学校の講師であった。一九三八年、宇佐見の卒業の年に敏彦は教授となっている。昭和一〇年代の第一高等学校にもミニタリズムの足音は響いており、それに耐えかねた片山敏彦は一九四五年四月には第一高等学校を退職し、中央気象台付属気象官養成所の嘱託となるのである。   

 宇佐見は東京帝国大学倫理学科に進学し、吉満義彦の教えを受けるが、一九四一年、太平洋戦争勃発の年末に繰り上げ卒業し、一九四二年二月に野戦銃砲兵第四連隊に入隊している。加藤周一、中村真一郎、そして今道友信氏といった第一高等学校時代の片山敏彦の教え子たちのなかで宇佐見が異彩を放っている理由は、宇佐見だけが現実の戦場を体験しているということだ。そして、これは決定的なことである。神秘精神が最も苛酷な現実を潜り抜けたときに、どのような人格が形成されるかということを、われわれは宇佐見英治という一詩人に見出すことができる。  

 宇佐見は七〇代の終わりに、『戦中歌集 海に叫ばむ』(砂子屋書房、一九九六年)、『明るさの神秘』(みすず書房、一九九七年)、『死人の書』(東京創元社、一九九八年)を上梓している。これらの著書には、それまでわれわれが知ることのなかった戦中、戦後すぐの宇佐見の詩文が収録されているとともに、詳細な年譜や回想が附されている。宇佐見に親しい人たちのなかにも、これらの著書によって、初めて宇佐見の精神の軌跡の全貌に接したものがいるようである。わたしはこのたび改めてこれらの著書を再読し、人生の最終的統合という大きな仕事に宇佐見が取り組んでいると思った。宇佐見は、「暗い過失の青春」である短歌群や「書いたという記憶が全くない」小説などを単行本化したり、詳細な年譜を自ら作成することによって、自らの人生を再吟味しつつ統合しようとしている。それは社会的な自己正当化のために無理矢理辻褄を合わせようとしているのではなかろう。そうではなくて、宇宙のなかのある人間として、生の全体性を最終的に形成しようとする、内面からの促しによる「人生の仕事」である。  

 たといどのような華々しい文学的履歴を社会的に重ねたとしても、最終的に自分で自分の生涯を全肯定することができなければ、深い次元での充足した満足を得ることはできまい。戦時中の出来事に傷つき、戦後にゲーテやリルケの研究業績を重ねつつ、荒廃した生活に溺れていった大山定一などは、晩年に至るまで自らの蹉跌を統合することが困難だったのだろう。  

 二〇〇二年九月一四日、宇佐見英治は永眠した。八四歳だった。愛染院で執り行われた告別式には、わたしも列席したが、その数年前、渋沢孝輔の葬儀の折に、長谷川郁夫氏に車椅子を押される姿を見たのが、身近で彼を見る最初で最後に機会になってしまった。  

 自分の父が同世代であること、また冒頭で記したように、岳父が神戸第一中学校(現神戸県立神戸高等学校)で彼の後輩に当たることなどもあって個人的な親しみを感じていたが、何よりも、商業ジャーナリズムの俗塵になじまぬ彼の純粋な詩心に尊敬の念を抱いていた。同人誌「同時代」(第二次)は法政大学出版局から発売されていたので、高校時代から書店で手にすることがあったが、この同人誌に持続する、芸術的であるとともに倫理的な精神は、宇佐見の戦後の決意がなみなみならぬものであったことを想像させた。  

 個人的な話になるが、二〇〇一年秋にいただいた最後のお手紙は、万年筆ではなく墨痕鮮やかな毛筆であった。このお手紙は、長い時間をかけて墨を擦り、未見の後進に宛てて筆をとる宇佐見の姿をありありと現前させ、現在でも、わたしの襟を正させてやまない。


     Ⅱ

   

  世界各地で頻発するテロ事件報道の映像をテレヴィジョンで眺めながら、第三次「同時代」の既刊一六冊をゆっくりと読み返しつつ、宇佐見英治についていろいろと考える数日間を持った。  

宇佐見英治が深く関わった第二次「同時代」は、一九五五年から一九九三年にかけて発行されたから、ファシズムの時代を潜り抜けた人々によって米ソ冷戦体制時代に発行されたものといってよい。一九九六年に創刊され、今年(二〇一一年)一五年目を迎えようとする第三次「同時代」は、冷戦終結後の世界、民族紛争とテロリズムの時代に発行されているである。  

 続発するテロ事件を巡って、連日マスコミでは声高な争論が行われている。二〇〇一年に起きた九・一一同時多発テロ事件以降、アメリカ合衆国のイラク侵攻、復興支援という名目での自衛隊のイラク派兵、憲法改正論議、「テロとの戦い」といったスローガンの喧伝など、日本の情況は、かつて戦争に突き進んでいった時代のそれと酷似してきたと指摘する人もいる。片山敏彦の教え子でもあった今道友信氏と、月間詩誌「詩と思想」の座談会でご一緒したが、実際にその時代を生きた経験を持つ氏も、同じような危機感を感じておられるようであった。  

「同時代」という誌名からは、歴史的現実に目を背けることなく、正面から対峙しようとする鋼鉄の意志がうかがわれる。ところが「同時代」には、およそジャーナリズムを賑わわせる争論のような、政治的情況への直接的関与を示す文章を見出すことができない。これは、詩人と名乗りながら一冊の詩集も持たなかった宇佐見英治のパラドクシカルな在り方と照応しているように思える。  

 詩人というとき、宇佐見英治は、感覚的現実世界での具体的行為ではなく形而上的本質の観点で見ていたのであろう。彼は地上の現象界の背後にもう一つのレアリテを感知していたようだ。彼は歴史的現実と形而上的現実とを文学的想像力で織り合わせるところに真実を見出そうとしたように思える。それによって悲惨な現実世界を美しく変容させ救済しようとしたのだといっては言い過ぎであろう。しかし少なくとも、一見、ハイブラウで超俗的印象を与える「同時代」が、その外観とは裏腹に、おぞましい現実から目を背けて芸術の世界に閉じこもる逃避的精神とは無縁の理念を持って出発したとは言ってよいはずだ。  

 宇佐見英治はジャーナリズムでも仕事をしたが、軸足は「同時代」に置いていた。宇佐見英治の師である片山敏彦は、若い頃の二、三の同人誌を除けば、「同時代」のような場所を持たなかったので、こと詩作については、詩壇と離れたところで、自分のために書いていた。山室静が、この行き方は、ともすれば造型性がないがしろにされがちでナルシシスムに陥る危険性があると指摘していたことはすでに記した。これはなかなか難しい問題を孕んでいる。片山敏彦は声高なジャーナリズムには距離を置いて、声低く、耳ある者にのみ届く肉声で自らの詩心を伝えようとした人のように思えるからである。口八丁のアクターたちがさまざまな声音で巧言令色を言い募り、狂言綺語が跳梁跋扈する世の中にあって、裏表のない片山敏彦の肉声はどれほど貴重だったことだろう。そして、彼にとって、詩は秘められた最奥の世界だったのだ。  

 宇佐見英治は片山敏彦を尊敬していたけれども、「地下の聖堂」で一人祈るという詩人の在り方は選ばなかった。苛酷な戦場体験が、そういう態度をとることを彼に許さなかったのである。詩人の営為は私的なものに止まるものであってはならない。私的なものでありながら、同時に公的なものでなければならない、そして政治権力に結びつくことのない知的共同体を形成するものでなければならないと彼は思ったのではないかとわたしは想像するのである。  

 詩人の営為には、確かに修道者の祈りのようなところもある。祈りという行為は、物理的世界に直接作用するものではない。近代以降の科学的実証主義の立場に立つならば――。けれども、宗教的知の次元では、祈る人の存在は、汚濁に満ちた地上の世界を霊的次元で変容させるものと確信されている。人々の目に一切触れることがなくとも、彼らの祈りは公的なものなのである。高田博厚が入ることを検討したベネディクト会ソレームの修道院からの連想かもしれないが、「同時代」は、時代の政治的熱狂の只中で覚醒した夢想を織り続ける芸術上の観想修道院のようにわたしの目には映る。汚濁に満ちた卑俗世界のためにこそ求められる純粋世界といったもの。しかもそれは、実際の修道院とは異なり、世の中に公開されているのである。  

 ところで、宇佐見英治が兄事した齋藤磯雄は、戦争中、ボードレールとリラダンの研究翻訳に沈潜していた。修辞の限りを尽くした絢爛豪華な文章は、軍隊の指令言語とも、大衆動員の宣伝言語とも異なる「詩の言葉」に他ならなかった。彼の文章は何よりも音楽的であることが特徴である。彼は日記書簡に至るまで、およそ書き記されるものについては、修辞的配慮なしには一文字たりとも書き記そうとはしなかった。詩が、あるいは詩人という存在が、どこまでも公的なものであると信じていたからであろう。彼は常に入念な役作りを怠らない俳優だった。過剰とも言えるその言語愛は、片山敏彦にはなかったものだが、いざ彼の文を読み始めるや、夢想がたちまちのうちに自治領を拡大して現実を圧倒する光景に驚嘆せざるを得まない。それは言語で築かれた別天地であり、現実に対する夢想の勝利を物語っている。けれども、その旋律――言葉による音楽は、実は身の毛がよだつおぞましい現実に戦慄しつつ奏でられたものだったのではないだろうか。 

 宇佐見英治の精神には、片山敏彦の明澄な肉声に行き着くものがあった。そして齋藤磯雄の荘重華麗な役者の声に行き着くものもあった。二人はいずれも難攻不落の夢想の城に立て籠もり、隙あらば攻め入ろうとする褐色のペストのごとき時代の狂気を峻拒していた。宇佐見英治はこの精神の両極を見据えつつも、世界の甦りのためには城門を開けねばならないと考えたように思われる。戦場から帰り、底知れぬ虚無を胸に抱えていたからこそ。  

 もっとも、片山敏彦と齋藤磯雄という両極の精神は実は一致する。齋藤磯雄の精神をさらに遡行すると日夏耿之介が現れるが、日夏の「全神秘思想の鳥瞰景」と敏彦の「詩と神秘精神」を読んだ上で彼らの詩を熟読すれば、二人の根底に興味本意ではない神秘主義への傾斜が共通して潜んでいることがはっきりわかる。そしてこれは、「同時代」の同人である有田忠郎氏の『ヘルメス叢書』、清水茂氏の『詩とミスティック』、富田裕氏のヤコブ・ベーメ研究、かつて同人だった吉田加南子氏の詩集『定本・闇』に繋がる精神的水脈なのだ。サンボリズムのコレスポンダンスが世界認識の方法であり、文芸技巧上の方法や情緒の問題ではないこと、要するに生き方の変革の問題であること、そしてその背後には西欧神秘思想の底流があることを、彼らは熟知している。わたしの見るところでは、「同時代」は神秘主義を源泉に持つヘルメティック・サークルである。吉満義彦の教え子でもあった宇佐見英治を通して見ると、そのように見えるのだ。矢内原伊作を通して見ると、また別の見え方ができるのかもしれないが、彼にもグノースティックなイデア界への憧れは顕著だったように感じられる。  

 有田忠郎氏がサン・ジョン・ペルスの長篇詩「風」の翻訳を発表された。詩作を私的営みと見なした外交官詩人ペルスは、国際情勢に触発されながらも、情況を直接反映させた作品は書かなかった。しかし「風」は人類の荒廃と再生を謳っている。テロリズムの時代に突入し、ある種の政治的熱狂が世界を吹き荒れ始めた時期にこの詩を訳出した有田忠郎氏に、わたしは戦慄しつつも、声低く詩を朗読する詩人の姿をありありと見る。宇佐見英治が考えた「同時代」の精神が、底知れぬ闇の中で光り輝くのが見えるのである。


*初出:Ⅰ『片山敏彦 詩心と照応』マイブックル、2011年6月

    Ⅱ『同時代』17号、2004年12月 原題「夢想と戦慄」

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