有田忠郎:聖なる夏の輝き
有田忠郎の名前を知ったのは、学生時代に評論集『異質のもの――感性の接点を求めて』(牧神社)を手にしたことがきっかけであった。収録された諸論考は、著者三〇代から四〇代にかけて大学の関係誌や同人誌などに書かれたもので、全てが初めて読む文章であった。詩と宗教の関係を考察した「詩の位置」や、サン・ジョン・ペルス『流謫』の一行の解釈を巡る考察など、教えられることばかりで、しばらくの間この本を手元に置き、幾度も読み返すこととなった。特に、詩作という言語変成により、詩人自体が己の精神を変容させるという現代の錬金術的思考についての指摘など、わたしは目の醒めるような思いで読んだものである(ついでながら、ペルスの詩集は多田智満子や福田陸太郎の名訳で親しまれているが、有田もまた三〇代に『流謫』と『遠征』の翻訳と注解を試みている。九州大学「文学研究」六二号及び北九州大学外国語学部「紀要」一一号を参照されたい。また有田は、二〇〇六年にはペルスの大作『風』を、二〇〇八年には晩年の「鳥」を、それぞれ翻訳出版した)。
「アルメ」という詩誌の存在も、この本の初出一覧で知った(「アルメ」とは古代エジプトの舞姫。ランボーの詩に由来するという)。ほどなくこの著者が、クセジュ文庫の『錬金術』や『秘儀伝授 エゾテリスムの世界』、さらに『ヘルメス叢書』七巻の全訳(白水社、一九七八年)を果たしていることを知った。鷲巣繁男と小川国夫を愛読し、文学の宗教的次元に関心を寄せていたわたしにとって、九州に在住するこのフランス文学者が特別な存在となるのは自然ななりゆきであった。
一九八三年、その有田忠郎が第二評論集『夢と秘儀』を上梓するとともに、『セヴラックの夏』(共に書肆山田)で詩人としてもわたしの前に姿を現したことは新鮮な驚きであった。有田は当時五五歳であったが、それまで詩集はなく、これが初めての詩集であった。前年に鷲巣繁男が亡くなり、現代詩の世界に興味を喪失しかけていたわたしは、この詩集にみなぎる明るさと、いわゆる宗教詩人とは違った形の形而上性に胸を打たれ、その後も現代詩と疎遠にならずに済んだような気がする。 続いて『蝉』(書肆山田、一九八三年)が出た。表題作はこんな作品だ。
蝉
土からうまれ
土にかえる
一そうの舟
ランプをかかげ
それは油のような空間を
やさしい死へと漕いでゆく
夜明けも夕映えもいちどきに見た
夏蝉の声でうたいながら
歌のなかには もう
塵のしぶきが渦巻いている
土、舟、光、死、渦、といったイメージの背後にある「夏」に注意しておこう。有田にとって、夏は特別な季節なのだ。そして、この作品から、詩人が持つ聖なるものへの繊細微妙な感覚を読みとることはさして困難ではあるまい。
有田忠郎は、一九二八年、長崎県佐世保市に生まれた。父は弓と刀を趣味とする海軍将校であった。幼時を鎌倉で過ごした有田は、学齢となり父親の新任地である台湾の小学校に入学し、二年後に佐世保に戻った。旧制第五高等学校を経て、九州帝国大学及び大学院でフランス文学を学ぶ。卒業論文はヴァレリーであった。 有田は「母音」を活動の舞台として出発した。「母音」は丸山豊により、久留米で一九四七年に創刊され、一九五六年終刊している。一九五二年から参加した有田は、ヴァレリー論やクロード・マニ「ランボオ論」の翻訳などを寄稿している。二四歳から二六歳にかけてのことである。その後、板橋謙吉の「詩科」に参加して詩やエッセーを発表したというが、わたしは見ていない。黒田達也の「アルメ」に参加して精力的に評論や翻訳を執筆するようになるのが、一九六〇年四月、三〇歳のことである。当時この詩誌は月刊であった。
翌年の秋、父が死に、その二日後に息子が生まれる。三〇代半ばに大学講師となり、三〇代の終わりにフランスのトウールーズ大学に留学した。南仏ラングドック・プロヴァンス地方の村落をつぶさに見てまわったという。 四〇代に入り、有田は旺盛な翻訳活動を展開する。そして宇佐見英治らの「同時代」に参加するのが、一九七六年、四八歳の時のことである。「同時代」は、「オルフェ」とともに、片山敏彦と精神的繋がりの深い同人誌であるが、九州在住で地理的には東京都距離のあった有田がここに参加することとなったことに、詩人たちの魂が互いを呼び寄せる親和力を感ずるのである。
そして五〇代半ばになり、有田は詩人として活動を始める。詩集『セヴラックの夏』上梓の前年、在外研究のためにフランスに渡って南仏を再訪している。あるいはこれが「ある日言葉が、詩と覚しい方角から唐突にやって来た」(『セヴラックの夏』あとがき)ことと関わりがあるのではないだろうか。 先にも触れたところだが、有田の作品には「夏」にかかわる語彙がどの詩集でも頻出する。明るさと豊かさの印象が強いのは、そのためだ。有田にとって、「夏は世界中を音楽」にする季節なのである。しかし、夏は単に明るい季節ではない。最新詩集に収められた次の作品には、著者のこの奥行きある季節への愛が見事に定着されている。
夏を送る挽歌
1
もうすぐ火を落とします、水もそろそろおしまいです
欲しいものがあれば、いま言ってください
静かな声で、そんなに歯を剥かないで
あの樹に小鳥たちが、眠りに帰ってくるのです
2
夏が疲れて暮れはじめる、その時刻
波立つ海から駆けあがるかがやく弥撒の読誦、揺れる船
錨鋼は背伸びの練習をくりかえしながら
潮がみちるのを待っている、待っている
3
ツクツクボウシを七月に聞いた
精霊トンボも夏に群れた
季節は異常に急ぎ足
Festina lente , festina lente――ゆっくり急げ
4
焦げるにおいも漂った、胡瓜の蔓がのびる横で
苗と種子とのあいだに咲いた一輪の向日葵が残したもの
日時計に連れられて
日時計に置き去りにされて
5
夏の回路がどこかで切れて
声という声がボロ布のように
木の枝に吊るされている、蝉の形でしがみつく
ゆうひは灰を撒きながら、宙空を転がってゆく
6
列島が二つに割れて、降り注ぐ水と火の夏
星座の渚にうち寄せる泡
《錨を上げよう、時が来た!》と、老船長に
声をかければ、こは如何に、草を刈る大鎌の影
7
救急車が走っている、喉もとまで込み上げるその響き
近づいてきて、たちまちに背中を見せて
細く長く消えてゆく
あれが今年の夏の日々です、はじめから終わりまで。
さて、第三詩集『髪と舟』、第四詩集『一顆明珠』と詩集の刊行が続く。六〇代の仕事である。 そして、われわれが手にする最も新しい詩集は『子午線の火』(書肆山田)である(本稿執筆当時)。収録された作品は、ほとんどが詩誌「乾河」に発表されたもので、わたしはそれぞれの作品を発表時に読んでいるが、一冊にまとめられて、これはすばらしい詩集だと思った。「夏を送る挽歌」を先に紹介したが、迷った末に、巻頭に収録された次の作品を紹介することとしよう。
シチリアの塩
広くもない狭くもない食卓の片隅に
現れたシチリアの塩 海の風
採りたての胡瓜が皮ごと種子ごと
朝の歯にカリカリと噛み砕かれる
と 塩のなかから現れる
シチリアの海の味
海のひかり 海のいろ
砂ほどに粗いその粒々に
戸棚の蔭の(食塩)という
純粋な薬物は蒼ざめていく
隣家の犬は
(誰にむかって何にむかって)
吠えはじめるが
構やしない吠えさせておけ
シチリアの
海も山も太陽もまるごと溶け込んだシチリアの塩
それはシチリアの油のような
真昼に泳ぐ犬の声さえ
なめし清め静めてくれる
シチリアの夏には塩粒のあいだに隠れ
空に架かる一本の道を駆けぬけ
朝の舌にまっすぐにとどけてくれる
あくまでも青くあくまでも
奥ゆきのある
シチリアの深いにがさを
朝の食卓での小さな「マドレーヌ体験」である。庭から取ってきた胡瓜を口にした途端、一挙に現在してくるシチリアの海と山と太陽。日常と永遠が交差する瞬間がみごとに形象化されている。 なお、既刊詩集には未収録だが、「乾河」第二七号(二〇〇〇年二月)に発表された「冬の晩夏」について触れておきたい。
耳の中いっぱいにひろがる蝉の夏、
わたしは秋の髪を戴き、冬の庭の石を伝って
母を送りにゆく、儀式どおりに、あちら側へ
あちら側には、もう季節はない、混乱も
という書き出しで判るように、この詩は母親の死を主題としている。母を乗せた霊柩車は「すでに老いた子らを導きながら、拒みながら」火葬場へと進む。詩は「木戸をあけ、今朝わたしは冬のなかに出た、/鉄の戸が閉じ、あちら側に母は消えた。/わたしたちがまだ知らぬ火の中へ/どんな言葉も灰になってしまう所へ。」と結ばれる。一行ずつ読みすすむうちに、深い悲しみの感情が端正な言葉とともに静かに現在してくる。骨肉の死を主題とした現代詩の中でも屈指の作というべきである。
一九九九年三月、西南学院大学を退官した有田は銅版画を始めた。「手を使う作業をしてみたい」と思うようになったからである。夏を偏愛する有田は色彩豊かな水彩画も好むらしいが、鑑賞するのと自ら描くのでは勝手が違うのであろう。
線のみで描かれる銅版画の世界にも、やはり積乱雲が肩を聳やかし、丘の木立が影を黒々と落とす永遠の夏が描かれているのだろうか。
*初出『羚』創刊準備号、2001年6月。その後の情報を加筆しました。
0コメント