多田智満子(1)薔薇宇宙の彼方へ
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多田智満子の初期詩集を所持する人は、そう多くはないであろう。第二詩集『闘技場』(一九六〇年)は、A5判上製角背の瀟洒な詩集である。淡いブルーのカヴァーをめくると、表紙には、カヴァーと同じ、大きな杖を持った王の影絵の意匠が銀で印刷されている。ほぼ同じ造本の第一詩集『花火』(一九五六年)と並べると、僅かに薄いだけで、二冊はぴったりと重なる。しかしながら、『闘技場』には『花火』には見られないメランコリーが全編に立ちこめている。二六歳と三〇歳。僅か四年が経過したなかで、詩人の内面にはおおきな変化が訪れていたようである。
闘技場Ⅰ
憂鬱たちがひしめき合う
円形の闘技場
おもちゃの剣を抜いて
たたかえ たそがれの奴隷たち
みな片目をひからせ
とざされた時間の環のなかで
黙々と殺し合え
続く「闘技場Ⅱ」では、「殺し合う闘技者たちの血みどろな兜のかげを/禿鷹がそっとのぞきにきてみると/二人とも顔が無かった/顔が無かった」と記されている。この作品に、日米安保条約改定阻止闘争運動で揺れ動く東京から離れ、神戸で家庭夫人として生活する二〇代終わりの詩人の心情を読みとるのは曲解に過ぎようか。ともあれ、社会に対する冷笑的な視線はここにはない。もやもやとした霧のような壁に囲まれた自分という存在に対する掴みきれない焦燥感が露わである。学生時代に肺結核で療養生活を送る一時期などもあったが、慶應義塾大学文学部を卒業したあとは、就職をせず、やがて家庭に入った多田は、才能豊かな女性が二〇代の終わりに抱く焦燥感を人並みに抱えていたのである。
それにしても、モノクローム一色の『闘技場』と比べたとき、『花火』には何と明るく豊かな世界が広がっていたことだろう。たとえば、次のような作品。ここあるのは宇宙の秩序にも似た青春の音楽的調和である。
黎明 Nに
みずからの足跡を静かに踏んで
棕櫚は棕櫚のまわりをめぐる
ようやく透きとおる砂浜に
かるい水泡の裳裾を曳いて
小島は小島のまわりをめぐる
海をめぐるおおらかな黎明の舞踏よ
沈み去った星座のあとを追って
薔薇いろの帆船は沖に消える
「永劫を嘲ける/かん高い朱と金のアルペジオ/羊歯類は落魄に飢え/一夜熾んなヒステリア」(「花火」)と第一詩集で歌った詩人は、第二詩集では「気のぬけたチューインガムをかみながら」「ときどき忘れた頃に/まっしろい花火があがった」のをぼんやりと見る(「朝の花火」)。わたしの魂は死んだのか? 「この国では死人を葬むりません。お人形のようにガラスのケースにおさめ、家のなかに飾っておくのです」。「風の向きでかすかに潮の香りがただよってくると、この国もまた海をもっているのだということを思い出します。けれどもその海は私たちが航海するためにあるのではなくて、私たちをとじこめるためにあるのです。波は私たちを運ぶためにではなく私たちをあきらめさせるために、永久の運動をつづけているのです」(「遠い国の女から」)。詩人はここで、明らかにアイデンティティーの危機に直面している。
この詩集には「序にかえて」という文章が巻頭に置かれている。このなかで詩人は、「この詩集のなかに、もし私自身との血のつながりを感じさせる詩があるとしたら、それはむしろ失敗作であろう」と記しつつも、「意識のカタルシスのための日記的」詩作と「心のなかのアモルフなものを一つの形式にまで仕上げ、自分自身と無縁のものに仕立てあげ」るポエーシスの間を行き来していることを告白している。「私は二十代に別れを告げるいま、青春の最後の特権としてこの愚行をあえてすることを自分に許したのである」と詩人は思い詰めた口調でこの序文を終えている。「この愚行」とは、再び詩集を出すことである。作品に昇華されず、生の思いを吐き出すための詩作は、この詩人にとって到底許容できるものではなかった。それでも、思いは作品にいやおうなく表れる。それを誰よりも知る詩人だからこそ、詩集を出すことを「愚行」と記したのである。
『定本多田智満子詩集』(一九九四年)収録に際して、この序文は削除された。無理もあるまい。人生の危機をいくつも乗り越え、全詩集を編むほどに過去をふりかえる年齢になった詩人から見れば、悲壮感に溢れたこの序文は痛ましくも滑稽にも見えただろうから。けれども、当時の多田は行き先のわからない船のように自分を感じていた。『花火』のころ、詩はすらすらとできた。ほとんど推敲ということをしなかった。思えば幸福な時であった。今は違う。ポエーシスとしての詩作のための困難――それは実存の危機と無縁ではありえない――に、詩人は直面していたのである。
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多田の三〇代は、一九六〇年代とぴったり重なっている。特筆すべきできごとは、ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』(一九六三年)と第三詩集『薔薇宇宙』(一九六四年)の出版である。
『ハドリアヌス帝の回想』の訳出は、夫が結婚前にアメリカから持ち帰った英訳を読んで多田が感銘したことがきっかけとなっている。少女時代からエピクテトスやセネカ、そしてマルクス・アルレリウスなどのストア派哲学者の著作に親しんでいた多田の日本語は、ローマ皇帝の独白にふさわしい荘重さを湛えていて、当初共訳予定であった白井浩司は、多田の単独訳で出版することにさせた。三島由紀夫がこの仕事を高く評価したことが、高橋睦郎氏の証言から知られている。多田智満子が端倪すべからざる女流詩人としてジャーナリズムに注目され認知されたきっかけが、『花火』でも『闘技場』でもなく、この訳書の出版であったことは、まず間違いない。その意味で、この仕事は、以後ジャーナリズムで仕事をしていく上で、重要なものであった。
『ハドリアヌス帝の回想』の訳者後記には、ギリシア語などで神谷美恵子の教示を得たことが記されている。多田は、神谷が自邸で開いていたフランス語塾の上級クラスの「重要メンバー」であった。神谷は多田の日本語の的確さと美しさに驚いていた(神谷美恵子『遍歴』)。神谷の公刊された日記を読むと、多田は神谷の四九歳の誕生日にフランス詩を贈ったりしていることが記されているし(一九六三年一月一二日)、やはり公刊された神谷の書簡の中にも、多田の『ハドリアヌス帝の回想』の出版を喜んでいることが記されている(小鯨順子宛一九六四年九月一三日)。
一九六二年の初夏、多田は精神医学の実験の被験者となり、LSDを服用した。そして、このとき多田は、形而上的な神秘体験を持った。実験の間、彼女は一輪の薔薇を見続けたのである。この実験を行ったのは神谷美恵子であると、わたしは詩人から直接聞いた(多田自身は、服用を一九六三年初夏と記しているが、茂木政敏氏のご教示により、この作品の初出が「詩学」一九六二年一〇月号であることが判明したのでそのように判断する。また、多田は、訊ねられれば話したが、神谷との関係を自ら文章にすることはなかった)。
《それは異様におびただしい花弁をもった肉色の薔薇であって、たえず左から右へ(時計の針と同じ方向に)ゆっくり旋回しながら、花開きつづけていた。それはじつに数時間ぶっ通しに、同じ大きさ、同じ形を保ちながら、果てしなく花開きつづけたのである。〔……〕/それは奇妙な主客合一の状態であって、私はたしかに見ているのだが、見ている私がこっち側で見られている薔薇宇宙がむこう側にあるのではなく、世界は私のまぶたの内側に閉じこめられ、世界と私とは至近距離にあり、ときどき距離は完全に消滅して、私は見つめることをやめないでいながら、薔薇であるところの宇宙と合体することができた。/それは全く日常の経験とは次元を異にした、なまなましい原体験であって、そのときの私の頭脳は、はり裂けんばかりに明晰で、全脳細胞が透き通らんばかりにめざめていて、この薔薇宇宙――私から生まれ、私を生み続けるこの宇宙を、どういう風にことばで言い表してよいのか、一心に考えつづけていた。》
多田は、実験のあと、いいようのない疲労感に襲われた。それは「非常に遠い旅から帰ったようでもあり、おそらく凄絶な性的快楽のあとはこんな風であろうと想像させるような」もの、すなわち自分の「存在的基盤」を揺るがすような体験であった。「とうとう私は見たのだ、誰が何と言おうと、私は見てしまったのだ」と多田は自分に呟いていた。エッセー「薔薇宇宙の発生」のなかで多田は、「このヴィジョンを、あなた方にわかるように説明しようとしていくら言葉をつらねても、それらの言葉は所詮解読困難な記号にすぎないであろう」と記している。「あなたがた」というよそよそしい語彙は、管見のかぎり、多田の全文業のなかでこのエッセーにしか現れない。神谷美恵子は、このヴィジョンが「大変特殊でユニークなもの」と告げたらしい。わたしが詩人自身から直接このときの体験について聞いたとき、多田は六〇代であったが、わたしの前で右手をゆっくりと回転させながら、昨日の出来事のようにこの体験を語った。これはきわめて「個人的な体験」であったが、『ハドリアヌス帝の回想』の出版以上に詩人の人生にとって重要なものでった。
多田はこの体験を作品化し、『薔薇宇宙』と題する詩集に収めた。この詩集はA5変型横長判並装の薄いもので、村上芳正の装画が何枚か挿入されている。多田は、自分の体験に比べて、できあがった作品があまりに貧しいことに絶望的な気持になったが、それでも体験を言葉で形象化しないわけにはいかなかったのである。
「薔薇宇宙」は、プロローグ、薔薇宇宙、エピローグ、の三部構成になっているが、最後のエピローグで多田はこのようにうたった。
宇宙は一瞬のできごとだ
すべての夢がそうであるように
神の夢も短い
この一瞬には無限が薔薇の蜜のように潜む
復元された日常のなかでも
あらゆる断片は繧繝彩色がほどこされてある
夢はいくたびもの破裂に耐える
私の骨は薔薇で飾られるだろう
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ダンテ『神曲』天国篇にあらわれる天堂のようなこのヴィジョンの体験は、世界の根拠、存在の根拠について確信を与える詩人自身の神話となった。同時にこれは、詩人を世界各地の古代神話世界(加えて仏教、とりわけ華厳経哲学。これについては本稿では触れないでおく)に分け入らせていった。「お人形のよう」に瀕死状態であった「私」は新生し、「私とは誰か」という問は、社会的問いから哲学的問いに拡大深化した。「憂鬱たちがとざされた時間の環のなかで黙々と殺し合う」地上の世界は、宇宙の永遠と照応しあうものとなった。その結果、地上の現実のさまざまな事象は、同時に神話的存在として多田の目に映るようになっていた。『花の神話学』(一九八四年)『夢の神話学』(一九八九年)『森の世界爺』(一九九七年)『動物の宇宙誌』(二〇〇〇年)――多田には、動植物に関する神話エッセーがまことに多い(興味深いのは、文学者には少なくない美術エッセーの類が彼女には一冊もないことだ。それは物質的なものへの無関心を示しているようでもある。確かに多田は、物質を素材とし、なおかつ作品が感覚的現実界に物質として存在する絵画芸術よりも、「音」という非物質的素材から作られ、鑑賞の最中に内界と外界の区別が消失する音楽芸術に強く惹かれていた。これはまた、手紙や写真に対する執着のなさとも照応するようでもある。手紙はほとんどゴミ箱行きであったし、第一詩集出版記念会の記念写真も詩人は紛失していた)。
『ハドリアヌス帝の回想』に続く訳業であるペルス詩集にもここで触れておこう。多田は平凡社版『世界名詩集大成』ですでにペルス詩の翻訳の手伝いをしていたのだが、その後単独訳として『サン・ジョン・ペルス詩集』(一九六六年)を上梓した。その生動した日本語は圧倒的で人々を驚かせた。当時を振り返り、中井久夫は「彼女の訳文は、むいたばかりの果実のように汚れがなくて、滴たたるばかりにみずみずしかった」「この時期、これだけの読むに耐える訳詩ができる人が他にあっただろうかと思う」(「多田智満子訳『サン・ジョン・ペルス詩集』との出会い」「関西文学」第二八号)と回想している。多田のこのみごとな訳業達成の根底には、何よりも、わがこととして神話を生々しく生きた、薔薇宇宙の体験があったのである。
さて、さまざまな神話的モチーフのなかでも、なによりも惹きつけられたものが「鏡」のモチーフであった。鷲巣繁男は多田の詩に漂う複雑な悲哀感の背後に隠された「女性であること」へのフォボス(恐怖)を見て取った(それは自分が全く気がつかなかったところであったと、わたしは詩人から直接聞いた)。わたしもまた、多田の「鏡」へのこだわりに、「見られる存在」を宿命づけられた女性の実存を感知するのである。多田は「鏡」に関する思索を重ねることによって、フォボスを手なずけようとしていた。
随想集『十五歳の桃源郷』(二〇〇〇年)に興味深い挿話が語られている。小学校に上がった年、世界一周旅行から帰国した父親を歓迎する会で、出入りする学生たちが隠し芸を披露するのに混じって、幼い詩人は「かもめの水兵さん」のダンスをすることになった。電蓄の曲に合わせて「帽子からズボンまで水兵服に身を固めた私が、挙手の礼をしながら、足どりよろしく進み出た」。ところが「多数の大人たちの拍手と笑顔に迎えられて、私は突然どうしていいか分からなくなって立往生し、ワアッーと泣き出してしまったのである。颯爽たる水兵さんが急転直下六歳の幼児に環って、学生さんたちに抱きかかえられ、泣きじゃくりながら楽屋――つまり隣室に引込んだあとのことは全く覚えていない」。微笑ましい逸話だが、後年まで印象深く記憶されていたこの情景には、おそらく「見られる」ことへの恐怖の原点が潜んでいるのである。
とはいえ、戦争が終わる十五歳までの時代、ことに疎開先の滋賀の田舎暮らしは幸福であった。「そう、そのころ、すべては新鮮で、めざましく、美しかった。しかし、川瀬の石の上に立つと、小鮎の群がきらめきながら過ぎてゆくように、そのように私のつつましい楽園の刻は過ぎつつあった。戦争が終り、焼け焦げた学園への復帰の時が迫りつつあったのである」(「私がものを書き始めた頃」)。学生時代からの親友である矢川澄子はこの随想集に触れて「十五で迎えた敗戦時の疎開先の思い出が桃源郷とよべるなんて、つくづく恵まれた境遇。このひとの浮世離れぶりは、たしかに常識では測りきれない」(「朝日新聞」二〇〇〇年九月二四日)と呆れた。「学者の家に育っていて、あなたに羨ましがられるいわれはないわよ」と多田は言ったそうだが、矢川はここで誤解している。多田にとって十五歳までの生活が桃源郷であったのは、それが恵まれた境遇であったからではなく、「見られる存在」以前の、男でも女でもない、現在では戻ることのできない自らにとっての神話時代だったからなのである。そこでは、たくさんの動物や植物が、親しい友人として彼女を優しく取り巻いていた。「私は十五のとき、女になるのがおそろしいと思いました。十八のとき、女であるのは忌まわしいと思いました」とは、先に引用した『闘技場』に収録された「遠い国の女から」の一節である。
サルトル、フッサール、メルロ・ポンティ、レヴィ・ストロース、ラカン、フーコー、ロジェ・カイヨワといった錚々たる男たちを総動員したエッセー集『鏡のテオーリア』(一九七六年)のなかで、多田はサルトルを援用して次のように記している。
《見られているということは「まなざしを向けられている」ということだ。誰かにまなざしを向けられているということは、とりもなおさず、私が何かしらの彼の価値評価の対象となっているということだ。そのときの私の反応は、まず羞恥か自負であろうが、他者のまなざしは即座に私の内部に組み込まれ、私が私自身に向けるまなざしと同化するかあるいは少なくとも共存する。手っとり早くいえば、見られていると意識すると同時に私は否応なしに自分を見てしまう。他者は私を写す鏡として現前するのである。/私を見ている他者の価値評価を受け入れるにせよ否定するにせよ、ひたとまなざしを向けられたその刹那には、私は全く無防備で傷つきやすい存在でしかありえない。私は自分が現にそれを生きつつあるところの、流動的な内受容性の現場をとりおさえられ、一瞬周章狼狽し、あるいは少なくともたじろがざるをえない。相手のまなざしに耐えるために、私の流動的な存在の表面には大急ぎで透明なかさぶたのようなものができあがる。私が彼の評価をできるようになるのは、そのかさぶたが張った後でである。》
ここで多田は「他者」を「彼」と言い換えているが、ここでの「彼」は、「人間」というよりも「男性」という意味であろう。他者からまなざしを向けられたときに、自分が何かしらの相手の価値評価の対象となっていると考え、「羞恥か自負」を感じるのは、大多数の者にとって、その他者が異性である場合に限られるからである。
美貌――それは霊肉を巡る哲学的な主題である。美貌に恵まれた女性は、彼女が内省的であるならばなおさらに、若き日々に、さまざまな苦悩を味わうことであろう。神谷美恵子の若き日の日記に、そうした苦しみが存在することを、わたしどもは垣間見ることができる。それは、ある種の女性にとっては、災厄であるのかもしれない。一九五〇年代、同人誌「今日」で二〇代の多田と一緒だったある老詩人(男性)の口から、若き日の彼女の輝くような美貌が語られるのを聞いたことを、わたしは思い出す。多田のきわめて親しい友人が、同性の矢川澄子を除くと、たとえば永遠の少年澁澤龍彦であり、同性愛者高橋睦郎氏であり、老詩人鷲巣繁男であったことは理由なきことではあるまい(多田は、同人雑誌をしていた若いころ、小柄な澁澤龍彦と相撲をとって勝ったと無邪気に記している)。ちなみに、神戸在住の中井久夫氏は、「多田さんに叱られるかもしれないが」と断りつつ、自著の出版記念会に出席してくれた初対面の多田について、「エジプト女王ネフェルティティの面影のある美女というのが私の印象であった」と記している(「多田智満子訳『サン・ジョン・ペルス詩集』との出会い」)。また、沓掛良彦氏は、「お年を召しても、多田さんの気品ある美しさは、彼女がその頭脳から紡ぎ出す澄明な詩の言葉と同じく、少しも失われていない」と述べ、花椿賞授賞式の席で旧知の編集者が多田の美しさに改めて感嘆した挿話を記している(「詩女神の裔」『文酒閑話』所収)。
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要するに、『鏡のテオーリア』は、浮世離れした閨秀詩人の典雅なエッセーではさらさらなく、一個のプラトニストの切実な自己認識の書なのである。「この鏡 微笑の墓場 旅人よ/ラケダイモンにゆきてつたえよ/化粧濃く 白く塗りたる墓ひとつ/鏡のなかを風のみぞ吹くと」(「鏡」『鏡の町あるいは眼の森』所収)という作品がある。シモーニデースのエピタフのパロディめいた作品だが、この中の「白く塗りたる墓」にキリスト教のイメージを見るだけでは不十分であろう。そこには詩人の顔が映っている。自らの顔(肉体)を、詩人は墓(滅びゆくもの)と観想している。
もっとも、女性であることのフォボスとは、鷲巣の見立てでは、単に「見られる性」への怖れであるばかりではない。それはイエスを生んだマリアから、現代のジョイス・マンスールの戦きまでをも含む、きわめて振幅の大きなものであり、「この怖れを分析することは中々にでき得ぬこと」でもある。要するに「それはたしかに理性が医やすべきものとして、その高邁さの下にじっと耐えているであろう何ものか」(鷲巣)なのである。それゆえ、「女性詩」という視点を仮に導入しても、それが女性をもっぱら社会的存在乃至人類学的存在としてとらえるに止まり、神話的宗教的深さと広がりを欠く限り、換言すれば、天上的な視界を欠き、あくまでも地上的な視界に止まる限り、神話的形而上詩人多田智満子の出現を理解することはできない。実際、多田を「教養」で詩を書く詩人と見なす偏見は根強いのである。
たとえば、井坂洋子氏は、阪神淡路大震災後に編まれた生と死を巡る詩集『川のほとりに』(一九九八年)を「内省的でいい詩集」といいつつも「ある種の教養を背景に詩語を自在に繰りだしていて、自分の心境を書いていますね」「骨折した話がありますが、そのギブスを取るのを「再生の儀式」と書いたり、外科医を「司祭」と言ったり……、現実に何もない、何も見えないからこそ、詩でもってそこで何かを作っているというか、詩作でもって現実を面白いように加工しているんですね。そして、その詩のうしろで作者はニンマリと笑っているわけです」(「現代詩手帖」現代詩年鑑1999所収座談会)と語った。また、荒川洋治氏は、詩集『長い川のある國』(二〇〇〇年)を「成熟期の佳編」といいつつも、集中の作品「井」を採り上げ、「うつくしい詩であるかもしれない。だが多田氏の詩はこんなものでいいのだろうか。いいのだ。なぜなら作者は自分が日本語で詩を書くことをあまり信じていない、もっといえば、詩というものはこれまでに自分が知った愛すべき西欧の詩の知識や記憶をなぞっておけばいいのだ、わざわざまずしい自分の日本語を押し出さなくてもよいというふうに考えているからだろうとぼくは想像する」(平成一三年度版『文藝年鑑』所収文学概観「詩」の項)と記した。いずれも首肯し難い見解と言わねばならない。ふたりは、もっぱら状況分析に主眼を置き、本来洞察すべき詩人ひとりひとりの根本的な詩作推進力に目を向けていない。
もちろん、理解者もある。多田智満子を評価する者としては、亡くなった篠田一士や中村真一郎、現在では丸谷才一氏などが思い浮かぶ(ここでは、鷲巣繁男、高橋睦郎、鈴木漠といった、詩人に親しかった人々は別格として除外しよう)。丸谷氏は『長い川のある國』の書評で「藤原定家もジョン・ダンも言葉遊びの名手だった。学殖を前提にした詩、冗談を言う詩は由緒正しいもので、そして多田智満子は今の日本では珍しく正統的な詩を書くのである」(「毎日新聞」二〇〇〇年一〇月一日)と記した。ここで形而上詩人ジョン・ダンの名前が引かれているのには理由がある。多田智満子を明確に形而上詩の観点から評価するのが、『ジョン・ダン詩集』の翻訳を持つ星野徹であることは偶然ではない。星野は我が国の現代詩における神話批評の第一人者であったが、彼は『祝火』に収録された「星の水盤」を最高の形而上詩と語っている(『《現代詩》の50年』所収座談会)。
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『薔薇宇宙』の四年後に上梓された第四詩集『鏡の町あるいは眼の森』(一九六八年)では、詩行に堂々とした風格が加わり重厚さが増した。もはやその作品に「意識のカタルシスのための日記的」詩作を認めることはできない。「ねむりの町」の名高い一節を引く。
虚無に捧げる青銅の大杯のように
なみなみと眠りをたたえた町
杯の縁に彫刻された物見の塔や暗い銃眼
ここに訪れる使節たちは心せねばならない
平らかに澄んだ眠りの底に
敵意に満ちた夢の一族が待伏せている
その後も、『贋の年代記』(一九七一年)『四面道』(一九七五年)『蓮喰いびと』(一九八〇年)『祝火』(一九八六年)と詩集は続く。「鏡」のモチーフは、やがて「水」のモチーフとなり、やがて「川」のモチーフへと変容していった。詩集『川のほとりに』の表題作はこのような詩である。
どこからか わたしは見ている
体重のない人たちが
この岸からあの岸へ
一度かぎり運ばれていくのを
水は澄み きめこまかくねっとりとして
渡し守が櫂をうごかしてもしぶきが飛ばない
舟のうえの人々はたぶん《魂》なのだろうに
まるで魂の抜けた人のようだ
深い眠りのなかにあるように
うっすらと口をあけている
忘れ川の水をのむまでもなく
おそらく記憶を失いつくして
あの老女たちはみな母に似ている
とすればわたしもかれらにうそ似ているのであろうか
夢が夢に似るほどの似通いかたで
うっすらと口をひらいて
そしてどちらの岸から
わたしは見ているのであろうか
へさきにとまった蜻蛉が うすい翅で
広大な午後の重みを量っている
「どちらの岸から/わたしは見ているのであろうか」と詩人はいう。此岸と彼岸。ここにも鏡のモチーフが変奏されている。「広大な午後の重み」という言葉が最後の詩行にあるが、「老年というものはね、いつまでも暮れようとしない、広大な午後のようなものですよ」という、詩人の忘れがたい言葉をわたしは想い出すのである。午後の光が燦々と降り注ぐ神戸の多田邸でのことであった。
最後の詩集『長い川のある國』が、エジプトを主題にしていることは興味深い。ギリシアからエジプトへ、詩人の関心は移っていった。エジプト人は「永遠の死相の上につかのまの生の仮面をつけていた」(「オシリスの影のもとに」『神々の指紋』一九八九年所収)と詩人は考えていた。この最後の詩集のなかには「死者の住む西岸と/生者の住む東岸//そのあわいを行く/この舟」という詩句もある。旅立ちを詩人は予見している。
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二〇〇二年九月、多田は「夏の手紙」(「草蔵」第五号)という作品を発表した。生前に発表された、おそらく最後の詩である。
あさってから手紙がくるよ
あしたのことが書いてある
あしたってつまりきのうのこと
あしたのわたしはごきげんですか
今日を折目にして
あしたときのうが向きあっている
みんな読みちがえてしまうのさ
あしたをきのうと
きのうをあしたと
蝉が地面にいっぱい穴あけて
這い出してきて鳴きわめく
あれはあした あれはきのう
あたまくらくら
うしろ向いたり
まえ向いたり
わたしをあしたに渡しかね
すすむつもりであとすさり
鈴なりの蝉が木々をゆすって
じゃんじゃんと鳴きしきって
それで一夏過ぎてしまう
今日を折目にして
夏と秋とが向きあっていて
ほらおとといからも手紙がきたよ
おとといは秋
あさっては夏
空蝉を髪にとまらせて
きのうのわたしはごきげんですか
ここにも鏡のモチーフが現れている。ただし、空間ではなく時間において。「今日」を折目にして、「あした」と「きのう」が、「夏」と「秋」とが向き合っている。この作品から、第一詩集『花火』に収録された「城」を思い起こすのは、わたしだけではあるまい。
昨日は今日に
おそらく明日は今日に似て
祝婚の歌の折返句さながらに
この日また虚無の賑やかさ
春の詭弁に馴れた枝が
ひと葉ひと葉に太陽の像を結ぶとき
とざされた城の奧ふかく
鏡はいちはやく秋のけはいにふるえる
ひびわれたその鏡面のかけらごとに
映る幾百の姿が相似るように
昨日は今日におそらく明日は今日に似て
永遠がひびわれて成った時間の
どれも浅いひとつひとつに
倣った眸は影よりも脆く囚われ
光るうわべにもだえて死ぬ
たとえば窓に垂れたれいすの
あみ目に翅をとられた蝶のように
さんさんと陽の照る悲哀の城に
この日また虚無の賑やかさ
小鳥は新しい恍惚を装い
枝ごとに朝露をふるわせて
つかの間の装飾音符をちりばめる
ここには、昨日に似た今日と明日を「虚無」と観じた苦い青春への回帰があるというべきであろうか。否、「夏の手紙」の行間には、明るく、晴れやかで、溌剌とした、十五歳の少女の輝きが溢れている。そこにあるのは、少女時代への回帰、薔薇宇宙の彼方にある神話時代への回帰といわれるべきであろう。
*初出:『三田文學』73号、2003年4月
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