川田絢音:生きることを探る詩
一九四〇年に満州で生まれ、二〇代の終わりからイタリアに在住する川田絢音は、インタビューに応えて次のように語ったことがある。
《いろいろな事情もあって、イタリアのあちこち、フランス、スイス、ロンドンにも暮らしました。でも普通の暮らしとも違って、暮らしを探っていく、詩をさぐっていく歩みと同じように、生きることをさぐっていくことで、それは現在でも同じだと思います。〔……〕その暮らし方ということでは今でもその方法がつかないでいます。意識が取引を拒んでいるので難しいのです。〔……〕今でも何をしてこの世の中で収入を得ることができるのか分かりません。けれどそこに力を入れることに最初の意味を感じられないのも確かです。》
たとえば、ハンセン病患者たちにとって「生きること」とは長らく「社会」に受け入れられて生活することにほかならなかったが、川田絢音にとって、法と経済に基礎を置く「社会」というものはほとんど意味を持たない。彼女が「生きることをさぐる」という時、それは世界に剥き出しの神経を擦り付けて自らの存在を確認するような烈しさを意味するのである。それはしかし、社会という共同幻想に護られていないだけ、苛酷なまでに「生」を実感させる。
《今日が最後かもしれないと思っています。その緊張があります。まあ今日はこれでいい、というようなゆとりがないですね。〔……〕どんな詩を書きたいとも思っていないし、どんな詩が出来てくるかも分からないんです。何も出来ないのかもしれない。詩をさぐることが、自分が半歩歩むことをさぐるわけで、ただ詩という形を求めることでその半歩を歩めるように思うのです。》
夜
黒ずんでべろんとした敷石 濡れてひかっている露地を
歩きながら
悲しみがこみあげて
よその家のベルを チッと鳴らした
知らない車に乗ってしまいどこかに連れていかれる
ということだって
考えられる
建物の
石の壁に手の甲を擦りつけて
痛くなるまで
擦りつけながら歩いていく
夜一人で療養施設内を歩くハンセン病患者に、月影や壊れた水道管が優しく接するのと異なり、川田絢音の作品世界では、世界は詩人を絶対的に拒否している。荒涼たる世界というふうにも見えるし、自我を持つ人間存在の根底にあるのはこういう感覚ではないかと考えさせられもする。
わたしは「冬の食事」という作品にこころ惹かれるものがある。散文形式なので、抜粋して紹介することとしよう。
語り手は、「夕映えも通りのネオンもしらじらし」い冬のフィレンツェに戻ってきている。駅裏の安ホテルに宿泊して仕事を探すが、なかなか仕事は見つからない。「働いて現実のなかに生きてみようとするが、何度くりかえしてもそんな真似事は崩れてしまうのではないか」という疑念に苛まれる書き手は、一日中カフェや図書館で過ごす。「博物館に入ると、壊れたガラス壺を丁寧に張りあわせてあるのがじぶんの魂のように見えてくる」。広場では「絵描きが、いらないと言っても絵をくれた。水彩にパステルを重ねた白と黄の抽象が精液をしぶかせたようでたえられなかった」。通りから通りへと語り手はさまよう。イタリア人との二度目の結婚が破綻して、裁判が結審したとき、語り手はアパートを追われ、チュニジアに流れていったのだった。その後、「あちこちを住みつないで二年たった。ヴェネツィアの運河のそばで、そっと外套のふところの札束を見せた男がいた」。「どこかに居ればいい、と気持を落ち着けようとするが、すぐにどこにも居たたまれないような思いに投げ返される」。夕暮れの食堂。「一刻一刻ががまんしきれなかった」。そして夜がくる。
《深夜になってから、清掃車の通ったあとの濡れた街を歩いた。破れてしまうことのない黒い石畳みが足もとに厚く広がっていて、その時ばかりは思いが引き締められていく。じぶんも何かにもとづいて地上を渡ってでもいくようなやすらぎを覚えた。》
川田絢音の孤独は徹底していて、ここには宗教の入り込む隙間もないように感じられる。畢竟、宗教とは集団の営みだからである。
詩人は音楽大学で声楽を専攻した人だが、四年生の夏に中退する。「その時にその歌を歌わねばならない必然性がないからです。それに身をゆだねていくことに苦痛を感じて声楽の演奏が自分の道ではないと考えました」。これはわたしには容易には理解できない論理だが、「注文があって詩を書いていくのは自分の道ではないと思いました」という言葉に引きつけて考えると理解できる。「詩をさぐることが、自分が半歩歩むことをさぐる」ことである川田にとって、注文に応じて詩を書くことは、その時にその詩を書かねばならない必然性がないからである。彼女には詩論や他の詩人に関する文章が一切ないが、これも「詩を書いているわけですから、それについて話すというような必要性は感じない」からなのである。
われわれは、社会的存在として、自らの内的必然性に従うということは難しい。むしろそれを自ら圧殺し、社会からの要請に全面的に従うことで日々生活しているといってよい。われわれは、人生を、国家や企業と同じく、計画と実行によって展開しようとする。それは未知を「さぐる人生」ではなく、既知を「なぞる人生」ではないだろうか。川田の論理は一見異様であり、その作品はしばしば病的に映るけれども、それは彼女が「何かにもとづいて地上を渡」ろうとせず、徹底して「自分の道」を歩もうとしているからである。その道は世俗的幸福とは正反対の方向へと向かっていったのだが、第一詩集『空の時間』の頃、詩人はそれを知る由もなかった。
無垢な窓を
内へ
内へと
開け放って
悲鳴ははれやかに疾走しなければならない
疾走しなければならない。その果てに詩人を待ち受けるものはたとい悲惨であろうとも。「悲鳴」は第三詩集のタイトルとなる。だが、詩人は「真似事」と感じられる一切を拒否し続ける。彼女が外国暮らしを続けるのは、日本の「世間」を忘れて人生に集中しようとするからだろう。それは意識的に選択された人生ではあるが、運命的とでもしかいうことのできない力に従った結果でもあろう。
「三つの夢」と題した作品にある「人間がたとえどんな向きに歩いていても、人間という姿かたちに於て磁気をもったように互いに平行になっていることに気づく。雨粒のようだ。」は謎めいた詩句である。ここにあるのは無常なのか、それとも慰藉なのか。認識なのか、それとも感慨なのか。半歩さきさえ見えないという詩人には、十歩先を見通している――と思い込むことで己の人生との直面を避けている――われわれには見えない世界が見えているのではないだろうか。
こどものころに「友達はほとんどありませんでした」と語る詩人を、われわれは当然のことと受け止めるけれども、インタビューの最後に「詩が伝わっていって、生きていて共にめぐりあうことができたらという期待があります」と詩人が語るとき、われわれはこれを正直に受け取るべきかどうか躊躇する。ここで詩人は、世間が要請する詩人像、「意識が取引を拒んでいる」詩人像を強引に作り上げ、無理をして語っているように感ずるからである。この言葉は「あなたにお目にかかれて嬉しいです」という決まり文句のように、空虚に響くとわたしは感ずる。
だが、「生きていて共にめぐりあうこと」という言葉の意味するものが、この詩人の場合は、われわれが通常理解する以上の奥行きをもっているのかもしれないという気もする。彼女にとって、他者との関係とは、突き詰めれば「ここで みんなに 犯されたい」(「グエル公園」)というような戦慄に満ちた痛苦、「石の壁に手の甲を擦りつけ」るどころではない痛苦によってかろうじて実感できるものなのである。そのような関係への「期待」がわたしの理解を大きく踏み越えているがゆえに、正直に受け取ることができないのかもしれない。
川田絢音は造形作家としてオブジェも制作しているが、こちらは詩のように畏怖の感情を引き起こすことがない。八点の図版を見ただけなので確かなことはいえないが、これらが選りすぐられた作品であるとすると、他者を圧倒し震撼させる力に乏しいように思われる。やはり言葉の人なのであろう。
*初出:『羚』17号、2005年9月
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