燈台の光、書物の光:『アレキサンドリア四重奏』の記憶
江ノ島の燈台の光が、夜になるとカーテンの隙間から部屋に差し込んだ。寝つけない夜、ベッドに横たわったまま、わたしは周期的に差し込む光が壁を一瞬照らすのをぼんやりと眺めていたものだ。松林に囲まれた辻堂の家――それは、第一次大戦後にドイツ人技師を雇ってインキ製造販売で小財をなした祖父が、昭和一四年に建てた別宅だった。地下室があったという麻布の本宅は東京大空襲で焼失し、疎開先であった湘南にそのまま暮らすことになった。昭和三五年横浜生まれというのは、産院が横浜になったというだけの話で、湘南の海を眺めながら育った。江ノ島の花火大会も、縁側で西瓜を食べながら見たし、中学も高校も、相模湾を望んでいた。
ローレンス・ダレルの『アレクサンドリア・クァルテット』を、二五、六年ぶりに再読している。知られるように、これはダレルが四〇代後半に書き継いだ連作『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーヴ』『クレア』の総タイトルである。
The sea is high again today, with a thrlling flushof wind...(海は今日も波が高い。刺すような風にあふれて……)という第一作の書き出しを読んだだけで、この作品を高松雄一氏の名訳で読んだ二〇歳前後のやるせない気分が胸によみがえる。江ノ電で通う高校の教室からは鎌倉の海原が見えた。毎日見ていると、季節や天候、一日のなかでも海は千差万別の表情を見せた。
The sea is high again today という言葉は、だから、それだけでも、昔も今も、わたしのなかに身体的とでも呼ぶべき感応を引き起こすのだ。
大学に通うようになったころ、丸善で、美しい装丁の一巻本の原書が頁を開いて陳列してあるのを見て息を呑んだことがあった。印字された頁が発光して、周囲が輝いているようだった。欲しくてたまらなかったが、値段も確か二万円ほどと高く、洋書を読む日常的習慣もなかったので諦めた。今回手にしたのはFaberのペーパーバックだが、記憶の中にある、あの本の輝きは、髪が白くなり始めた現在も忘れることができない。その気になれば、インターネットでその本を簡単に手に入れられるのだろうが、記憶の彼方から、それこそ燈台の光のようにその本がわたしの心を照らしてくれることを大切にするべきなのだろう。ダレルのアレクサンドリアと現実のそれが同一のものではないように、あの本はもはや現実世界の書籍ではなくなっているのだから。
わたしは作品以上に作家に興味を抱く傾向が強い。フラナリー・オコナーの書簡集や、ジュリアン・グリーンの自伝などを書棚に置くのも、作品以上にカトリック作家としての彼らの存在に強い興味を抱くからだ。だが、一九一二年に生まれ一九九〇年に死んだダレル自身について、わたしはさっぱり関心がない。彼の小説中の登場人物の方が、はるかにわたしの興味を掻き立てる。再読して我ながら驚いたのは、この複雑な物語のいくつもの場面の細部を、ほとんど逐語的な正確さで記憶していたことだ。
たとえば、主人公が恋愛相手になるジュスティーヌと初めて出会う場面。同居する踊り子メリッサの新しいコートを買ってやるために、主人公の貧乏教師は社交界の婦人方を対象とする講演会を引き受ける。寒い晩のことだ。カヴァフィスに関する講演が終わって会場を出るとき、主人公は、男のように脚を組んで煙草をふかしながら、視線を床に落として沈思している女を見かけた。通りが見える食料品店に衝動的に入り、缶詰のオリーヴを買ってその場で食べ始めた主人公は、エンジンをかけたままの高級車から、その女が降りてくるのを見る。店内に入ってきた女は、挨拶もなしに主人公にいきなり横柄に問いかけるのだ。What did you mean by your remark about the antinomain nature of irony? (どういうことなの、あなたの批評にあった、イロニーの反立法主義者的性質って。)と。いくつかのやりとりの後、彼女――ユダヤ人ジュスティーヌは主人公を見つめて I liked (気に入ったの)という。the way you quoted his kines about the city. Your Greek is good. Doubtless you are a writer. (あなたの引用の仕方、彼がこの街について書いた詩の。ギリシア語が上手で――たぶんあなたは作家なのね。)主人公は自分が知られていないことに傷つくのだが、この、Doubtless you are a writer. という言葉は、当時のわたしにどれほど魅惑的に響いたことだろう。
全てがこれから始まるという年齢で読んだこの小説は、人生というものの奥行きが果てしないものであることを予感させるに充分な重厚さを湛えていた。華麗絢爛という以上に、この小説は絡み合う幾つもの人生が生み出すこの世の豊穣さに満ちていた。もっとも、これは当時は予感めいた印象として捉えられていた。主人公が味わう感情のいくつかをわたしはすでに理解できたが、歳月がもたらす世界の変容については全く理解できなかったといってよい。とはいえ、人生の苦さと甘美さが区別不可能であることを知ったことは、同じ事件に関与しながら世界が各人に全く違う相貌を見せるという洞察とともに、わたしにとって重大な発見であった。
二〇数年ぶりに読み返すなかで、わたしは自らのささやかな人生にも、重層し、交錯し、交響する複雑な記憶の存在を確認せずにはいられなかった。生きている限り、回想は常に未完結である。それは常に現在を主張するが、同時に常に変容の可能性にも満ちている。そして。そもそも人生とは、体験された瞬間ではなく、回想されたときにこそ、意味を持ち始めるのだ。人生とは実に虚構的なものである。……辻堂の四〇〇坪の土地と屋敷は、父の事業の破綻とともに、あっと言う間に人手に渡り、細かく分割されて影も形もなくなってしまった。転宅を繰り返すなかで、わたしは多くの書物も手放してしまった。江ノ島の燈台の光が差し込む部屋も、そこで読んだ書物たちも、現在はわたしの記憶のなかにしか存在しない。それらはすでに、現実以上にリアルな――つまり小説のような存在と化している。
There are only three things to be done with a woman. You can love her, suffer her, or turn her into literature.(たった三つしかないの、女に対してすることは。愛するか、苦しむか、彼女を文学に変えてしまえるだけ。)これは、画家であるクレアが主人公に語った謎めいた言葉で印象深く記憶していたものだが、今なお謎として、あるいは謎としておきたい言葉として、わたしの前に存在する。そしてこのような印象深く言葉がこの作品にはちりばめられている。
長い物語の最後で、主人公はこう記す。Yes, one day I found mayself writing down with tembling fingers the words(four leters! four faces!)with which every story-teller since the world began has staked his slender claim to the attention of his fellowmen. (そうだ。ある日わたしは見出したのだ。震える指で四つの語――四つの文字! 四つの顔!――を書き出す自分を。世界が始まって以来、全ての作家たちが読者の注意を引くためにささやかな主張を賭けてきた言葉を。)その言葉とは、Once upon a time...(昔、あるとき……)という言葉に他ならない。
思えば、現在のわたしは、ダレルがこの連作小説を書き継いでいた頃の年齢になっている。わたしの目に映る世界は、少年時代以上に謎めいている。大人になり、経験を重ねるに従って世界が単純に見えていくとしたら、それは多分大いなる錯覚なのだ。ひとつの物語は、その背後にいくつもの物語を潜ませているのだから。そしてそれらの物語もまた真実なのだから。…… 父の借財と大病が与える心理的圧迫は、当時のわたしには途方もなく大きかった。大学院への進学は断念して教師になったわたしは、最初の学校で数年を過ごすと、自分が通った海の見える学校に転任した。
国語を教えながら、いろいろな外国語の独習を試みてどれもものにならなかったが、古典ギリシア語もその一つだった。ギリシア正教徒詩人鷲巣繁男の伝記を書いていたわたしは、詩人の蔵書の一部をご遺族の好意で分けていただいていた。サン・ジョン・ペルスの詩集やアレクサンドル・ブロークの一貫本全集、クセジュ文庫、ローブ叢書のオウディウス、ノンノス、ポロティヌンスなどがあった。これらは今も大切に所蔵しているが、ある日ローブ叢書を手にして頁を眺めていたときに、右頁の英訳で大意を掴み、左頁のギリシア語で音だけを味わう、という読み方(?)ならばできると気がついた。
学校の仕事が終わると、わたしは江ノ電にすぐには乗らず、しばしば浜辺に下りる階段に腰を下ろして、海風に吹かれながら、これでいいのだろうかと首を傾げながら、たどたどしくそれらを読むことがあった。次第に黄昏れてくると、右手に見える江ノ島の燈台が明滅を始めた。自分のことを不幸だと思いがちな日々であったけれども、そのときわたしはおそらく幸福だったのだろう。自らも詩を愛し、貧乏教師のわたしを見つめながら、Your Greek is good. Doubtles you are a writer. という女がかたわらにいなかったとしても。
初出:『羚』20号、2006年6月
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