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   一  

 石川淳(一八九九―一九八七)はフランス語が堪能だったが、幼時に漢学者の祖父から論語の素読を教え込まれ、現代作家にしては珍しく漢文も自由自在に訓読できたことから、和漢洋に通じた小説家といわれてきた。漢文の素養という文化資本を分配されたことが文学者として石川がユニークネスを獲得することに役立ったことは事実である(1)。しかし彼は漢籍を日本語として訓読したのであり、また同時代の中国に対してフランスやソヴィエト連邦に匹敵するような強い「外国」意識を抱いていたとは考えられないことから、和・漢・洋ではなく、和漢・洋と二項対立的に捉える方がより正確である。彼と漢文世界との関わりについての実証的伝記学的記述には意外な誤りが訂正されないまま現在に至るなどしており(2)、徹底した再検討が必要だが、本稿でわれわれは、石川とキリスト教との関係について検討したいと思う。石川と西欧との関係については、フランス象徴主義及びアナーキズムが取り上げられることが多かったが(3)、これらと比較したとき、キリスト教との関係についての検討ははなはだ不充分と思われるからである。

    二

 石川とキリスト教との関係について考えるとき、フランスのカトリック詩人、劇作家、外交官のポール・クローデル(一八六八―一九五五)との出会いを見逃すわけにはいかない。明治維新の年に生まれたクローデルは、マラルメの弟子でもあるが、オーギュスト・ロダンの愛人となった彫刻家カミーユ・クローデルの弟であり、姉のジャポニズムの影響から日本に対する関心が深かった。外交官となった彼は、中国大使を経て、一九二一年五十三歳から一九二七年五十九歳まで駐日大使を務めた。石川の青春時代、すなわち二十二歳から二十八歳までの間とその時期は重なる。 我が国における関心の持たれ方は、明治の終わりから大正はじめにかけて、上田敏が訳詩上の理論的関心からクローデルに接近した程度であったが、クローデルが駐日大使として来日するとの報道が一九二一年一月になされると、四日後には読売新聞に「新仏大使は詩人ク氏」と報じられ、来日するまでの間に、各紙の熱の籠った報道によって「詩人大使」に対する期待が高められていた。同時に、彼の作品の翻訳や批評も相次ぐようになっていた(4)。後にクローデルはアインシュタイン来日時の日本人の熱狂ぶりについて「日本人は何らかの理由で今日脚光を浴びている人たちに対しては、まるで子供のような好奇心を示す」(5)と記したが、クローデルの来日に対する日本人の熱気には、第一次世界大戦で戦勝国となり、何とか五大国の一員となりおおせた自国を理解し、西欧社会に日本のすばらしさを伝えてほしいという思いもあり格別のものがあったのである。 そうした熱烈歓迎のムードのなかで、クローデルは一九二二年十一月に来日した。もっとも彼は十二年間に及ぶ中国での外交官時代に、一か月の休暇を日本で過ごしており、二度目の来日であった。一八九八年三十歳で果たした一度目の来日のときに、クローデルはマラルメの弟子、そしてカトリック信徒の詩人として啓示的な体験をしている(6)。 来日して二か月後の一九二二年一月十五日、上野精養軒で在京フランス研究団体主催による歓迎会が行われた。石川はこれに出席し、クローデルの講演「フランス文学について」を聴いた(7)。また十二月二日に明治会館で行われたシャルル=ルイ・フィリップに関する講演会も聴いている(8)。 翌年親仏文芸会が編集した記念誌に二十三歳の石川は「ポオル・クロオデルの立場」という文章を書いている(9)。ここで彼は二十三歳のクローデル、「黄金の頭」を世に問うたばかりの「無名の青年作家」、「官界に於いても、第一歩を踏み出したに過ぎなかつた」クローデルの根底に流れるカトリック精神について語り始める。そしてクローデルの「東方所観」「五大讃歌」に言及した後、難解といわれる「作詩論」(詩法)の名高い《万物共―生(コネサンス)》論に言及している(10)。石川が実に丹念にクローデルの作品を読んでいることがうかがわれるが、ここで彼はクローデルの根底に触れることの重要性を指摘している。クローデルは「信仰の明るみの中に居る」。そして「光の外は闇である」。石川はジャック・リヴィエールの「クロオデルの基督教の信仰に従はなければ、最早虚無に走るより外為方がない」という言葉を引き、この文章を「クロオデルか虚無か。――これがわれ〱に残された問題である。(終)」という文章で結んでいる。「虚無」とはニヒリズムのことであり、無神論的アナーキズムのことでもあろう。この文章の中で、石川は精養軒の講演でクローデルが「民衆の為」ではなく「民衆それ自身の立場に」在ってものをいう文学者であるとの言葉を聞いたことを悦びと記している。ここには東京外国語学校在学中から彼が傾斜していた社会主義思想への共感がうかがわれる。 それにしても、末尾の文は、彼がカトリシズムと無神論的アナーキズムの間で思想的葛藤に陥っているようすがうかがわれて興味深い。キリスト教もアナーキズムも和漢・洋の洋のコンテクスト内にあり、その中で対抗的なものなのだが、当時の石川がカトリシズムとアナーキズムを絶対的な二者択一として捉えていた事実は、それだけ両者のもつ引力が強かったことを証しているといってよいだろう。キリスト教は、アナーキズムと共に、若き石川淳においては思想的問題だったのである。 また、注目すべきは、この文章のなかで、石川が「われ〱の眼に映ずるクロオデルは「父」の姿である。」と記している事実である。クローデルを父のように仰ぎ見たのが当時の多くの日本人でもあったことは疑いないが、ここでは筆者石川のまなざしと捉えてよいだろう。石川の実父は政財界に進んだ人であり、文学の世界に進んだ石川にしてみれば、理想の父親像とするにはふさわしくなかったものと考えられる。カトリック精神と文学が一体となったこのフランスの詩人外交官は、若き石川淳にとって、象徴的な「父親」の役割を果たしたといえるのである。石川は、クローデルが日本から次の任地アメリカへと旅立つまで、東京にいる「父」の存在を意識し続けることになる。

    三

  一九二四年に石川は開校二年目の福岡高等学校(現九州大学)のフランス語教師となる。石川はすでにクローデルの友人アンドレ・ジイドの『背徳者』を訳了していたが、赴任直前に「但以理奇蹟解」という文章を発表している(11)。短いが見過ごすことのできない文章である。これは旧約聖書の黙示文学ダニエル書に見られる奇蹟について論究したもので、石川は内村鑑三の研究も参考にしながら、ダニエルが何故獅子に食われなかったかを考察している。石川は仮説を三つ挙げ、一つずつ消去し、第三の仮説を結論とする。それはダニエルを、神でも天使でもなく、第三者の「人間」が護ったというものである。「奇蹟は人間に依つて行はれたのである」。「奇蹟は場合に応じて性質を異にすべきものではない。これよりして、すべての奇蹟は人間に依つて行はれると云ふことが出来る。」「私は論理に忠実であることに依つて、聖書より出発して無神論に到達したのである」。このような強引な理屈を無理矢理につけることで、石川は「ポオル・クロオデルの立場」で自ら提起した問題「クロオデルか虚無か」に後者(ニヒリズム即無神論)を選択するという結論を出したのである。 ところが、興味をそそられることに、福岡に赴任すると、そこで石川はカトリック教会のジョリー神父と同僚になる。「無神論者」石川は教会にも足を運んでジョリー神父と交際するようになり、彼を通してエミール・ラゲ神父とも交際を持つこととなった。知られるように、ラゲ神父は日本カトリック教会の標準訳として長く使われた文語訳新約聖書を一九一〇年に公刊した人である。授業ではクローデルの旧友ロマン・ロランの非戦論やフランス語訳共産党宣言などを用いた石川だが、このときに聖書という書物ではなく、生きたフランス人神父を通してカトリック精神と触れた事実をわれわれは軽く見ることはできない。(12) また、これまで全く注目されたことがないが、この年の十一月二十日、クローデルが十五日間の九州旅行の途次、通訳を務めたジョリー神父とともに福岡高等学校を訪れている(13)。いわば「父」が九州までわざわざ訪ねてきたのである。九州は遠隔地なので東京在住の大使がわざわざ行くことがないので、クローデルは敢て足を運んだのであった。石川もさぞかし驚いたことと思う。しかし当時の石川は、キリスト教よりも社会主義思想に強く引かれるものを感じていた。九州帝国大学経済学部に入学するという考えを同僚に打ち明け、やめておけと助言されたりしている(14)。マルクス主義経済学者になるという思いも当時の彼の胸に兆すことがあったのである。「クロオデルか虚無か」という問いは「キリスト教・文学」対「社会主義・経済学」として石川の内面にせめぎ合っていたと考えてよい。実際、この時期に創作はないのである。 とはいえ、石川は福岡高等学校講師時代に「新フランス評論」を購読していた(15)。ヴァレリーやクローデルと同じくマラルメの弟子であったジイドの『贋金づくり』の一部をそこで石川は読んでいた。ジイドは創作上の方法論に自覚的な小説家であったが、さりとて主題よりも方法を重視した作家であったはいえない。主題はもとより重要であった。そしてその主題はキリスト教と人間という自然との葛藤であった。石川淳はキリスト教徒ではない。けれども、カトリック神父と交際していた石川が、ジイドをキリスト教抜きで受容したとは考えにくいのである。 われわれが特に注意すべきは、石川とキリスト教との関わりが、聖書中心ではなくクローデルから始まり、フランス人神父を通したカトリック教会との関わりであった事実である。「われわれのはうではクローデルさんの信仰を生活に於てつかまへることがむつかしい。われわれが聖書を読むのは、じつは自分で再編集する聖書物語を読んでゐるやうなものさ。聖書はいいと、判りきつたことをいふ。それが自分の恣意の解釈に感心してゐるのかも知れないのだから、判らないはなしだよ。」(16)という言葉は、フランス人神父と親しく交際した結果もたらされた認識である。ここで示されている聖書の自由解釈に関する疑問は、明らかに、それを認めないカトリック教会の立場からのものである。 さて、福岡高等学校着任の翌一九二五年、治安維持法が成立し、文部省による高等学校の社会主義研究会に対する圧力も強くなる。それに伴い生徒による抵抗も強まったが、石川は生徒たちを教唆したとの理由で学校側から辞職を勧告されてしまう。石川は二学期で休職し、翌年三月に辞職に追い込まれる。東京のクローデルも、この時期の文部省の抑圧的な政策について「共産主義を広めたくないという本来の目的とは逆の結果を生んで」おり、共産主義の「研究は禁じられるべきものではありません。」と本国に報告している(17)。世の中にも大きな動きがあった。大正が終わり、昭和に改元された。芥川龍之介が自殺した。そして一九二七年二月、ポール・クローデルも五年間の任期を終え、横浜港から次の任地アメリカへと去っていったのである。左翼活動にも挫折し、カトリック精神からは離れて行き、石川は精神的彷徨の季節を迎えることとなるのである。

     四  

 やがて立ち直った石川は、ジイド『法王庁の抜け穴』や『背徳者』などを訳出するなどフランス文学者として活動を再開し、創作も再開する。一九三七年三十八歳の時に「普賢」で第四回芥川龍之介賞を受賞する。 われわれが興味をそそられるのは、太平洋戦争中は「江戸に留学」(18)をして過ごした石川が、戦後に「聖書もの」の短篇小説を次々と発表した事実である(19)。これらの作品にはキリスト教のイメージや伝説が重要な役割を果たしている。それらは江戸文学による「見立て」の素材として用いられており、実際のキリスト教とは無縁であるというのが通説である(20)。しかし、石川本人はこれを主張したことがない点には注意するべきだろう。素直に読めば、敢てキリスト教と無関係とする必要がないと考えられる作品もある。その一つが「かよひ小町」である。  「かよひ小町」は、以下のような小説である。主人公である語り手は、ある夜、たまたま目についた若い芸者に心惹かれ、彼女と同じ切符を買って電車に乗る。彼女が電車を降りると自分も降り、彼女が入っていった料理屋に自分も入っていく。金を稼ぐために書いた本の原稿料が入った封筒を店の者に渡し、その芸者を呼ぶようにいう。二人は一夜を共にするが、眠っている女の胸元から腋にかけて、赤い斑点があるのを発見して主人公は驚愕する。ハンセン病の兆候に間違いないからである。主人公は、自分がとるべき道は一つしかないと考える。それはこの女と二人でカトリック信徒になり結婚するということである。翌朝結婚を申し込み、女は諾す。教会に行くために二人は電車に乗る。牧場の柵のところで、主人公は女に接吻する。…… 語り手は、自分を「極めつきの俗物だから、体裁を作ることは大好物」と認めているが、「聖心の信仰といふやつは、よつぽどの俗物でなくては編み出せるものではない。」とも考えている。言葉の表面的な浅薄さとうらはらに、ここには信仰に対する真面目な思索があるといってよい。この主人公は、カトリックについての深い知識と教会関係者との関わりがあるふうに設定されている。それがわかるのは、「かつて熊本の、また富士の裾野の癩病院をおとづれたとき、そこで見た人間の肉体の、生きながらくさりはじめてゐる……」という描写から、主人公がハンセン病療養所を訪問したことがあることが明らかにされているからである。作品には具体的な言及はないが、「熊本の(癩病院)」とは、カトリック神父ジャン・マリー・コールが創設したハンセン病療養所待労院のことであり、「富士の裾野の癩病院」とは、カトリック司祭岩下壮一が院長を務めた神山復生病院のことである(21)。特別な関心を持たなければ、一般の社会人が敢えてハンセン病療養所を訪問することはあり得ない。「焼跡のイエス」と同様、主人公は何かのきっかけがあれば教会の信徒となるところまで来ていた人物なのである。従来の作品解釈において、この点は見落とされている。ところで、この主人公はなぜプロテスタント教会ではなくカトリック教会に行こうとするのだろうか。この主人公が教権を承認しているからである。司祭職により洗礼の秘蹟を受け、結婚の秘蹟を受けることの意味を彼は理解している。また、カトリック教会が説くように、パンと葡萄酒がキリストの体と血に霊的次元で実体変化することを認めている。プロテスタント教会は、パンと葡萄酒を、それこそ「単なる象徴」と見るのだが、この物語の主人公はそうは見ないのである。カトリック信徒には制約が多いが「すでにカトリックに帰依するときめたうへは、すこしぐらゐの不便は我慢しなくてはならない。いや、我慢の困難のといふのではなくて、窮屈が自由でしかないやうなぐあひに、不便が便利でしかないやうなぐあひに、生活をあたらしく組み上げなくてはならない。」と彼は考える。要するに、この作品ではカトリック教会との出会いが描かれているのである。地上の教会を通してキリストの命に与ることで肉体を伴った復活を遂げることを主人公は願う。聖書の信仰のみでは救われないとする認識がここには示されている。  イエスとの出会いを描いたとも読める「焼跡のイエス」と「かよひ小町」とは主題的に連続しており、前者の延長線上に後者があることが理解される。そして両者にはイエスから教会へという変化がある。前者では敗戦直後の秩序なき混沌世界に生きる主人公の彷徨える生を破るものとしてイエスとの出会いが描かれていたが、具体的な「わたし」の救済という主題は表だっては扱われていなかった。それが後者では語り手が女と二人でカトリック教会という地上の共同体に帰依するという具体的方途が描かれたのである。 プロテスタント神学者北森嘉蔵は「聖書もの」全般を、あざとい作品として否定的にしか評価していないが、「かよひ小町」についてだけは「最高傑作」「一級品」「技巧主義的戯作者というそしりから免れている」「名品」と絶賛している(22)。それは「ここに登場する神は単なる意匠ではない。石川淳自身が救われたいと思って発している悲痛な声だ」と北森が考えるからである。従来の定説からは許容できない見解といわねばならない。しかし「かよひ小町」を先入観なく虚心に読み、作中のキリスト教の表象を実際のキリスト教と結びつけて受け取る限りにおいて、作者の「悲痛な声」を作品の背後から聴きとることは充分可能であり、またそのような解釈を採ることにより作品の価値が減じることはいささかもない。この作品の「カトリック」を現実のカトリック教会と結びつけず、一つの「象徴」ととらえる論者は「もし必要とあらば、石川淳氏は作中人物をカトリックではなくコミュニスムに「帰依」させて、ぜんぜん別の『かよひ小町』を書いたかもしれないのである。」(23)と述べるが、現実にはキリスト教の表象を用いた作品しか石川は残していない以上、遺憾ながらこの言葉は意味をなさないといわねばならない。石川はこの作品において「コミュニスム」でなく「カトリック」を選択したのである。 クローデルが日本を去った後も長く日本に対する関心を失わず、アメリカ軍による原子爆弾投下と日本の降伏に際して痛切なエッセイ「さらば日本」をフィガロ紙に寄稿したように(24)、石川淳もまたカトリックに対する関心を失わずにいたと考えられる。

    五

  石川淳のキリスト教理解は通り一遍なものではない。「キリスト」と「イエス」、「牧師」と「司祭」の区別。マリア信仰への理解などは当然として、注目すべきはカトリック教会における司祭職に関する理解である。それは「かよひ小町」に端的に表れている。語り手がハンセン病の女との結婚を決意するところだが、「いかなる偽善者のワイセツきはまる司祭にしろ、主のみこころならば、そいつのうすぎたない手からありがたく洗礼を受け、そいつの愚劣退屈な説教をつつしんで聴聞しなくてはならない。」とある。ここで石川は、秘蹟の効力がそれを授ける司祭職の個々の人格の高低には一切左右されないというカトリック教会の考えを語っている(25)。司祭職の役割と人格との関係については、公教要理を学ばなければ普通は知ることがない。石川がキリスト教、なかんずくカトリック教会について、知識の上でという限定を加えても、かなり深い理解をしていたことがうかがわれよう。 戦争中「江戸に留学」をしていた石川が、敗戦直後からにわかに「聖書もの」を書くことができたのも、われわれが見てきたように、若い時期にカトリック教会と生きた人間を通した接点があったからである。そもそも石川が「聖書もの」で聖書から引いてくる話も、日本人一般が常識的に知っているものばかりではない。このように考えてくると、生前の石川が「葬式無用、墓不要、骨は海に撒け」(26)と言い、長年連れ添った夫人の目に「生涯無宗教を通し」たように映ったことは事実だとしても、彼とキリスト教との関係は、軽視することのできないものがあったと考えざるを得ない。事実、「聖書もの」時代は数年間で幕を閉じたとはいえ、『至福千年』(一九六七年)『天馬賦』(一九六九年)などから明らかなように、石川のカトリック教会への知的関心はその後も失われることがなかったのである。


〔註〕

(1)石川淳は昌平坂学問所の儒官であった祖父省齋石川介から論語の素読を受けたが、夫人の回想によれば、彼が自分の子供に熱心に教えたのは論語の素読ではなくフランス語だった。息子が小学校四年生になると、石川は毎日二時間フランス語を教えた(石川活『晴のち曇、所により大雨 回想の石川淳』筑摩書房、一九九三年、八二―八五頁)。なお、加藤弘一氏の証言によれば、活夫人は夫の死後、カトリック信徒になっている。興味深い事実である(http://www.horagai.com/www/jun/iku.htm)。加藤氏は『石川淳 コスモスの知慧』(筑摩書房、一九九四年)以来、一貫して石川における儒学(朱子学)の重要性を主張しているが、他の研究者によって議論が深められているとは言い難い。

(2)『新潮日本文学アルバム 石川淳』(新潮社、一九九五年)で評伝を執筆した鈴木貞美氏は同書十一頁で《明治四十四年四月、本郷東竹町(現文京区本郷一丁目)の私立京華中学校に入学、市電で通学した。/やはり京華中学に進んだ高橋邦太郎と一緒に「友朋堂文庫」「帝国文庫」、「国訳漢文大系」や頼山陽「日本楽府」など和漢の古典や江戸文学、また漱石「吾輩は猫である」、「倫敦塔」などに親しみ(以下略)》と記している。周知のとおり『国訳漢文大成』という叢書はあるが、『国訳漢文大系』という書物はない。渡辺喜一郎氏の『石川淳研究』(明治書院、一九八七年)二五頁に《石川は、高橋と共に影響し合いながら、読書に耽る。『即興詩人』(大正三年、春陽堂縮刷合本)『諸国物語』(大正四年、国民文庫刊行会)の鷗外訳本、「有朋堂文庫」、「帝国文庫」の古典、江戸文学、他に「国訳漢文大系」、頼山陽の『日本楽府』などが二人の共通の愛読書であった。》という記述があるので、鈴木氏は渡辺氏の記述をそのまま踏襲したものと考えられる。しかしながら『国訳漢文大系』ならぬ『国訳漢文大成』(国民文庫刊行会、文学部全二十巻、続文学部全二十四巻、経子史部全二十巻、続経子史部全二十四巻)は石川が東京外国語学校を卒業後の大正十年代に刊行された叢書であるから、中学時代の石川が読むことはあり得ないのである。

(3)フランス象徴主義と石川淳との関係について論じられているのは確かだが、マラルメ及び彼の理知的な側面を引き継いだヴァレリーとの関係については盛んに論じられている一方、マラルメの神秘主義的思考を引き継いだクローデルとの関係については、不思議なことに無視といってよいほど論じられてきていない。検証が必要である。

(4)大出敦「「クロオデルには桂を捧げよ」大正期のポール・クローデル」(『三田文學』第八四巻第八三号、二〇〇五年十一月)及び同氏「報道に見るクローデル」(『日本におけるポール・クローデル クローデルの滞日年譜』クレス出版、二〇一〇年所収。以下『日本におけるポール・クローデル』と略記)参照。

(5)ポール・クローデル『孤独な帝国 日本の一九二〇年代 ポール・クローデル外交書簡一九二一―二七』奈良道子訳、草思社、一九九九年、四四六頁から再引用。以下『孤独な帝国』と略記。

(6)クローデルの中にいかに多くのマラルメが流れ込んでいるかについては、大久保喬樹『見出された「日本」 ロチからレヴィ=ストロースまで』平凡社、二〇〇一年、六五―一一二頁を参照されたい。

(7)この歓迎会の詳細については前掲『日本におけるポール・クローデル』三八頁の脚註を参照のこと。

(8)前掲渡辺喜一郎『石川淳研究』三二―三三頁。渡辺氏によれば前掲『新潮日本文学アルバム 石川淳』十九頁に掲載されている写真はこの時のもの。中央で腰掛けるクローデルの後方に若き石川淳が写っている。石川には「シャルル・ルイ・フィリップの一語」(『日本詩人』一九二一年十二月号がある。

(9)『石川淳全集』第十二巻二二―二九頁(以下、全集十二、二九頁というように略記)

(10)《万物共―生(コネサンス)》とは、中條忍氏の的確な説明によれば「万物にはそれぞれ過剰な部分と不足する部分があり、それが万物の個性となっているが、万物はそうした過不足をたがいに補い合い、共に生まれ、共に存在し、見事な調和を生み出している、というクローデル独自の理論」である(前掲『日本におけるポール・クローデル』四二七頁)。なお、「詩法」は筑摩世界文学大系『クローデル/ヴァレリー』(筑摩書房、一九七六年)に齋藤磯雄の全訳があるが、渡辺守章『ポール・クローデル 劇的想像力の世界』(中央公論社、一九七五年)四八〇頁、及び前掲大久保喬樹『見出された「日本」 ロチからレヴィ=ストロースまで』八一頁に引かれた第一部『時間の認識』の部分訳を比較するだけでも、齋藤訳には意味のとりにくい箇所があることがうかがわれる。

(11)全集十二、五八―六三頁。

(12)石川淳は、福岡高等学校講師時代「学校へ行く以外にわたしが家の外に出たのは主として丸善へ行くことと天神町の教会にフランス人の神父を訪れることであつた」と記している(「福岡の思出」全集十二、五九一頁)。また「わたしは信者ではなかつたが、ジョリイ神父の年少の友人として、教会にはよく出入してゐた。」とも述べ、ラゲ神父については「決してクリスチャンではないわたしがうつかりフランスの小説のはなしなどをすると、師は空耳をつかつて聞かざるがごとく、数珠を爪ぐりながら天の一方を仰いでゐた。その代り天草の古い殉教者のことに談が及ぶと、師は瞼にいつぱい涙をたたへて、「トレ、フィデエル、トレ、フィデエル」(信仰深き、はなはだ信仰ふかき)と繰りかへしてためいきをついた。」と書いている。石川はラゲ神父が離日する際には教会で会食をしている(「ラゲエ神父」全集十二、三七五―三七六頁)。

(13)前掲『日本におけるポール・クローデル』二八七頁。クローデルは福岡高等学校を訪問した後に九州帝国大学を訪れている。二人の日本人フランス語教師と会い、彼らがかなりよく話せると記しているが、石川と面会の機会があったかどうかは未詳である(前掲『孤独な帝国』三一八―三一九頁)。

(14)前掲渡辺喜一郎『石川淳伝』六頁。

(15)野口武彦氏は『石川淳論』(筑摩書房、一九六九年)四八頁で福岡高校在任中の石川が「新フランス評論」を「東京の丸善から取り寄せて」と記しているが、これは一九一三年に開店した丸善福岡支店の誤りである。瑣末な点ではあるが伝記学的考証上正確を期すために記す。

(16)全集十三、一六九頁。

(17)前掲『孤独な帝国』三九九―四〇七頁。

(18)全集十三、一六五頁。

(19)「聖書もの」とは、「黄金伝説」(一九四六年三月『中央公論』)「焼跡のイエス」(同年十月『新潮』)「燃える棘」(同年十二月『別冊文藝春秋』)「雅歌」(同年同月『新生』)「かよひ小町」(一九四七年一月『中央公論』)「雪のイヴ」(同年六月『別冊文藝春秋』))「処女懐胎」(同年九月―十二月『人間』)「最後の晩餐」(一九四八年九月『文藝春秋』)の八作である。

(20)前掲野口武彦『石川淳論』、立石伯『石川淳論』(オリジン出版センター、一九九〇年、一二九―一五〇頁)、井澤義雄『石川淳の小説』(岩波書店、一九九二年、一一四―一四七頁)などを参照されたい。

(21)参考ながら、クローデルは、福岡高等学校を訪問した二日後に待労院を訪れている(前掲『日本におけるポール・クローデル』二八八頁)。興味深いのは、ハンセン病療養所訪問について、「日記には〈体の変形〉を目にしたときの大使の衝撃が記されているが、外交書簡にはイギリス・プロテスタント系の〈ハンセン病療養施設〉との規模の比較が書かれており、詩作品では信仰の問題が扱われている」という事実である(前掲『孤独な帝国』十一頁)。クローデルは単なる外交官でもなければ、単なる詩人・劇作家、カトリック信徒でもなかったのである。

(22)北森嘉蔵『愁いなき神』講談社学術文庫、一九九一年、二六七―二八五頁。

(23)前掲野口武彦『石川淳論』二五七頁。野口氏は別の文章でも「カトリックへの回心が一編(「かよひ小町」のこと、引用者註)の主題なのではない。」(『昭和文学全集』第十五巻、講談社、一九八七年、一〇二六頁)としている。

(24)クローデルは一九四五年八月七日の日記に米英の学者が原子爆弾を日本で実験してしまったと記し、同月十五日には「日本降伏」とだけ記した。そして同月二十五日に「さらば日本」を「フィガロ」に送った(ポール・クローデル『天皇国見聞記』樋口裕一訳、新人物往来社、一九八九年、一七九頁)。

(25)カトリック司祭岩下壮一は『信仰の遺産』(岩波書店、一九四一年、二二二頁)で「施行者の道徳的高下は、秘蹟の効果とは無関係である。此問題は前述せる如く紀元三世紀に異端者の授けた洗礼や品級の効果に就て論じられ、施行者の異端は秘蹟の効果には無関係であるとの正統説が全教会によつて承認された。(中略)万一秘蹟の効果が施行者の道徳性に依存するならば、これを受くる者は、絶えず施行者の品性を吟味せねばならず、聖者と見ゆる者が内心悪魔であつたり、罪人が実は義人であつたりする世の中では、秘蹟の信用は全く地に堕ちざるを得ないであらう。」と記している。つまりカトリック教会は教理神学上「人効論」ではなく「事効論」を主張するのである。これは第二ヴァチカン公会議以後も同様である。

(26)前掲石川活『晴のち曇、所により大雨 回想の石川淳』三五頁。


*初出:「キリスト教文学研究」29号、2012年(原題「石川淳とキリスト教に関する管見」)  

 一九九八年に『評伝鷲巣繁男』を小沢書店から刊行したとき、多田智満子先生が「三田文學」に書評を書いてくださった。そのタイトルが「詩人の曳く影の深さ」というものだった(『十五歳の桃源郷』人文書院所収)。

 このタイトルが、もしかするとダンテ『神曲』煉獄篇第二二歌の一節と関係があるのかもしれないと思ったのは、十年が経過し、多田先生もすでに泉下の人となって久しい今日の午後のことだ。

 ダンテはいう、「先に立って進む二詩人のあとに、ひとり孤影を曳く私は、二詩人の語らいに耳傾けたが、詩作に関し、啓発されるところ頗る多かった。」と。(集英社文庫版二八六頁)

 註を参照すると、訳者である壽岳文章は、まず「影は生者のしるし。」とし、またこの件りを「詩篇一一九の一三〇、「みことばの戸が開くと光さしこみ、おろかな者をもさとからしめる」を踏まえた表現。」とする。

 考えすぎかもしれない。けれども、多田先生は、このタイトルで、ダンテにもウエルギリウスにも通暁していたダニール鷲巣繁男への敬意も込めて、この詩人がまだわたしどもの心のうちに影を曳いて「生きている」ことを暗示しようとしたのではなかろうか。


*初出:「神谷光信のブログ」(2011年2月23日) 

 二〇〇一年九月一一日、ニューヨークの世界貿易センタービルに大型旅客機が二機激突して爆発炎上した。世界中を震撼させた同時多発テロ事件である。この直後に、世間の「空気」の変わり易さというものをひしひしと感じたのはわたしだけではあるまい。乱気流を描いて急激に変化する世間の「空気」――そこから人々を覚醒させるべき知識人の役割というものを、わたしは改めて考えさせられた。

 アメリカ合衆国のブッシュ大統領は、世界の全ての国は、われわれの側につくのか、テロリストの側につくのかの決断に迫られているという意味の言葉を述べた。二者択一を迫るこのような思考法に、いち早く疑問を呈したのは、管見の限りではカトリック作家の加賀乙彦氏であった。「ヤー」か「ナイン」かを迫る国家的言説は、政治的言語としては何時の時代にもあるありふれたものなのかもしれないが、これがドイツ第三帝国全体を支配していた言説であることをわたしは思わずにはいられない。

 アメリカ合衆国のイラク攻撃に、ドイツのシュレーダー首相は不参加を表明した。このことに関連して、ドイツの閣僚がブッシュ大統領の政策をアドルフ・ヒトラーのそれになぞらえたことを、ナチス研究で名高い宮田光雄氏が採り上げている(「政治指導者と言語」『図書』二〇〇二年一二月号)。宮田氏は、両者の比較が荒唐無稽なものではないと述べる。その上で、「断固たる口調や簡潔に言い切ってみせるスタイルが新鮮な印象を与え、大衆的人気を呼んだ」小泉純一郎首相についても同じ傾向を看取している。「圧倒的な経済力とネットワークとにもとづく少数の大放送局や大新聞が、その巨大な世界的影響力を行使して戦争と報復とを信じ込ませようと躍起になっている」と記す宮田氏は、「こうした明白なデマゴギーの横行する時代のなかで、しかし、希望がまったくないわけではない」と続け、リンカーンの言葉を引用している。すなわち「少数の人間を永遠に騙すことはできる。多数の人間を一時騙すこともできる。しかし、多数の人間を永久に騙すことはできない」。

 ナチスの時代にわれわれの眼差しを向けさせようとするのは、イタリア文学者の河島英昭氏も同じである。「図書」で連載中の「イタリア・ユダヤ人の風景」、その一二月号で、河島氏は「アルデアティーネの虐殺」を詳述している。ナチスはここの洞窟で三三五人のイタリア人とユダヤ人を殺したのだ。処刑の際、一人の年少の中尉が撃つことを拒んだ。上官であるSSの中佐は、この部下を優しく諭し、彼の腰に手を回して跪く者の前まで進み、並んで撃った。また、処刑を進めるうちに、隊員たちが次第に打ちひしがれていった。すると、先の中佐は処刑を一端中止させ、「部下を励ますために」コニャックを回しのみさせた。大方の歴史記述では省略されてしまうこうした事件の細部を、河島氏は事細かに記述している。そして河島氏は問う、「処刑を拒む者は処刑される」軍隊という組織において「上官の命令に従うかぎり、兵卒は自己の責任を回避できよう。しかし殺人を犯した瞬間に、彼は非人間へ転落するはずでもある。/このように、人間と非人間とのあいだにある、根本的な矛盾と欺瞞とを、どうすれば、兵は免れるのであろうか」と。

 ふたりの知識人の文章には、「テロとの戦い」が声高に叫ばれる現代日本の言論空間にに対する強い危機意識がうかがわれる。

 戦慄すべき同時多発テロ事件以来、しばらくの間、わたしは自分が二つの世界に引き裂かれていることを痛切に感じた。ひとつは、幼い長男と二人で絵本を夢中になって読み耽っているときの「神話的時間」(鶴見俊輔)であり、もうひとつは、殺戮が行われ続けている地上の「歴史的時間」である。一九三九年、第二次世界大戦勃発時、片山敏彦の長男治彦は三歳、長女梨枝子は二歳。片山もまた子供達と絵本を読んだことであろう。生活のなかの「神話的時間」と「歴史的時間」を、彼はどのように折り合わせていたのだろうか。もしかすると、現実世界が悲惨であればあるほど、芸術の世界が、より一層親密なものとなったのではあるまいかとわたしは想像する。なぜならば、同時多発テロ事件直後、逃げ込むようにして訪れた町田市の国際版画美術館に陳列された作品たちや、深更にひもとく画集の中の絵画たちが、これまでに経験したことのない異様な美しさで迫ってくるのをわたしは驚きとともに感じていたからである。

 片山敏彦(一八九八―一九六一)は、ロマン・ロランやリルケなど、仏独文学の翻訳者として名高い。けれども、その人間像は、いまだ充分には知られていないのではないだろうか。「たしかに人生には或るミスチックなディメンジョンがある。そこに生きる事は本当に人生を生きることであろう」と若き日の日記(一九二八年一二月九日)に記し、最晩年にも「感覚世界が/唯一の世界ではあるまい。」とノートに書き付けた(一九六一年六月一二日)この人は、何よりも神秘主義的な詩人であった。そして、何よりも理想主義者であった。

 美学者高橋巖氏は『ヨーロッパの闇と光』(イザラ書房)のなかで、若い頃に親炙した片山敏彦に触れ、次のような内容を記している。理想主義の理論的弱点を最もよく知っている者は理想主義者自身である。にもかかわらず、理想主義を主張しようとせざるを得ないとき、彼は概念的思考以外の思考を見出そうとするしかない。敏彦の場合、それは詩的ヴィジョンの営みとして見出されていた。そしてそれを支えていたのが、ヨーロッパの神智学(神秘学)的伝統に対する理解の深さであった――。  神秘学ならぬ神秘主義は、何よりも実践的な「道」の世界であるから、概念的思考が意味を失うところから出発する。それは「生きられた思想」として捉えられなければ意味がない。近代的実証主義は、研究者が研究対象と同一の精神を持つことを要求しないが、それでは神秘家の内実に迫ることはできない。だから、やはり若き日に片山敏彦に親炙したフランス文学者清水茂氏は、『地下の聖堂 詩人片山敏彦』(小沢書店)において、いわゆる客観的な作家論や作品論という研究方法を採らず、師である片山と己の魂の照応を語る手法を採用しているのである。

 わたしの目下の関心は、神秘主義的詩人片山敏彦が、危機の時代――すなわち戦争の時代に、国家権力による取り込みや、周囲の「世間」の同調圧力と、どのような姿勢で向き合ったかということである。それは現代にも通じる問題だと信ずるからだ。


*初出:『片山敏彦 夢想と戦慄』マイブックル、2013年

【附記】この文章は二〇〇二年十二月に書かれた。二〇〇三年三月、アメリカ合衆国を中心とする多国籍軍が軍事介入し、イラク戦争が始まった。ドイツ、フランスはこれに参加しなかった。  

 須賀敦子が、ラジオの対談でウオーについて語っていたのを思い出した。対談者はフォースター研究者小野寺健氏である(「ドラマで聞くイギリス現代小説」ラジオ第二放送、一九九四年一月一日~三日『須賀敦子全集』別巻所収)。以下に、私が興味を引かれた須賀の言葉を拾っておくこととしよう。

「この人のカトリシズムというのは、私は非常にわかりにくいんですね。」「というのは、グレアム・グリーンとかモーリアックの場合は、人間の個人の魂の問題といういことを非常に言うわけなんですけれども、この人のは、カトリック教会、ローマン・カトリックというものが残した文化について、非常につついていく。その文化とは何かというと、おそらくかなり貴族的な文化につながっているんじゃないかということで(中略)この人のカトリシズムというのは面白いことを考えていて、信仰そのものよりも、むしろ信仰者の社会的な面というんですか、そういうものをかなり皮肉っているんじゃないかということと、(後略)」

「モーリヤックだとかグレアム・グリーンというのは、信仰の中核みたいなところ、神と個人の関係というのか、神と個人の対話ということを非常に気にして書いているわけですね。この人のは、そういうものがない。神と個人の対話というのは、カトリックの中では非常にプロテスタント的なテーマなわけです。ところがこの人は、むしろ綿々と続いてきた俗悪な部分のあるカトリシズムというものを大事にしたいというところじゃないかと思うんです。」

「若い時というのは、神との対話というようなことは非常に気になるわけですけれども、こういうふうに文化の中のカトリック、それからやはり何か大きな枠組みとしてのカトリックというようなものを扱っているというのは、面白いというのではないんですけれど、かなり気になる視点だと思うんです。」

「ウォーの信仰にロマンティシズムというものがどこかにある。だけれども、それを自分で少しずつ殺していくようなところもあるんじゃないでしょうか。」

「私は、現在のカトリックというものが、これからどういう風になっていくかというのはさっぱりわからないのですけれども、少なくとも五〇年代、六〇年代ぐらいまでは、カトリックとプロテスタントの違いの一つは、形のあるものに対するおそれがカトリックにはないわけですね。プロテスタントはどこかで、形があると、それは罪につながるんじゃないかというおそれを抱いている。(中略)二つのヨーロッパの中の対極になっていて、私はその二つの要素が混じりあって戦って削りあって、というようなのが面白くて仕方がないんです。」

「(『ブライズヘッド再訪』は)すべてが信仰に結びついていくあたりは、なにかすごく古臭いような気がしました。」

「私は現代社会というのは、私たちにはとてももう対抗できない。何か強い、おそろしい力みたいなものがあって、その前でみんな、昔アフリカの奥地に一人で迷い込んでしまった白人というような事態になっているんじゃないか、という気がするんですね。ですから、自分でこれからどういうふうに考えていけばいいかわからないという時代のほうが私には親近感が持てて、信仰にもどったからそれで解決がつくというようなものじゃない、というふうに考えてしまうんです。」

「イヴリン・ウォーというのは、なにか非常にねじれてはいるんですけれども、問題の中心みたいなものをどこかでとらえている。」

「ただ、この人の信仰に対する考え方というのは、私にはよくわからないのです。それがイギリスのカトリックと大陸のカトリックの違いかもしれないですけれどもね。イギリスというのは常に、英国国教会に対する一つのアンチテーゼとしての信仰ということがある。日本のカトリックもそういう傾向になるのですけれども、アンチテーゼじゃだめなので、そういうところが弱みじゃないかと思うんです。」


*初出:「神谷光信のブログ」(二〇〇八年三月十四日)  

 書肆山田から著者代送とスタンプの押された分厚い箱が届いた。中を開けると、志村正雄先生がお訳しになったジェイムズ・メリルの『ページェントの台本』上下であった。上下合わせて六九〇頁ある。スケールで測ったら厚さが六・五センチあった。

 志村正雄先生とは十七年ほど前にささやかなご縁があり知遇を得た。今回のご本の解説のなかで、志村先生は、ご自身がメリルの本を神田の古本屋で三度続けて買ったことに触れ、「私は何かメリルに縁があるのかなと思いました。世の中に偶然はないというのがメリルのユング的な考え方ですから、やはり何かツナガリがあったのでしょう。」と記しておられる。私と志村先生とも「何かツナガリがあった」のであろう。

 それ以後、ピンチョンやガートルート・スタインなど、新刊が出るごとに次々に送って下さり、こちらはぽつりぽつりと拙い書物をお送りするという具合になっている。

 さっそくお礼状をしたためねばと思ったが、考え直してお電話をおかけすることにした。ハローと出られたご家族が「ミスター・カミヤ」と取り次ぐ声が聞こえ、お元気そうな先生の声が受話器の向こうから聞こえてきた。志村先生も今年は七九歳になられるのだ。御礼を申し上げると、笑いながら、全部読まなくてもいいですよ、とおっしゃる。ガートルード・スタインのことや、文芸出版の難しい現状などについてしばらくお話して電話を切った。

 メリルは標準的なプロテスタントの家庭に生まれたということだが、志村先生は解説のなかで、この人が「多神教的で、ちょっと日本の集合型の宗教感覚に近いものをもっているのです。」と指摘し「ここまで集合宗教的なものを基盤にした文学作品はこれ以前の米国のWASPにはなかったのではないでしょうか。」と記しておられる。

 興味津々の書物である。


*初出:「神谷光信のブログ」(二〇〇八年五月二八日) 

 イギリスの批評家ロバート・リデルの『カヴァフィス 詩と生涯』(みすず書房)が刊行された。四百ページの大著である。訳者名に中井久夫先生と並んで茂木政敏さんの名前があり、嬉しい驚きがあった。

 茂木さんは、一九七一年群馬県にお生まれになり、神戸にある英知大学フランス文学科を卒業された方である。わたしは数年前に「同時代」の集いで茂木さんから話しかけられ、知遇を得た。茂木さんは、英知大学で教鞭をとられていた多田智満子先生の教え子であり、わたしが「三田文學」に書いた「薔薇宇宙の彼方へ――多田智満子論」を読んでくださっていたのである。

 茂木さんと話し込む中で、多田先生が教師として厳しい一面もお持ちであったことを知った。でも、これは褒めてくださいました、といって、茂木さんは、マルグリット・ユルスナール「コンスタンディノス・カヴァフィス/批評的紹介」(「言語文化研究」第九号、二〇〇二年抜刷)を手渡してくださった。表紙を開くと、「本翻訳のきっかけを与えた山口喜雄様へ。退官された加藤智満子教授へ。感謝を込めて、訳者」と献辞があった。

 訳註も含めて五六頁の訳業である。ユルスナールはかなり邦訳されているけれども、彼女のカヴァフィス論(これはカヴァフィスのフランス訳詩集の序文として書かれたものである)は、茂木さんの訳以外にはないのではなかろうか。ユルスナールといえば、彼女が小説中の人物名などを見返しに記した特装版『ハドリアヌス帝の回想』を神戸の多田邸で見せていただいたことなどが思い出され、茂木さんと二人で多田先生の思い出を語り合ったのである。

 現代ギリシア詩については、中井久夫先生の翻訳や、ヘルソネス書房(大宮市)に相談して入手した対訳本などで親しんだ程度である。鷲巣繁男が、英訳でよいから読めとどこかで書いていたことによる。だが、カヴァフィスについては、ロレンス・ダレル『アレクサンドリア・クアルテット』を翻訳で読んだ十代の頃から、独特の光に包まれた詩人として気にかかる存在であったのだ。

 茂木さんとはその後会っていないが、こんな素晴らしいお仕事をこつこつとしておられたのだなあと、嬉しい気持ちでいっぱいである。


*初出:「神谷光信のブログ」(二〇〇八年三月五日)  

 八年前(二〇〇〇年)の秋になる。四谷のサレジオ修道会日本管区長館で行われた吉満義彦忌に出席して一、二週間後、会の関係者からお電話を頂戴した。岩下壮一の遺品を確認しにカトリック関口教会に参りますのでよろしかったらどうぞとのお誘いであった。

 当日は数名が集まった。数十冊に及ぶ学生時代のノートや全く色褪せていない留学の辞令、ロザリオや数々の写真、聖フィリッポ尞の記録簿など、半世紀以上を隔てて眼前に並べられる資料の数々に目を瞠りながら、わたしどもは時が経つのを忘れて岩下壮一について語り合ったのだった。

 岩下壮一は、昭和戦前期のカトリック界を代表する人物として名高い。一八八九年、実業家の長男として東京に生まれた岩下は、暁星、一高を経て、東京帝国大学哲学科で和辻哲郎、九鬼周造と机を並べた。ケーベルの指導を受け、首席で卒業するが、公費留学が自分の将来を帝大教授に限定することと、自分が恵まれすぎているという認識から、鹿児島の七高教授として五年間を過ごした。その後、文部省在外研究留学生という名目で、ヨーロッパに私費留学した。フランス、ベルギー、イギリス、イタリアなどで修学した岩下は、一九二五年、驚くべきことに「宣教師」として帰国する。一般司祭のようには教区を預からず、一高、東大の学生への指導並びに旺盛な言論活動の展開によって、我が国の知識階層にキリスト教カトリシズムの存在を示した。五年後の一九三〇年には、父が経営を引き継いでいたハンセン病療養施設、神山復生病院長に就任した。一九四〇年、興亜院(中国大陸での占領地に対する政策・開発事業を統一指揮した国家機関)からの重ねての依頼を受け入れ、中国カトリック教会の状況視察に赴いた結果、健康を著しく損ね、帰国後に腹膜炎で急逝した。五十一歳だった。

 岩下壮一について考えるとき、いつも思い浮かべるエピソードがある。それは神山復生病院事務長を戦後務めた田代安子の回想のなかにあるものだ。岩下が院長に就任する数年前のこと、聖心女子学院の教師だった田代は、岩下が行っていたカトリック信者対象の夏期講習に参加した。最終日に神山復生病院を慰問のために訪れた際、ハンセン病患者の痛ましい姿に驚き、誰もが涙を流したが、田代だけは涙が出なかった。それに気づいた岩下は、「あなたは心が冷たくていい。私と同じだ」とそっと言ったというのである(1)。

 岩下が透徹した「知」の人であったことは、『信仰の遺産』などを一瞥すればたちどころに理解されようが、その彼自身が自らを「心が冷たい」と認識したきっかけは何であったのか。岩下も田代と同じ体験を持っていたのではあるまいか。そしてこの自覚があればこそ、ハンセン病患者に献身することができたように思う。

 それにしても、初の日本人東京大司教を嘱望されるほどの人物であった岩下が、なぜハンセン病院長という後半生を選んだのであろうか。直接的には、父親が背任横領事件で有罪判決を受けた事実を重く受け止め、「一身をなげうって進んで、その罪を償いたい」(葬儀の際の会葬者への喪主挨拶中の言葉)と考えたことが挙げられる。それが「神の一使徒」たる自分の召命であると認めたと解することは不自然ではない。聖フィリッポに倣ったとする見解も傾聴に値する(2)。ある講演中に岩下が用いた「皇太后様の御命令によって私は仕事をやっている」という表現に着目し、〈換言すれば、岩下の「救癩」事業は、「神」の召命というよりは「皇太后様」のそれということになろう。〉とする見解もある(3)。しかし「命令」は「命令」であり「召命」とは意味を異にする別語であるゆえ、岩下のこの言葉は、彼が自らの仕事を神の召命と認識していた可能性を排除するものではないだろう。

 もっとも「権威」を重んじ、「分際」に敏感であった岩下が、皇室に対して敬意を抱いていたことは確かである。とりわけ「救癩」事業に積極的であった皇太后に対しては、立場は違えど理想を分かち合う人間同士として、心中では個人的共感を抱いていたように思われる。院長就任三年後の五月、皇太后が沼津御用邸に滞在することを知った岩下は、地元警察を通さず御用邸関係者に直接掛け合い、病院近くの踏切で患者たちが奉迎することの許可を得る。当日、列車が通過する瞬間に、皇太后が車窓に起立しているのを岩下は見る。岩下はこのできごとを大仰な筆致で書き記しているが、戦前期に皇室について書く際に配慮が必要であったことを忘れてはならない。車中で起立する皇太后と雨中に直立する岩下壮一は、その瞬間、お互いの存在をそれぞれの「分際」から社会的に許容されるギリギリの場で承認し合ったとわたしは解釈する。

 院長就任後、初めて迎えた真冬のある夜、院長室の石炭ストーブの脇で哲学書を紐解こうとしていた岩下は、ある女性患者の状態が急変したことを知らされる。蝋燭を手にして病室へ駆けつけた岩下は、死の瀬戸際で苦しむ患者の姿に激しく動揺し、院長室に戻ってからも、一晩中、身悶えするがごとき苦しみを味わった。「私はその晩、プラトンもアリストテレスもヘーゲルも皆、ストーブの中へ叩き込んで焼いてしまいたかった。」(4)と岩下は記している。「心が冷たい」岩下が、自らの「感情」についてこのように生々しく記した文章は、管見の限りこれ以外には存在しない。

 岩下は院長として病院改革を推進した。大規模な改築並びに新築を行って諸設備を整えることはもちろんだが、図書室を設けて蔵書を充実させ、一流の俳人歌人を院内文芸の選者に依頼し、野球が思い切りできるようバックネットを作るなど、多岐にわたる改革を次々に計画実行した。患者たちに対しても、自立心を育成する方針を採った。

 そうした努力にもかかわらず、一九四〇年二月、患者の自治組織名で、岩下に対する「批判と不満」が文書で提出される。患者たちの「分際」を超えたふるまいに岩下は動揺した。それはあってはならないことであった。文書が患者全員の総意であることを確認した岩下は、「きみたちは、ぼくの気持がわからんのか」と吐き出すようにいった(5)。これを契機に岩下は院長の職を退くが、辞める直前には「自分は患者の気持が分からなかった」と率直に認めていた。患者たちの大胆な行動は、実は岩下自身が「庇護」から「自立支援」へと方向転換したことがもたらした当然の結果にほかならなかったのだが、それを岩下は理解できなかったのである(6)。

 院長を辞めたこの年、岩下は不可解なほどにあっけなく亡くなる。興亜院から中国カトリック教会の状況視察を依頼されたとき、岩下はこれを断った。重ねての依頼に承諾するが、旅費を自分で出すことを条件とした。若き日に私費で留学したように、国家と自分との関係に一線を画すことに、彼は生涯こだわった。彼はカトリック界の指導者という己の歴史的役割についてきわめて自覚的であり、国家間の戦争で否応なしに浮き彫りになる天皇制国家体制とキリスト教の立場についても論理的整合性を徹底的に追求し、どちらにも解釈できるような韜晦を自らに許すことがなかった。

 旅先で不調を訴えた岩下は、帰国後神山復生病院へたどり着くと、そのまま病床に伏すこととなった。二か月後、患者たちが祈りの歌を合唱するなか、岩下壮一は息を引き取った。亡骸は東京へと運ばれ、盛大な葬儀が営まれる。世間から排除されたハンセン病患者たちの世界から、世をときめく貴人たちの世界へと岩下壮一が連れ去られていく情景を、重兼芳子の伝記小説はよく描いている(7)。

 カトリック司祭岩下壮一のプロテスタント教会への対決的姿勢についても記しておきたい。第二ヴァチカン公会議以前の思想家として当然のことながら、岩下壮一は、個人的交友は別として、思想的にはプロテスタント教会に対して、さながら火花を散らすような対決的態度を貫いている。教会合同についても、教権を認めないプロテスタント教会に「妥協の握手を差し延ばすことはできない」(8)と言い切っている。

 これは時代錯誤の言葉だろうか。そうではあるまい。妥協はできないとする潔癖な姿勢を繰り返し確認することは、対話を腐敗から護るために現在でも必要なことであろう。その意味でも、岩下壮一はきわめて今日的な思想家と呼ばれるべきである。

 ハンセン病院長としての生身の岩下壮一は、懐かしい記憶として、身近で接した多くの人々の胸の中に生き続け、やがて静かに消えていくだろう。しかし、彼の著作は時空を超え、今ここに存在する。それを紐解く者は、そこに記された文章それ自体が、岩下壮一の伝説化を拒んでいることに気がつかざるを得ない。

 岩下壮一の著作は数少ない。晩年の岩下は、まだ真に書くべき書物を自分は書いていないと考えていたようだ。五十一歳という享年は、当時でも若すぎるといってよい。彼が胸中に抱いたであろう無念の思いは理解することができる。しかし、彼が著した書物は、時の風化に抗い、現在も不滅の価値を有しているといって過言ではない。

 岩下は、同時代の人々、とりわけ学生や知識層に向けて執筆していたが、同時に、未来の読者をも強く意識していたように思われてならない。岩下の書く文章は、論理的骨格が確かで、どの一節を読んでも明晰である。曖昧模糊とした箇所は皆無といってよい。その意味で、彼が堪能だったヨーロッパの諸言語への翻訳も容易との印象を与える。彼はまた、伝えるべきことを正確に伝えるため、さまざまな修辞を駆使することのできる人であった。死すべき人間にとって、著作だけは時空を超えていくことができると彼は理解していたに違いない。

 岩下壮一は、大学生を指導したり病院内で患者に公教要理を教えたりはしたが、個人的な布教活動をしなかった。真理であるが故にキリスト教カトリシズムの信仰を持つと断言した岩下壮一は、執筆活動にコミットすることによって、未来の日本人にも福音を伝えようとしたのだとわたしは思っている。


【註】

1 田代安子『鎌倉の海』中央出版社、一九七七年、八三頁。

2 モニック原山『続キリストに倣いて』學苑社、一九九三年、八八頁。

3 荒井英子『ハンセン病とキリスト教』岩波書店、一九九六年、二三頁。

4 小林珍雄『岩下神父の生涯(復刻版)』大空社、一九八八年、二九五頁。

5 小坂井澄『人間の分際』聖母の騎士舎、二〇〇七年、五四〇頁。

6 輪倉一広「岩下壮一の救癩思想―指導性とその限界」(『「社会福祉学』四四―一、二二頁)参照。

7 重兼芳子『闇をてらす足おと――岩下壮一と神山復生病院物語』春秋社、一九八六年。

8 岩下壮一『信仰の遺産』岩波書店、一九四一年、一一五頁。 


*初出:『説教黙想 アレテイア』60号、2008年4月

 川又一英の仕事は、わが国によく知られているとはいえない東方キリスト教世界に関わるものであった。スラブ文献学や歴史学の専門家による研究がないわけではない。しかし、川又は、研究室での史料操作よりは、現地に足を運び、自らの目と耳でその世界を理解しようとする姿勢を貫いた。驚きと感動を生き生きと伝える川又の文章は、われわれを魅了した。川又は大学でロシア文学を専攻したが、二十代の終わりにインドを起点とする旅に出たときに、半ば偶然からアトス山を訪れたことが、その後深く東方キリスト教世界に入っていくきっかけとなったという。幸福なことに、川又は知識からではなく体験から「聖なる世界」へと入っていったのである。『ニコライの塔』でわが国の女性イコン画家の生涯を描いた川又は、その後『聖山アトス』や『イヴァン雷帝』など、余人の追随し難い作品を上梓している。旅を重ねるごとに思索は深まりを増し、自身もギリシア正教に入信することとなるが、これは作家としての成熟をさらに促し、著作活動は旺盛となった。近年もビザンティン方面の力作を次々に世に問うていたので、突然の訃報にわれわれは愕然としたのである。

『エチオピアのキリスト教 思索の旅』(山川出版社、二〇〇五年)は、没後に書斎から発見された遺稿である。それにしても、川又一英の最後の仕事が、なぜエチオピアのキリスト教だったのであろうか。

 近代日本とキリスト教とのかかわりをふりかってみよう。明治大正と、キリスト教といえばプロテスタントをさしていたが、昭和に入り、岩下壮一、吉満義彦らの登場とともにカトリックが思想界に出現する。そして昭和の後半になると、新旧約聖書外典や使徒教父文書、古代教父などが原典から続々と翻訳され始める。それと並行するように、東方キリスト教の世界が美術史などの分野から人々の注目を集めるようになっていく。やがて平成に入ると、第一次資料の翻訳と研究はグノーシス文書にまで及ぶようになってきた。こうした知的環境の変化は、キリスト教に関するわれわれの認識も変えてきた。プロテスタンティズムを「近代」と同一視した結果、暗黒の時代とされた「中世」は、カトリシズムを通して光輝に満ちた世界へと認識が改められたし、ギリシア正教を見出すことによって、宗教改革を体験しないもうひとつのキリスト教世界へとわれわれの視野は拡大した。さらにグノーシス思想を知ることによって、初期教会が教義確立のために苦悩した「古代」にまで、ようやくわれわれの眼差しは届くようになったのである。

 長いあいだ、初代教会とグノーシスとの思想闘争の実態について、われわれは無知であったし、三位一体論とキリスト論という根本教義確立のために教会が費やした論議さえ、不毛で煩瑣な議論と見なされることが少なくなかった。それらは遠い過去のできごとにすぎないと思われていたのである。しかし、たとえば、キリストは、神が人間になったのか、それとも人間が神となったのか。このような問題は、歴史的主題であると同時に、今日でもキリスト教に真摯に向き合う際に誰もが直面する実存的主題であろう。この問題は、本書でも言及されているカルケドン公会議の争点であった。

 キリストの神性と人性のうち、人性を否定したとして、すでにコンスタンティノポリス公会議において異端とされたアポリナリオスがいた。だが、エフェソス公会議においては、マリアを「テオトコス(神の母)」ではなく「クリストトコス(キリストの母)」と呼ぶべきと主張したネストリウスが、今度は人性を重視したかどで異端と断罪されていたのである。カルケドン公会議では、キリストにおける両性の関係を「混ざらず、変わらず、分かれず、離れない」と規定した。これにより、はげしく動揺していたキリスト論は一応の完成を見たわけだが、キリストの両性のうち、人性については、これを永遠に存続するものではないと考え、異端宣告を不服とするコプト教会、シリア教会は離脱し、単性論派教会として独自の道を歩むこととなる。十一世紀の大シスマ(東西教会分裂)以前に、このような深刻なシスマがあったのである。そしてエチオピア教会もまた、歴代の大主教をアレクサンドリア総主教が任命するコプト人とするなど、コプト教会の従属的立場にあったことから、カルケドン公会議以後は単性論派教会として存続していったのである。

 川又は特に記していないが、エチオピアのレィトルギアでは、驚くべきことに、三世紀にローマのヒッポリュトスが著した最古のミサ式文「使徒のアナフォラ(奉献文)」が現在でも用いられ、使徒時代のミサ典礼を今日に伝えているという。エチオピア典礼は、アレクサンドリア総主教区から発生したエジプト典礼に由来している。そもそもギリシア語で行われたこの典礼はビザンティン典礼へと大きく繋がっていくのだが、コプト語を用いるコプト典礼、ゲエズ語を用いるエチオピア典礼へと枝分かれしていったのである。エチオピアでは、コプト教会と同様、終始キリストに祈りを向ける「グレゴリオスのアナフォラ」が用いられるが、キリストと父神との区別が曖昧なこのフォアグラに単性論の影響を認める学者もいるのである。またエチオピアでは「乙女マリアのフォアグラ」も用いられるが、これもキリストの神性重視で高まったテオトコスへの崇敬と見ることができるという。典礼は教義と切り離すことができないのである。

 一昔前までならば、以上のような学術的記述が一般読書人の知的関心をひくことはできなかったであろう。東方キリスト教が「もうひとつのキリスト教」であったとするならば、単性論派教会であり、古代ユダヤ教の影響も色濃いエチオピア教会は「さらにもうひとつのキリスト教」といってよい。だがそれをエキゾチズムを超えた問題意識でとらえることが、今日の日本人ならば可能であると川又は考えたのではないだろうか。

 冒頭にも述べたが、川又は、宗教を外側から客観的に観察することと引き替えに生き生きした力を喪失する実証主義的方法よりは、自ら主体となり神聖空間を体感しようとした。「聖なるもの」は単なる「知識」ではないからである。考えてみれば、「単性論説」という言葉を知識として得てたとしても、それがこの「わたし」の実存変容と何の関係があるというのだろうか。『エチオピアのキリスト教 思索の旅』で、川又がカルケドン公会議についても、単性論説についても筆をやや抑えている理由は、一歩間違えれば砂を噛むような空虚な記述となることを懼れたのかもしれない。

 実際のところ、わたしが記したエチオピア教会に関する記述は、川又がベト・マリアム教会で降誕祭に参列したときの美しい描写を前にすると、たちまち色褪せてしまうのである。

《私も周囲の者にならって、おそるおそる縁に腰を下ろす。夜明けを前にしたこの時刻、頭上には変わらず星が瞬き、星の光が周囲の男たち女たちの白衣と褐色の肌を照らし出していた。/手を押し当ててみると、岩は星の輝き同様、研ぎ澄まされたように冷たかったが、そのなかにもかすかに昼のぬくもりをとどめていた。ラリベラの巨大な岩盤は、陽光に灼かれ、月の光に冷やされ、呼吸をしてきたのである。》

 一部分の抜粋ではなかなか理解しにくいとは思うが、「夜の高貴」に包まれつつ、歴史的なもの――そしてそこには運命的なものが含まれている――に接近していく川又の魂のおののきが行間から伝わってくる。少なくとも、文章の格調の高さが、川又の著作に文学作品としての風格を与え、単なるルポルタージュと一線を画するものとしていることは理解していただけるであろう。 川又が聖パンタレウオン修道院で見た光景も印象深い。その修道院では、先進国ならば美術館のケースに収納されるような福音書の古写本――それは本文が見事な挿絵に彩られている――が、日々のレィトルギアで用いられていた。福音書とは、本来、聖堂のなかで「朽ちるまで用いられ、生命を終える」べきものであったのである。

 福音書といえば、エチオピア教会が定める聖書は、われわれが思い浮かべる聖書とは異なっている。そこには旧約聖書外典の「エノク書」や使徒教父文書の「ヘルマスの牧者」などが含まれているのである。ちなみに「エノク書」が完本として現存するのはゲエズ語写本のみである。また「ヤコブ原福音書」「パウロ黙示録」「ペテロ黙示録」などの新約聖書外典にもゲエズ語の写本が現存するが、「ペテロ黙示録」の最良の写本はゲエズ語によるものという。

 しかし、くりかえしになるが、このような歴史的知識よりも、川又の生彩に富んだ記述の方が、信仰とは何かについて深くわれわれを考えさせることは確かなのである。

 旧約聖書にある「契約の櫃」の伝説追跡が本書のモチーフとなっているが、川又の追究は、歴史的事実の探究から出発して、最後には伝承のもつ象徴的力能に逢着しているといってよい。タボット(「神の箱」)を教会の至聖所に置くというエチオピア教会の方法は、シリア、アルメニア、コプト教会にも見られない独自のものであるという。エチオピアの人々がタボットに対して抱く畏れ――そこには、信仰を根底から支えるものとして、事実の次元を超えた「伝承」が重く深く潜んでいるのである。

 そもそも川又がエチオピア教会に興味を抱いた直接のきっかけは、歌舞を伴うレィトルギアであった。本書冒頭でベツレヘム降誕教会聖堂での体験が語られていたので、わたしは何とか川又の追体験ができないものかと思った。実はグラムフォンに一枚のディスクがある。ここには、ベツレヘム降誕教会聖堂の鐘の音から始まり、ギリシア正教会、エチオピア教会、アルメニア教会、コプト教会、シリア教会などの聖歌が収録されているので、早速聴いてみたのである。

 だが、ディスクを聴いて、川又の追体験など到底不可能であることに否応なく気づかされた。わたしが書斎で深夜耳を傾けるエチオピア教会の聖歌と、川又が現地の教会で神聖空間に参入し、全身で聴いた一回限りの聖歌とは、全く異質な「音楽」であったといわざるを得ない。要するに、わたしの聴くエチオピア聖歌は、畢竟《美術館のケースに収納された福音書》のごときものに止まるのである。

「伝承」に話を戻そう。コプト教会、シリア教会の典礼聖歌と同じく、エチオピアのそれも、口伝により受け継がれてきたものであった(コプト教会の場合は、わが国の盲僧琵琶のように、盲目の歌唱者が口伝してきたのだという)。身体的記憶に頼る伝承は、描かれたり記載されたものと違って破壊されることがない。近代の科学的実証主義は記憶よりも記録を重んじ、テキスト解読一辺倒に陥りがちだが、「聖なる世界」においては、記録以上に記憶が大きな働きを果たすのである。この点も川又が本書で伝えたかったことであろう。……

 最後に個人的な感慨を書き記すことを許していただきたい。ささやかな手紙のやりとりはあったが、お目にかかったことはなかった。NHKの「こころの時代」に出演された姿を拝見したが、繊細な印象を受けた。ヴァイオリンをたしなまれたと聞くが、鋭敏な感性の方であったに違いない。

 筆一本で生きておられたが、「作家」という肩書きを使い始めたのは晩年になってからであった。「新潮」に発表された文章を纏めた『甦るイコン』は、原稿枚数的にはささやかながら重厚な文学作品である。小説・紀行・評論といった安易な区分を拒否するテクストで、著者自身が歴史的なものを通して運命的なものに肉薄しようとする姿勢が行間から強く伝わってくる。彼は作家としての自覚をこの著作で一層深めたのではないだろうか。先蹤なき世界を歩んでこられた川又一英氏には、カトリック作家小川国夫やギリシア正教徒詩人鷲巣繁男とは持ち味の違う、独自のキリスト教作家として、これからたくさんの仕事をしていただきたかった。それを思うと、失われたものの大きさが改めて胸に迫り、いたたまれないような、こころの置きどころのなさを覚える。

 しかし、永遠の眠りにつくことによって、シメオン川又一英は、われわれに「聖なるもの」を巡る思索の旅の行く末をゆだねた、と受けとめるべきなのであろう。


*初出:川又一英『エチオピアのキリスト教 思索の旅』山川出版社、二〇〇五年九月

 パレスチナ問題に関連する小説を、遠藤は『死海のほとり』を刊行した二年後に書いている。長編小説『砂の城』(主婦の友社、一九七六年)である。本節ではこの作品を取り上げて考察する。 この小説は、一九七五年八月から月刊誌『主婦の友』に一年間連載された。一九七九年には新潮文庫にも収録されている。この時期の遠藤の状況をふりかえると、一九七三年に『死海のほとり』を書下ろし作品として上梓した後、『遠藤周作文庫』(講談社)全五五巻の刊行が一九七四年から始まり、また、第一次『遠藤周作文学全集』(新潮社)全一一巻の刊行も一九七五年から始まるなど、五〇代に入って、それまでの仕事を集大成する時期に当たっていた。

『砂の城』は、いわゆる純文学系列の作品とは見なされてこなかったため、『遠藤周作文学全集』(新潮社)には、旧版でも新版でも収録されておらず、大衆小説も収録する方針で編まれた『遠藤周作文庫』(講談社)にも、おそらく刊行年の関係から未収録である。海外への翻訳もない。武田友寿による新潮文庫版の巻末解説がある以外には、学術的な研究も行われていない。しかしながら、この作品は、江戸幕府による苛酷なキリシタン弾圧を象徴する「島原の乱」と、イスラエル建国がもたらしたパレスチナ問題とを連結させるという驚くべき内容を持っているため、見過ごすことができないものである。いわゆる「団塊の世代」の青春を描いたこの小説は、さきに取りあげた『死海のほとり』と関連付けて読まれるべき作品なのである。

 長崎市からバスで一時間足らず町に暮らす早良泰子は、電気器具店を営む家の一人娘である。父親は中国大陸での戦場体験を持つ人で、母親は泰子が四歳のときに亡くなっている。一六歳の誕生日に、泰子は父親から一通の手紙を受け取る。亡くなる一週間前に、母親が、一六歳の誕生日が来たら泰子に渡すよう夫に頼んでいたのだった。手紙には、自分が一六歳だったころの戦争中の青春が書かれていた。恩智勝之という大学生と訪れた、宝塚の奥にある渓流の静けさと、そこで彼が言った「負けちゃだめだよ。うつくしいものは必ず消えないんだから」という言葉を母は忘れることができなかったという。学徒動員で入営した恩智が、朝鮮を経由して満州の関東軍に編入されたことは、戦後にわかった。ソヴィエト連邦の捕虜収容所にいた彼が復員したのは一九四八年の春だった。恩智が上京した半年後に母は泰子の父になる男性と見合結婚した。「この世のなかには人が何と言おうと、美しいもの、けだかいものがあって、母さんのような時代に生きた者にはそれが生きる上でどんなに尊いかが、しみじみとわかったのです。あなたはこれから、どのような人生を送るかしれませんが、その美しいものと、けだかいものへの憧れだけは失わないでほしいの」と手紙は結ばれていた。

 高校を卒業した泰子は、長崎にある短期大学英文科に進学した。友人水谷トシも同じ短大の家政科に進学した。N大学の男子学生と合同で年一回行われる英語劇に参加することになった泰子は、島原出身の純朴な学生西宗弘と親しくなる。トシと島原を日帰りで案内されたとき、二人は、星野恒夫という西の高校時代の友人に紹介された。英語劇の練習を通して、泰子の先輩で才色兼備の向坊陽子は、N大の秀才田崎と交際するようになった。トシもまた、星野と密かに交際するようになる。星野が神戸に転勤すれば、短大を辞めてついていくとトシは泰子に打ち明ける。上京してスチュワーデス(客室乗務員)になると、陽子は卒業式で泰子に告げた。トシも家出同然で神戸に出奔した。二回生になると、泰子は、陽子が東京でプラスチック工場の事務員をしているという話を聞き訝しむ。陽子が交際していた田崎が過激派に入り、警察に二回逮捕されたという話も聞いた。西の消息も不明だった。

 その年の暮れ、泰子は全日空の客室乗務員採用試験に合格した。偶然都内で再会した元N大の学生から、西が過激派で活動しているという話を泰子は聞く。長崎への帰路、神戸のトシを訪ねた泰子は、汚いアパートでの淋しい暮らしぶりに驚く。信用金庫勤めだが、働かない星野から離れられないのだ。 国際線の客室乗務員になった泰子は、パリで偶然、恩智勝之と巡り合う。今でも独身の彼は、インドのニュー・デリーにある国際救癩本部で働いているという。一方、トシは星野の頼みを断れず、勤務先から大金を横領するが、監査で発覚して星野とともに逮捕される。面会に行った泰子に、トシは、自分の生きかたを後悔していない、憐れまないで欲しいと語って泰子を驚かせた。

 ある日、羽田空港から南回りでロンドンに向かう定期便が、ハイジャックされる。乗務員として搭乗していた泰子は、犯人グループのなかに西がいることに衝撃を受ける。彼は大学卒業後、田崎や向坊と行動をともにしていたのだった。ニュー・デリー空港に緊急着陸したあと、交渉の結果、乗員乗客全員が解放され、代わりに日本から移送された犯人グループの仲間と、人質役の日本大使館員、そしてインドの国会議員が乗り込んだ。飛行機の下に隠れていたインド軍兵士が、出口に現れた西を狙撃するとともに、飛行機内に催涙弾を投げ込み、事件は解決する。泰子は事件を聞きつけて現れた恩智と再会し、「美しいものと善いものに絶望しないでください」と告げられる。

 小説中に登場するハイジャック事件にはモデルがある。一九七三年七月に起きたドバイ日航機ハイジャック事件がそれである。日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の合同による、パリ発羽田行便のハイジャック事件で、乗っ取られた日航機は、アラブ首長国連邦のドバイ空港に着陸した。犯人グループは、日本国内に拘留されている日本赤軍二名の釈放を要求したが果たせず、シリアのダマスカス空港で給油をしたあと、リビアのべニア空港に着陸。乗員乗客を解放後、機体を爆破してリビア政府に投降し、その後国外に逃亡した。事件の首謀格であった日本赤軍の丸岡修(一九五〇―二〇一一)は、その後一九八七年に都内で逮捕され、二〇一一年に医療刑務所で死亡したが、事件後の詳細は、本作品を理解する上では不必要なため省略する。

 武田友寿は、遠藤文学の先駆的な研究を行った文芸評論家の一人である(1)。彼は、遠藤の「軽小説群」は、「しばしば世人の耳目に鮮明に記憶されている世間を騒がせた事件を使う」と述べ、作品中のハイジャック事件が「日航ハイジャック事件(連合赤軍事件犯人および連続爆弾事件犯人の釈放要求事件)を連想させる事件」であると指摘している(2)。武田の事件理解は必ずしも誤りとはいえないが、日本の国内問題としてのみ事件を捉えており、ハイジャック行為がパレスチナ解放運動と連動している点を見落としている。そればかりではない。武田は「ここに展開される小説世界についても、大学生活や社会生活といった平凡なもので、詐欺、横領、ハイジャック、就職、恋愛などなど、現代風俗の反映であって、この作家の硬小説の主題や材料とはおよそ別種のものである」と述べている(3)。詐欺、横領、就職、恋愛とハイジャックを同列に捉えているのは、武田が中東の国際政治に暗く、ドバイ日航機ハイジャック事件が持つ国際政治上の意味について「現代風俗」としてしか理解できなかったからと考えるほかない。『砂の城』の主題が、「硬文学」すなわち純文学系の作品と別種であるという見解にも、後段で述べる理由から、同意することはできない。

 小嶋洋輔は、遠藤の中間小説(非純文学系作品)が、これまで学術的な研究対象として扱われてこなかったことを問題視しており、その問題意識を私は支持する者である。彼は「読者との共通のコードとして実際に世間を騒がせた事件を作品中に描き入れることも、遠藤の「中間小説」に見られる特徴である」と捉えた上で、武田同様、「一九七五年の『砂の城』(「主婦の友」)は、過激派グループの一員である西が国際線をハイジャックする場面が作品のクライマックスを担っている。この背景には、一九七三年の日航ジャンボ機ハイジャック事件が直接にはあると考えられる。着陸した場所が『砂の城』ではインドであり、実際のリビアとは異なるが、犯人グループの編成や、その事件の顛末は類似している」と指摘している(4)。小嶋は「こうした実際の事件を、小説作品の舞台とすることでもまた、芸能人、著名人の名前を作品に描くのと同じ機能を持つといえよう。読者は他の場所、例えばテレビニュースや週刊誌の記事で手に入れた情報を、遠藤作品のなかに見つけることにより、その虚構としての新情報を入手してゆくのである。極言すれば、他の情報と並置される日常の一側面としての小説の機能を、遠藤「中間小説」は意図的に目指していたともいえる」と主張しているが、同意できない。現実に起きた事件を作品中に取り込んだことは、読者との距離を近づけるための「共通のコード」として、芸能人や著名人の名前を作中に取り入れることと同様の意図によるものとは考えられないからである。

「犯人グループの編成や、その事件の顛末は類似している」と小嶋は述べており、それはそのとおりではあるものの、表面的な捉え方といわざるをえない。作者は現実の事件からパレスチナ解放運動に関する要素を周到に削ぎ落しているので、そこに意図された遠藤の狙いをこそわれわれは探らねばならないのである。 なお、トシが行う公金横領も、連載開始の前月である一九七五年七月に発覚した足利銀行詐欺横領事件が下敷きになっていると考えられるが、本稿では論点をハイジャック事件に限りたい。

 西宗弘は、島原で文具店を経営する家に生まれた。父親が死に、家業を継いだ兄が学資を出してくれたおかげで、一家で初めて大学に進学できたという設定である。泰子が進学する短大が、活水女子短期大学(現活水女子大学)を思わせる浩水女子短大と表記されているのに対し、西が在籍する大学は、「N大」とイニシャル表記されている。長崎大学を連想させるが、イニシャルにしたのは、西らをハイジャック犯とするための配慮であると考えられる。夏季休業中には、長崎近郊の漁港で漁師に交じってアルバイトをしていた(5)。飾るところがなく、純朴な青年として造形されている。 泰子らを島原に案内する場面で、美しい景観に見とれる泰子らに、西はキリシタン弾圧の歴史を話題にし、「明治大正になっても天草の女たちは人買いに買われてこの口之津から船に乗せられ、ニューギニヤやジャワに連れていかれたもん」という。

《「ほんと?」

 「ほんとさ、あんたたちゃ無邪気すぎるよ。いつの時代も弱か者は虐げられるとたい」

 「西さんは」 トシはびっくりしたように、「左翼?」

 「左翼じゃなか。しかしぼくも現代の学生じゃから革命に関心があるなあ」(6)》

 このような会話のあと、西、泰子、トシの三人は原城跡を訪れる。そこでの会話はこうである。

《「島原にはその首塚のあるとぞ。ここで殺された三万の農民の男女は長崎、天草、島原に埋められたばってん」

 西はこわごわその空濠を覗きこむトシと泰子とのうしろに立って説明した。

 「よう、知っとらすね、西さんは」

 「小学校の時も中学の時も、遠足と言えばここに連れられていたもん。それに、ぼくの祖先もあるいはここで死んだかもしれんし……」

 「ほんと」

 「か、どうかは知らん。でも、ぼくの体内には島 原の一揆の連中の血が流れとるかもしれんよ。少なくとも彼等が一揆ば起したそげん心情はわかる気がする」(7)》

 英語劇の練習のあと、泰子と入った書店で、西はゲバラの『メキシコ革命の記録』を購入する。サマセット・モームの小説を探していた泰子が「そげん本ば西さん、好き?」と訊ねると、「わからんけど、心情的に合うような気がする。そいで買うたとさ」と西は応える。本屋の出がけに顔を合わせた田崎は「お前が本屋をのぞくとは珍しか。気でも狂うたか」と笑いながら言う。西は田崎のように頭脳明晰な青年ではないのである。注目すべきは、西が島原の乱を起こしたキリシタンにつながる血を自らなかに意識し、虐げられた者への心情的な共感を持つ人物として設定されていることである。西は秀才の田崎のように、政治理論への理性的納得からではなく、弱者への心情的共感から「過激派」になるのである。  英語劇の練習の合間に、田崎と西が政治的な議論を始めて、泰子ら短大生を困惑させる場面がある。

《「N大の人、いつも左翼的な話ばかりするんですか」

 と泰子が途中でとがめるように口をはさむと、「ごめん」と田崎は笑って「女の子の前でこげん話、禁物だと忘れとった。恋愛論のほうがよか」

  と言って話をはぐらかせたが彼女には二人が何 かをかくしているように思われた。(8)》

 短大を卒業後、客室乗務員となった泰子が西と再会するのは、ハイジャックされた国際線の機内だった。

《何人目かの同じようなハイジャッカーが食事にやってきた。泰子たちの場所からずっと離れた後部座 席を監視していたこの男は同じように黒い眼鏡をかけ、口髭をはやしていた。ずんぐりした体に陽にやけた横顔を見せた彼はスチュワーデスたちに、

 「迷惑かけます」 と言った。そして泰子に気がつくと、一瞬、びっくりしたように立ちどまった。(9)》

 この口髭の青年が西だった。眼鏡をとって声をかけた西に泰子は驚く。

《「なぜ」

 と泰子は小声でたずねた。

 「西さんがこげんなことを……」

 「やがて、わかるよ、ぼくらが何故、ハイジャックしたか」

 「理解できんとよ、わたしには」

 「泰子さんは何もわかっとらんとよ。わかっとらんから、ぼくらの行為も暴力沙汰に見えるとやろ」

 「でも、ピストルを持ったり、飛行機を乗っとったり……」 

 「ぼくらは今、戦いよっと、戦いよっことば知っ てほしかね。ぼくらのやっとることが暴力なら、もっと大きな暴力がベトナムなどで行われたこと、泰子さん、考えたことなかろうが」(10)》

《「その横顔をみつめながら泰子は西が変ったと思った。それはあの島原の海べりを一緒にドライブした時の西宗弘とはすっかり違っていた。茂木の港で漁師たちにまじって荷あげをしていた、真白の歯をみせて笑う昔の彼ではなかった。言葉は温和しかったが眼には言いようのない鋭い光があった」(11)》

《「悲しか」 と泰子はつぶやいた。

 「なにが」

 「だって……あの長崎で一緒だった皆が今は一人、 一人、別の方向に歩いとるでしょ。トシはあげん風になるし…… そして西さんは……わたし、西さんのこと、わからんようになった」

 「みんな、自分の情熱で生きるとね、仕方のなか」 と西はしみじみと呟いた。

 「そげんピストルば持って。昔の西さん、そうでなかった。一緒に英語劇やった時は……」

 「そうやったな、君に発音ば教えてもろうたとね。今でもあの台詞ば憶えとるよ。言うてみようか」(12)》

 この場面は、『砂の城』のなかで、おそらく最もパセティックな箇所である。具体的な台詞はここで再現されていないが、英語劇「ゴールデン・カントリー」のなかの、長崎奉行所で奉行が役人たちにキリシタンをどのように見つけ出すかを説明する場面の台詞こそが、泰子が西に発音を教えた台詞だったことに、注意深い読者は気づくであろう。遠藤には戯曲「黄金の国」(一九六六年)がある。島原の乱から二年後のキリシタン迫害を描いた作品で、『沈黙』の姉妹編といってよいものある。

『砂の城』に登場する英語劇「ゴールデン・カントリー」において、泰子は「切支丹の侍を父親に持つ雪という娘」の役になり、西は「ノロ作」という「少し頭の鈍い、人の良い百姓」の役になったと、さりげなく作者は記している。戯曲「黄金の国」の雪の父親は、信仰を捨てていない隠れキリシタンだが、かつて踏絵を踏んで「転んだ」人物として、長崎奉行所キリシタン取調の役人になっている。宣教師フェレイラを匿っているが、捕縛され穴吊にされて絶命する。雪もまた、奉行所の若い役人と恋仲となり悲劇的な最期を迎える。「のろ作(「ノロ作」ではない)」は、キリシタンたちのなかでも軽く見られるような単純素朴な青年である。このように見ると、作者遠藤が、『砂の城』の西を、江戸時代のキリシタンと同様、時の権力から執拗に迫害される側の人間として描いていることが明らかになる。

《「もう、変えられんと」

 「なにを」

 「もう一度、人生ば、やりなおすこと」

 「ぼくは信念でこればやっとるばい。やりなおす必要はなか」(13)》

「ぼくらは、そんな時代に生れたんだ」という西の悲痛な言葉を反芻する泰子は、「時代が私たちを別々の人生に歩かせたのか。ちょうど戦争が母と恩智勝之とを別れ別れにさせたように」と思う。つまり、西の登場によって、泰子の母親が生きた「戦争の時代」と現在の「平和な時代」という図式がここでは崩れ、泰子が生きる現在の「平和な時代」がそのまま「戦争の時代」であるという世界認識へと視野が塗り替えられるのである。 西はニュー・デリー空港で迷彩服を着た現地軍兵士により射殺され、解放された泰子はその瞬間を遠くから目撃することとなる。 「有色の帝国」(小熊英二)が大東亜共栄圏を掲げてアジア侵略を行っていた時代、恩智は国策に組み込まれ、国家から軍服を着せられ、銃を持たされて中国大陸に出征した。そして日本がアメリカ合衆国の「下請けの帝国」(酒井直樹)となった冷戦期、小説中にはあからさまには書かれていないものの、イスラエルの占領に抵抗するパレスチナ解放闘争に共鳴して、西は「過激派」の一兵士としてハイジャック事件を起こす。恩智は戦時下の体制下で反逆することができずに大日本帝国陸軍兵士となったが、西は国際的な非合法活動に自ら飛び込んでいったのである。

『砂の城』が連載された『主婦の友』は、石川武美(一八八七―一九六一)により一九一七年に『主婦之友』として創刊された婦人向け雑誌である。アジア太平洋戦争中も、休刊される雑誌が多いなかで発行を継続し、当時の新聞雑誌と同様に、米英を敵視して戦争を鼓吹する編集を行った。敗戦後に再出発したが、二〇〇八年に終刊した。戦時中に「新編・路傍の石」を連載していた山本有三は、内務省による圧力に抵抗して連載を中止している。戦後は三島由紀夫、瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)らがこの雑誌に小説を執筆している。羽仁もと子(一八七三―一九五七)がキリスト教思想に基づき創刊した『婦人之友』(一八九八年『家庭之友』として創刊、一九〇八年改題)よりは歴史が浅いとはいえ、大正以来の伝統を持ち、生活実用を編集方針として大衆性を持たせることにより、既存雑誌との差別化を図っていた。

 婦人雑誌は、文学好きを対象とする文芸雑誌とも、不特定多数の読者を想定する日刊新聞とも異なる媒体である。若い女性を主人公とするのは暗黙の了解といってよい。地方在住で小売業の家庭に育った女性が、地元の短期大学を卒業してナショナル・フラッグの客室乗務員として活躍するというストーリーは、当時の若い女性の憧れを誘う成功物語であった。四年制大学に進学する女性が少なくない現在とは異なり、短期大学は、高等学校を卒業した一割強の女性が進学する高等教育機関として機能していた(14)。短期大学を卒業して大企業に就職し、数年間働いて結婚を機に「寿退社」し、専業主婦となって出産するという生き方が、女性のひとつの人生行路としてあったのである。短期大学には英文科、国文科、家政科が置かれることが多かった。女性が四年制大学に進学して文学部以外の専攻に進んだり、大学院に進学することは、一般的とはいえなかったのである。ちなみに、男女を合わせた全国の高等学校進学率が九割を超えて準義務教育化されたのが一九七四年のことで、中学校を卒業した東京への集団就職列車が終了したのが一九七五年のことであった。

 このような時代背景のなかで、『主婦の友』という雑誌を舞台にして、遠藤は、単なるエンターテインメントを書こうとしたわけではなかった。一見、「いわゆる軽小説群に属する作品で青春小説といっていいもの」(武田友寿)の体裁を持ちながら、世間的な倫理観の枠組に収まらない生き方の肯定という主題を盛り込もうとしたのである。いわゆる純文学雑誌に掲載された作品ではないという先入観から、作品自体の価値を最初から割り引いて判断することは正しい研究態度ではない(16)。

 遠藤は、一九六五年、『小学館の女性月刊雑誌『マドモアゼル』に長編小説「協奏曲」を連載している。雑誌名が示すように、幻想のフランスに彩られたこの雑誌の若い女性読者のために、遠藤は主人公を若い女性雑誌編集者とした。彼女が恋愛感情を抱く既婚男性作家を追って、パリに行くという通俗的な物語であった。彼女の愛を退ける中年作家は、自分のかつての恋人で、現在はフランス大使夫人となっている人妻に会うためにパリに行くのである。この作品では、読者の憧れを誘うストーリーという点では『砂の城』と同様とはいえ、ヨーロッパは観光絵葉書と異なるところのない、ただの書き割りに過ぎない。政治的含意のないエンターテインメントである。「協奏曲」から『砂の城』までの一〇年間に、遠藤は『沈黙』を書き、『死海のほとり』を書いている。発表媒体の違いと作者の執筆姿勢の変化を両者の違いに認めることができよう。

 遠藤は、泰子に、読者が憧れを抱く生き方をさせただけではない。彼女を、恩智、トシ、西らの生き方に直面させることで、自らの生き方に対する疑問を抱かせている。国際救癩活動に人生を捧げるという、世間一般では「崇高」と看做されるであろう恩智の生き方も、彼自身に「私たちのやっていることが、果して美しいことか、善いことかは、必ずしもわかりません」(16)と作者は語らせているし、泰子にも「恩智勝之の生き方もひょっとすると、よごれたものからの逃避ではないのかという気がした」(17)と言わせているのである。ゲバラの書物を西が購入する場面があるが、医師免許を持っていたゲバラが、ペルーでハンセン病施設に自らを捧げようと一時期考えたことを思えば、恩智が西のような生き方を選択したとしても不思議ではない。つまり、西は恩智の「分身」なのである。作者は、おそらくゲバラのこの挿話を知っていて、彼の名を作品中に登場させていると思われる。

 西の射殺と他の犯人の捕獲で事件が一段落したあと、ホテルに、恩智が訪ねてくる。彼は、ニュー・デリー市街を、自らが運転する自動車で泰子とともに回る。勤務する国際救癩本部が見える場所で停車した彼は、ピアニスト、オートレーサー、大学教授といったさまざまな職業を持つ人々が、美しいこと善いことを考えた結果、その答えを求めに世界各国からこの機関にやってくるのだと語る。泰子の母親と二人で訪れた戦時中の渓流の小さな美しい場所が、現在の自分にはこの建物なのだと述べ、「美しいものと善いものに絶望しないでください」と続けた彼は、「人間の歴史は……ある目的に向って進んでいる筈ですよ。外目にはそれが永遠に足ぶみしているように見えますが、ゆっくりと、大きな流れのなかで一つの目標に向って進んでいる筈ですよ」と泰子にいう。「目標? それは何でしょうか」という泰子に「人間がつくりだす善きことと、美しきことの結集です」と応える。恩智には、自己批判能力があるので、近代西洋医療の帝国主義的側面に気づいており、野蛮な世界から病気を根絶するという西洋医学の自己陶酔的な英雄主義を自明視していない。それゆえ、自分たちの活動が果たして本当に美しいこと、善いことなのかはわからないと述べつつも、病気という「たしかな悪」と戦っているという事実が自分にやりがいを確信させているのだと述べる。

 しかし、このような恩智の論理は、そのまま西の論理に置き換えることができることに注意を払う必要がある。「我々の要求は現在、日本の反動的政府、及び警察によって不当にも監禁されている同志たちの釈放にあります」(18)「これ[ハイジャック]も、我々の革命運動のためには仕方のなかったことです」(19)という言葉が、作品中の犯人グループの唯一手がかりとなる台詞である。作者はおそらく意識的に彼らの思想的背景を記述していないが、「監禁されている同志」は、下敷きになった事件を参照すれば、パレスチナで創設された日本赤軍のメンバーであり、「革命運動」とは、パレスチナ解放闘争と連動した世界革命のことであることがわかる。彼らもまた、美しいこと、善いことを求めて世界から集まってきた人々であり、「人間の歴史は……ある目的に向って進んでいる筈」と考えていたのである。遠藤は、恩智に自らの生きかたを語らせることによって、西の生きかたについても語っていると考えてよい。換言すれば、作者は恩智の生きかたを称賛して、西の生きかたを否定しているわけではない。ハンセン病患者もパレスチナ人も等しく「弱か者」であり、恩智も西も彼ら「弱か者」のために自分の人生を捧げている。その意味で、両者は完全に相対化されている。そして、ここは注意を要するところであるが、西の生きかたを承認することは、西のハイジャック行為を承認することと必ずしも同義ではない。西の生き方を「正しい」と見なしているわけではないからである。

 恩智は、世代的には戦中派であり、『どっこいショ』の主人公と同年代である。恩智は戦争を潜り抜けたあと、病気という「悪」と戦うことを決意した人物であるが、『どっこいショ』の主人公は、ささやかな日常生活を後生大事に思う平凡な中年男であった。彼にとって、新聞の朝刊一面で報道されるベトナム戦争の状況は、いわば他岸の火事に過ぎなかった。彼にとっては、過去の「戦争の時代」の対極にある、現在の「平和な時代」だけが大事だった。彼は、息子が防衛大学校に進学して幹部自衛官をめざすことに動揺するが、最終的には彼の生きかたを承認する。作者もまた彼の生きかたを肯定している。それと同様に、『砂の城』では、主人公泰子すなわち作者は、西の生きかたも肯定している。「今は彼を憎んだり、恨んだりする気持は消えていた。西には西なりの懸命な生き方があったのである。水谷トシには水谷トシの必死な生き方があったように」(20)と書かれている所以である。泰子は、「そういう友人とは早く手をお切りになったほうがいいですね」という見合い相手山下の言葉に驚き、彼と結婚して米国で勤務する道を捨て去る。トシの存在によって、自らの生き方の修正を行うのである。素直な性格だが政治的な関心が薄く、英文科を出て全日空に就職し、日本の管理社会体制に完全に組み込まれて生きる泰子が、かつての友人たちの、到底受け入れられないような生き方に直面することを通して、自分の生き方を考えはじめるのである。

 公金横領者トシと、ハイジャック犯西を、作者は「懸命な生き方」「必死な生き方」をした人物として、敢えて同列に扱っているように見える。だが、西の行為の動機が、恩智と同じく「弱か者」への人道的共感に基づいているのに対して、トシのそれが個人的な愛欲と、泰子への女性としての対抗意識に基づいている点は見過ごしてはならない。トシの破滅的な生き方が、本当に美しいもの、善いものを求める生き方であったのか、それとも単なる個人的な自己満足なのか、作者は読者に問いを投げかけている。トシと西を作者が同一視していると決めつけることは必ずしもできないのである。

『砂の城』がいわゆる中間小説であり、武田友寿がいうように、遠藤の純文学系の作品とは「およそ別種のもの」とはいえないことはもはや明らかである。泰子は恩智、トシ、西らの生き方を相対化する役割を作中で持たされてはいるが、泰子自身もまた、彼らの生き方を参照することで、自らの生き方を相対化するからである。そして泰子は、読者一人ひとりでもある。武田は「賢い女・泰子がトシの愚かさを肯定しうるまでに賢くなっている」ことに注意を促している。(21)そういう見方も可能ではあろう。しかし、武田が泰子とトシを「賢い女」対「愚かな女」という小さな構図に閉じ込めてしまっているのは遺憾である。これでは国際救癩施設を自らの生き方に定めた恩智や、国際的テロ組織の一員として命を懸けている西の、性差を越えた、人間としての気高い生き方という根本的な主題が消えてなくなってしまうからである。

 この小説は、人間の世界では、どのような生き方が美しいものを求める生き方なのか決定することができないと語っている。作者はおそらく、それを知り得るのは「神」だけであると考えているのである。

 国際的な著者であることを自覚していたことと、戦時中の言論弾圧の恐ろしさを知っていたことから、遠藤は、政治的テクストとして自らの小説が読まれる可能性を回避するための韜晦が巧みだった。

『死海のほとり』でも、イスラエルに抑圧されるパレスチナ人については、見過ごしかねないほど、さりげなく、暗示的な描き方を用いていることは、すでに論じたとおりである。 『砂の城』も同様である。西のハイジャック事件は、下敷きとなった事件から、パレスチナ解放闘争の側面を意図的に捨象しており、一見しただけでは、イスラエル占領によって虐げられているパレスチナ人という国際政治上の問題はわからない。けれども、キリシタン弾圧と島原の乱、革命家ゲバラ、そして国際線ハイジャックと、西の思想形成の軌跡を飛び石のように描くことで、暗示的ながら、パレスチナ人が武装闘争へと踏み込まざるを得なかった必然性を描こうとしている。そして、西が行き着いたハイジャック事件は、そもそも、パレスチナ問題を世界に知らしめる目的で、PFLPに採用された戦術なのであった(22)。

「美しいこと、善いこと」を恩智=作者がかけがえのないものとして強調するのは、現実世界が、醜いこと、悪いことで満ちあふれているからにほかならない。それを象徴的に示す出来事が、ヴェトナム戦争であり、パレスチナ問題なのである。 優れた文学作品が犯罪者を描く例は枚挙に暇がない。その際、読者は、登場人物がそのように生きるしかなかった、それしかなかったことを納得し、心を動かされる。

『砂の城』において、西の生き方に読者が宿命的なものを感じるほどに丁寧に描かれているかといえば、確かにそうとはいえない。だがそれは、作者のせいではなく、エンターテインメントという形式が持つ限界であったと考えてよい。その限界ぎりぎりまで遠藤は描き込んでいる。 『どっこいショ』と『一、二、三』は、かつての「戦争の時代」と現在の「平和の時代」を時間的に対比させて捉えた作品であった。これに対して、『砂の城』は、母が生きた「戦争の時代」と泰子が生きている「平和な時代」という構図を、母親からの手紙を通して示した上で、これを否定する。すなわち、西のハイジャック事件という展開を通して、現在もまた「戦争の時代」であるとの新たな認識を提示しているのである。

「戦争の時代」と「平和の時代」を彼岸と此岸のように捉える認識は冷戦期の日本国内だけに通用する論理であり、平和な日常と戦争に代表される暴力とは、地球上にいつでも並存し、両者は相互依存的といってもいい関係にあると、この作品は語っているのである。この認識の変化は、ナチスのユダヤ人迫害と、イスラエル国内のパレスチナ人が置かれた状況を複眼的に捉えた『死海のほとり』を執筆することで獲得されたものと考えるのが自然であろう。

 『砂の城』は、読者に大きな問いを投げかける小説である。美しい生きかた、善い生きかたとはどのようなものなのか。国家の暴力に抵抗しようとするとき、抵抗勢力が暴力を行使することは肯定されるのか。美しい生きかた、善い生きかたというものを、読者に上から教え諭すのではなく、読者に考えさせようとする小説であり、そのために、世間的な常識を敢えて揺さぶろうとした作品なのである。


【註】

1 武田には『遠藤周作の世界』(中央出版社、一九六九年)、『遠藤周作の文学』(聖文舎、一九七五年)がある。

2 武田友寿「解説」遠藤周作『砂の城』新潮文庫、一九七九年、三一四頁。

3 同右、三一五頁。ハイジャック事件を現代風俗として捉えるという点からいえば、辻邦生『雲の宴』の男性副主人公郡司の弟が日本赤軍メンバーであり、一九七四年に発生したオランダにおけるフランス大使館占拠事件以後行方不明という設定こそ、物語の主題にとって本質的な重要性を持たないという意味で、当てはまっている。

4 小嶋洋輔「遠藤周作「中間小説」論――書き分けを行う作家」『千葉大学人文研究』三六号、二〇〇七年、三六頁。

5 漁師として働く西に、使徒の面影を重ね合わせるのは不可能とはいえまい。アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、そしてシオン・ペトロという漁師出身の弟子たちのうち、特に直情血行のペトロは、西の人物像と重なるのではないだろうか。

6 遠藤周作『砂の城』八一頁。

7 同右、八三頁。なお、原城の発掘調査が初めて本格的に実施されたのは、この作品が書かれてから一五年五の一九九〇年である。

8 同右、八六―八七頁。

9 同右、二七一頁。

10 同右、二七三―二七四頁。

11 同右、二七五頁。

12 同右、二八四―二八五頁。

13 同右、二八五頁。

14 二〇一五年の高等教育進学率七三パーセント中に占める短期大学進学率は八パーセントであるが、一九七五年当時の高等教育進学率は約二五パーセントであり、そのうち短期大学進学者は約半分であった。文部科学省「大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移」参照。        http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/03090201/003/002.pdf(二〇一六年一月二日確認)。

15 一九五三年から翌年にかけて、三島由紀夫が「恋の都」を同誌に連載している。この作品も、東京を舞台にした娯楽小説の体裁をとりつつ、アメリカ合衆国の植民地となった日本というポストコロニアル的状況を描き出した問題作である。武内佳代「三島由紀夫『潮騒』と『恋の都』――(純愛)小説に映じる反(アンチ)ヘテロセクシズムと戦後日本」(『ジェンダー研究――お茶の水女子大学ジェンダー研究センター年報』一二号、二〇〇九年三月)参照。

16 遠藤周作『砂の城』三〇七頁。ここには作者遠藤の、近代西洋医療に対する批評的姿勢がうかがわれる。辻邦生は、『光の大地』の主人公あぐりの父親を、中央アフリカで活躍する医師として設定した。そこには「野蛮」な原住民を病気から救済する「救世主」としての「文明」化された日本人が描かれているのである。ここでは権力装置としての帝国医療は当然のように免罪されている。帝国医療に関しては、見市雅俊他編『疾病・開発・帝国医療――アジアにおける病気と医療の歴史学』(東京大学出版会、二〇〇一年)第一章、及び、奥野克巳『帝国医療と人類学』(春風社、二〇〇六年)二九頁参照。

17 同右、二五七頁。

18 同右、二七六頁。

19 同右、二九四頁。

20 同右、三一一―三一二頁。

21 同右、三二〇頁。

22 パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の反イスラエル武装闘争と日本赤軍の連帯については、臼杵陽『世界史の中のパスチナ問題』(講談社現代新書、二〇一三年、四〇七―四〇九頁)参照。


*初出:『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた、異文化理解と対決の諸相』関西学院大学出版会、2017年 

 本章では、第二次世界大戦後のポストコロニアル時代にあって、なお行われている植民地主義に対する遠藤の認識を考察する。そのために、現代イスラエルを舞台とした『死海のほとり』(一九七三年)と、パレスチナ解放闘争を思わせるハイジャック事件をモチーフとした『砂の城』(一九七六年)を取り上げるとともに、村松の中東国際政治認識と比較検討する。また、一七世紀のスペインによる南米植民地政策を背景とした『侍』(一九八〇年)を、現代の植民地主義と結びつけて考察する。

『死海のほとり』(新潮社、一九七三年)は、『沈黙』(新潮社、一九六六年)に続く遠藤の代表作である。ヨーロッパ人とは異なるキリスト教理解を追求しつつあった作者が、〈永遠の同伴者〉たるイエス像を提示した記念碑的作品と日本国内では評価されている。ところが、この作品は韓国語以外には翻訳されていない(1)。多くの小説が諸外国語、とりわけ英仏語に翻訳されることで、遠藤が「世界文学システム」(2)に組み込まれた国際的な著者であることを考えると不思議なことといわねばならない。

 考えられる理由として、この小説におけるキリスト・イエスの描き方を考えることができる。この小説では、イエスは、奇蹟行為を行うことができず、ただ虐げられた人々に寄り添うことしかできない、徹底的に無力な男として描き出している。加えて、彼の十字架上の死と、ナチスの収容所の囚人の死を結び付けて描いている。このようなスキャンダラスな衝撃性を持ったイエス像を、海外の読者が受け入れることが容易ではないと考えたからという理由である。しかし、『死海のほとり』と同年に出版され、同じイエス像を描いた『イエスの生涯』が、五年後の一九七八年には英訳されていることを考えると、現在に至るまで英訳が行われていないことの理由としては不充分である。

 別の理由として考えられるのは、海外で読まれたときに、この作品が強い政治性を帯びたテクストとして読まれる可能性を否定できないことである。この小説は、イエス探究という主題の背景として、ユダヤ人を抑圧したナチス・ドイツの暴力が中心化されている。しかし、テクストの周縁部に注目して丁寧に読むと、イスラエル国内に留まり虐げられているパレスチナ人の苛酷な現実もまた描かれているのである。イスラエルが国内のパレスチナ人を抑圧している直接的な場面が具体的に描かれているわけではない。しかし、現代イスラエルを舞台としたこの小説では、当然のことながら、ユダヤ人が被った歴史的悲劇だけが描かれているわけではなく、パレスチナ人が置かれている政治的状況もまた、自然と察知されるように描かれているのである。

 フランス留学から帰国後、「アフリカの体臭――魔窟にいたコリンヌ・リュシェール」(伊達龍一郎名義『オール讀物』一九五四年八月号)で小説家として再出発した時点から、遠藤は、いわば「安全無害な作家」になるつもりはなかった(3)。「アデンまで」(一九五四年)「白い人」(一九五五年)は近代西洋批判の要素があるし、『海と毒薬』(一九五八年)は日本批判の要素があった。『沈黙』(一九六六年)は、カトリック教会批判としても読みうる。これらの諸作品は、しかし、日本語世界の読者を想定していた。遠藤が英仏を中心とする「世界文学システム」に自らが組み込まれたことを自覚したのは、一九六〇年代に続けて作品が外国語に翻訳されて以後のことと考えられる(4)。一九七〇年代に入ってからの遠藤は、海外の読者を想定して作品を執筆せざるを得なくなっていた。

『死海のほとり』刊行当時の遠藤が置かれていたこのような状況を考えると、この作品が周到な配慮の下に書かれたとしても当然である。イスラエルという現実の国家の描き方如によっては、最悪の場合には、「反ユダヤ主義者」と見なされる可能性もある。それは国際的な著者としての立場を危険にさらすことになるだろう。この小説で作者はイスラエルを糾弾しているわけではない。しかし、今日まで英訳すら行われていない事実は、以上のような理由からなのではないだろうか。

 このような問題意識を踏まえて、本節では、この小説が書かれた時代背景と著者の取材方法、そして作品の細部に注目することを通して、『死海のほとり』というテクストの新たな読解を提起したい。

 パレスチナ/イスラエルを巡る中東情勢について、必要最低限の確認をしておきたい(5)。国際連合の分割決議に基づき、一九四八年にシオニズム国家イスラエルが建国された。背景にはナチスに弾圧されたユダヤ人への同情が国際世論にあった。しかし、パレスチナの地に生活してきたアラブ人の反発を招き、同年第一次中東戦争が起きる。勝利したイスラエルは国連が示したよりも遙かに広い領土を獲得する。一九五六年には第二次中東戦争が起きた。一九六七年には第三次中東戦争が起きる。三度目の戦争によって、イスラエルはパレスチナの大部分を領土とし、ヨルダンが支配していた東エルサレムも獲得した。

 遠藤は一九五九年に、当時はヨルダン領だったエルサレムを訪れている。その後、イスラエルを訪れたのは一九六九年、一九七〇年、一九七二年である。一九七二年は三月から四月にかけての滞在だが、翌月にはテルアビブのロッド国際空港(ベン・グリオン国際空港)で日本赤軍のメンバー三人による乱射事件が起き、日本国内で大きな衝撃が走っている。『死海のほとり』が刊行されたのは一九七三年六月だが、同年一〇月には第四次中東戦争が起きた。その翌月から第一次石油危機が日本国民の生活を襲った。したがって、この小説が発表されたタイミングは、それまで日本人に薄かった中東情勢への関心が、にわかに強くなっていた時期にあたるのである。

 一九六九年一月から二月にかけてのイスラエル取材旅行時、遠藤は駐日イスラエル大使と親しい村松剛を通してイスラエル政府に訪問を伝えている。そのために、現地ではイスラエル外務省が「運転手と七人乗りの車」を用意してくれていた(6)。「今度は六日間戦争のためにエルサレムはもちろん、ほとんど新約聖書関係の場所がイスラエル占領地域になっているのは旅行者にとっては幸いであった。六日間戦争の名残りはエルサレム市に残るすさまじい弾痕にもうかがわれたが、私たちが滞在してる間にもほど遠からぬヨルダン川で砲撃戦があり、その砲声が昼食をとっていた我々を驚かせた」と遠藤は記している(7)。知られるように、「六日間戦争(Six Day War)」という呼称はイスラエル側のもので、アラブ側は「六月戦争(June War)」というのである。「六日間戦争」という呼称を用いているからといって、遠藤がイスラエル寄りの見方をしているというわけではないだろう。むしろ、イスラエル側が取材旅行の外国人作家に見せたいと思った世界と、実際に作家が見てしまった世界とは、おそらく違ったものであったと考えるのが自然である。

 遠藤と村松は、ともに同人誌『現代評論』同人だった。やはり同人だった服部達と三人で「メタフィジック批評」(一九五五年)を提唱したこともあるなど、若いころから交友があった。村松はポール・ヴァレリー研究から出発した人だが、アンドレ・マルローに関心を移し、一九六一年にはエルサレムで行われたアイヒマン裁判に『サンデー毎日』特派員として傍聴に行った。イスラエル政府と村松との関係は、このときから始まっている。ハンナ・アーレントが『ニューヨーカー』特派員として来ていたことは名高い。村松は一九六二年に『ナチズムとユダヤ人――アイヒマンの人間像』(角川新書)を著している。翌年、アーレントは『ニューヨーカー』に「イエルサレムのアイヒマン」を連載し、ユダヤ人たちからの激しい非難に曝されるが、同年、村松は『ユダヤ人――迫害・放浪・建国』(中公新書)を刊行する。この本で村松は放浪の果てにイスラエルを建国したユダヤ人に対するこころの底からの共感を隠そうとしていない。

 第三次中東戦争勃発前夜、村松は「イスラエル問題は発火するか」(『中央公論』一九六七年七月)を発表し、「発火寸前の状態」の中東情勢を分析した。戦争終結直後には国防相モシュ・ダヤンに会見して「イスラエル首脳会見記」として発表した(『中央公論』一九六七年八月。この記事で村松は、アラブ側の政治的立場を無視しているわけではないが、結果的には、日本語世界に「われわれは今後永久に、エルサレム旧市街を手放さないだろう」というイスラエル政府の立場を伝達する役割を果たしたといってよい。ナセル首相には日本語世界で政治的主張を伝達する人物はいなかったのだから。村松はその後もイスラエル紀行「スエズ運河はいつ再開されるか」(一九六九年二月)、「中東――この絶えざる紛争点」(『中央公論』一九七〇年四月)を発表している。彼は文芸評論家であると同時に中東問題の専門家であった。そして後者における彼のスタンスは、「現代ユダヤ・イスラエル」にあって、「現代アラブ・パレスチナ」ではなかった。

『死海のほとり』発表の前年に刊行された村松の『中東戦記――六日間戦争からテル・アヴィヴ事件まで』(文藝春秋、一九七二年)は一九六七年から一九七二年までのパレスチナ/イスラエル地域の紛争を記述した書物である。次節で詳細に述べるが、この書物はアラブに敵対するイスラエル寄りの立場から書かれたものなのである。一九七五年一二月、村松は『文藝春秋』に「イスラエル首相単独会見記」を発表し、首相イツハク・ラビンとの直接会見を発表している。「アラブ人の海の中にただよう小国の和平への努力と苦悩」という副題が、イスラエルに好意的な内容であることを如実に示している。当時の村松は、イスラエル政府の最高指導者と直接対話が可能な存在にまでなっており、イスラエル側に好意的な論客として、政治評論を日本語世界で行っていたのである。ラビンのみならず、一九八〇年代に入ると、メナヘム・ベギン首相、ラファエル・エイタン参謀総長とも会見している(『文藝春秋』一九八三年三月)。 ところで、イスラエルが、ある意味で「希望」であった時代があったことを現代のわれわれは忘れがちである。村松の「ダヴィデの星――イスラエルという国」(『世界』一九六一年九月)はそういう時代の雰囲気をよく伝えている文章である。一九六〇年代、イスラエルを理想化し、彼の地のキブツで働く日本人の若者もいたのである。パレスチナ問題の実態が徐々に日本国内でも知られるにつれて、イスラエルに対する日本人の見方は変化していったのである。

『死海のほとり』は、現代イスラエルを舞台とした「巡礼」の奇数章と、古代イスラエルを舞台とした「群像の一人」の偶数章が、対位法的に展開していく。二つの物語は、最後に寄り合わされ統合される。つまり、「かつて」と「今」が、小説のなかで出会うのである。  この作品が持つ複雑さは小説世界の時間/空間についても例外ではない。小説の舞台となる空間には四種類ある。エルサレムを中心とした現代のパレスチナ/イスラエル、同じく古代のパレスチナ/イスラエル、そして第二次大戦下の東京とゲルゼンである。そして小説の内部に流れる時間には、三種類がある。イエスが生きた古代パレスチナ/イスラエルの時間と主人公が生きる現代パレスチナ/イスラエルの時間。そして、現代を生きる主人公の胸中に入れ子のように流れる第二次世界大戦中の時間である。二つの物語、それぞれの物語の中の空間と時間は、しかし読者の意識のなかで混乱を呼ぶことはない。むしろそれぞれが互いを照らし出す仕掛けになっている。現在が過去に重なり、逆に過去が現在に呼び起こされるふうになっているのである。

 単行本には、死海以北の「イエス時代のパレスチナ」図が掲載されている(新潮文庫版も掲載。新版『遠藤周作文学全集』は不掲載)。地理的理解が必要だと作者が判断したからに違いない。しかしながら、パレスチナ/イスラエルのほとんどをイスラエルが占領した「現代(第三次中東戦争後)のパレスチナ」図は併載されていない。これがあれば、読者はイスラエルとアラブ諸国との政治的緊張を強く意識してこの小説を読まざるを得なかったはずである。古代と現代の二つの物語で進行していく小説であるにもかかわらず、なぜ一方だけを作者は掲載したのであろうか。作者は、キリスト教作家として重要な、独自のイエス像を描き出すことに読者の注意を集中させたかったからと解するのが自然であろう。現代イスラエルを巡る国際政治的状況は、あくまで物語の背景であり、中心的主題ではないからである。

 エルサレムに到着したカトリック作家の主人公が、学生時代の友人で聖書学者の戸田と再開する第一章の場面を見てみよう。「このエルサレムにも二つしか見物する面がないな。古いエルサレムと新しいエルサレム。現代のイスラエルと聖書に出てくるエルサレム」と戸田はいう。新しいイスラエルとは、「戦争をしているイスラエル。集団農場(キブツ)や砂漠の開発、ロックフェラー財団、〔……〕」と続ける戸田に、主人公は「砂漠の開発を見せてもらうより、イエスの生きた遺跡でも見せてもらうほうが、まだわかりやすいし……」と応じる。  このやりとりを文字通りの意味レベルで受け取れば、主人公即作者は、あくまで古代に生きたイエスの足跡を尋ねることがイスラエル訪問の目的なのであって、パレスチナ/イスラエルをめぐる生々しい国際政治には関心を払わないと宣言している、ということになろう。しかし現代のイスラエルを舞台として設定している以上、それは容易ではないのであって、もしかすると、これは作者の韜晦に過ぎないのではないかと疑ってみることができよう。

 なぜなら、こうしたやりとりの直後に主人公が見るともなく見るのが「一軒だけあいている映画館」の大看板に描かれた「騎兵隊のジョン・ウェインの似顔」であり、切符売り場に列をつくるユダヤ人の若者たちだからである。ジョン・ウエィンは多くの西部劇に出演して、ヨーロッパからやってきた植民者たちの「開拓者精神」を体現した俳優であった。それらの西部劇では、先住民は野蛮な悪役として描かれているのが常であった。ジョン・ウエィンはまた、アメリカ合衆国内でヴェトナム戦争反対活動が高まっていた時期に、『グリーン・ベレー』(一九六八年)という、陸軍特殊部隊のヴェトナムでの「活躍」を描いた、政治的色合いの濃い映画を監督・主演していた。一方で、ラルフ・ネルソン監督が『ソルジャー・ブルー』(一九七〇年)で、騎兵隊による先住民族無差別虐殺を生々しく描き出したのは一九七〇年である。それまでの西部劇における騎兵隊と先住民の描き方を大転換したこの映画は、アメリカ合衆国によるヴェトナム戦争介入を強く意識した政治的な作品であり、日本でも一九七一年に公開されていた。

 アメリカ合衆国の歴史において、騎兵隊が白人入植者の土地を拡張するために先住民族を次々に虐殺した歴史と、新国家イスラエルが先住アラブ人たちを追い出し、町を破壊し、財産を没収し、土地の名称を変えていった歴史を、遠藤は当然のことながら知っている。このように考えると、このテクストは「現代のイスラエル」には関心がないという、「意味を強制する」言葉とともに、ジョン・ウェインの騎兵隊という視覚的イメージを配置ことで、「現代のイスラエル」についても語っているのではないだろうか。台詞と描写で、反対のメッセージを同時に読者が受け取れるようになっているのではないだろうか。  「二十日戦争の時、ここだって危なくて通れなかったよ」という戸田に、主人公は「戦争の時はどこにいた?」と尋ねる。「国連の事務所。すぐそばでヨルダンの部隊が機関銃をうってきて、こちらは床に伏せて身動きもできなかったな。この先に当時の砲弾の跡が随分残っている」と戸田は応える。二十日戦争とは、ここでは第三次中東戦争を指しており、要するに「テクスト内事実」である。この戦争の結果、先に引用した遠藤の文章にもあったように、ヨルダンが管理していた旧市街を含む東エルサレムをイスラエルが占領して自国領土としたことにより、イスラエルのユダヤ人が「嘆きの壁」に行けるようになったのである。

 主人公はイスラエルでイエスの足跡を尋ねて歩くのだが、自分がそれまで抱いていたイエス像が、戸田の言葉によってことごとく虚構の産物であったことを思い知らされる。つまり、捏造された神話の虚構性が徐々に暴かれていくというのがこの小説の推進力なのである。神話の虚構性が暴かれていくのは、しかしイエスだけではない。主人公の目に映る矛盾に満ちた現代イスラエルの現実を読者は追体験することになる。このテクストは、ねずみと呼ばれるキリスト教修道士(ポーランド系ドイツ人)を登場されることでナチスのユダヤ人迫害を強く前景化しながら、同時に後景化しているシオニズム国家イスラエルのパレスチナ人迫害についての読者の想像力を刺激するのである。

 知られるように、イスラエル社会は三層構造になっている。最上層にいるのがアシュケナジムと呼ばれるヨーロッパから逃れてきたユダヤ人である。その下の層が、セファルディムと呼ばれるヨーロッパ以外から来たユダヤ人である。そして再下層に置かれているのが、イスラエル国会内にとどまった先住アラブ人、すなわちアラブ系イスラエル人、要するにパレスチナ人である。

 作品世界において、彼らはどのように表象されているだろうか。それは主人公のトランクを運ぶホテルのボーイであり、裸足で主人公に施しを迫る少年である。ラクダを連れてゆっくりと歩く男であり、路傍でトランプに興じる男たちである。彼らは小説の舞台装置に現れる名も無きエキストラのようにも見える。だが、時に細かい描写が行われることがある。主人公が「ピラトの家」を見学して出た直後の場面を見てみよう。

《壺を頭にのせたアラブ女がゆっくりと坂道をのぼってくる。紺色のボロ布のような衣服をまとい、サ ンダルもはいていない。鶏のそれのような足は埃によごれ、驢馬の糞も平気で踏んでいく。すれちがいざま彼女は私を壁にぶつかる陽光のように鋭い強い眼で見たが、その眼ざしには憎しみがまじっているように思われた。…… (8)》

 さりげない描写だが、パレスチナ人の憎しみが混じるまなざしがここでははっきりと記述されている。この場面に続いて続いてアメリカ人の巡礼が現れる。血色のいい神父に連れられて、全員がカメラを肩から下げている。戸田は、ホテルに帰れば信者たちに絵葉書をせっせと書くに違いないと「アメ公の神父たち」を嘲るのだが、パレスチナ人の女は戸田も内心で蔑んでいるであろうことが暗示されている。イスラエル社会で最も虐げられているのはパレスチナ人であるにもかかわらず、アメリカ人の神父も信徒も、そして日本人も、彼らが透明人間ででもあるかのように見ようとはしないからである。主人公たちが憩うカフェに来た、買い物籠を下げた「イスラエルの婦人」は、サングラスを掛けている。彼女は、腰を下ろして煙草を喫う。イスラエル社会の最上層にいるアシュケナジムなのである。  二人はユダヤ人虐殺記念館に足を向ける。これをきっかけにして、主人公は「ねずみ」と呼ばれたポーランド系ドイツ人修道士を思い出す。財産を没収され強制収容所へと送られ多くのユダヤ人が虐殺された。その記念館を訪れる主人公とともに、読者はナチスドイツの暴力について考えるよう仕向けられる。そして、主人公とともに虐殺記念館を出てイスラエルの街角へ、現代イスラエルの現実へ戻らされるのだ。

 第三章には、「街道にそったコカコーラやジュースを売る小屋の前に赤ん坊をだいたアラブの女が人生を諦めたような姿で立っていた」という描写もある。コカコーラがアメリカ合衆国の象徴であることはいうまでもない。そしてアメリカ合衆国は、イスラエルの最も強力な支持国である。

 第七章で、主人公がパレスチナ人の村を眺めながらイエスの時代を想起する場面に注目してみよう。

《通過する路の風景は既にユダの荒野とはすっかり違ってはいたが、そのかわり、押し潰されたような アラブ人の村がいくつもそこにあった。煙の煤でうす汚れ、雑巾のような色をした家の前で山羊の群れ が集まり、木の枝を持った少年がそれを追っている。天秤棒を肩にして𨫝を重そうに女が運び、老人が壁にもたれてぼんやりと我々の車を眺めている。どの村にもそんな風景があり、どの村も強い陽光に曝されていた。/「イエスも、この路を歩いたのかしらん」/「と思うよ。ここは昔からサマリヤを通るただ一つの街道だったから」/「もっとみじめだったろうな、当時は」(9)》

 パレスチナ人集落を眺めながら主人公がイエスの時代を想起するのは、地理的な理由である以上に、眼前に存在するアラブ系イスラエル人たちのありようが悲惨だからである。テクストは現代イスラエル社会の現実に読者の意識を向けさせつつ、それをイエスの生きた世界に結びつけようとしている。

 小説のなかでは、当然のことながら、イスラエル人も描かれている。イスラエル兵士について見てみよう。イスラエルには徴兵制がある。男性は三年間、女性も二年間の兵役が義務である。もっともアラブ系イスラエル人には徴兵が免除されている。政府は彼等に銃を持たせたくないからだといわれる。ちなみに、正統派ユダヤ教徒も、当時は兵役が免除されていた。

 第一章で、街角で横断歩道を渡る姿が、この作品に初めて登場するイスラエル兵士である。「銃を肩にかけたイスラエルの兵士が二人、船首の立像のように直立している」のを主人公はホテルの窓から見る。主人公が戸田と話を交わし、ホテルから出ると、「さっき窓から見えた兵士がまだ辻に立っていて、その喫っている煙草の火が明滅していた」。作中での言及はないが、彼らが所持している銃はアメリカ製であり、コカコーラを売る小屋の前で「人生を諦めたような姿で立っていた」パレスチナ人の女が登場する場面とともに、イスラエルの背後に見え隠れする大国アメリカが暗示されている。

 第五章で主人公と戸田が自動車でベトレヘムに行くとき、途中で小休止しているとジープが上ってくる。

《二人のイスラエル兵が乗っていて、草色の軍服から腕を出した彼等が、じっとこちらを見ている。すれ違った時、その一人が若い獣のような眼で笑顔を つくり、/「何処から来た(メイアン・アタ)」と声をかけた。(10)》

 主人公は彼等を見たことから、戦争中の記憶を呼び起こすのだが、「若い獣のような眼で笑顔をつくり」という箇所は含みを感じさせる表現である。銃を持ったイスラエル兵の「つくられた」「笑顔」の「若い獣のような眼」は、得体の知れない戦慄を喚起するような表現でないだろうか。

 イスラエル人は銃を持つ存在として描かれる。主人公は、「ねずみ」の収容所時代について知るために、ゲルゼン収容所にいたユダヤ人(アシュケナジム)がいる集団農場(キブツ)を戸田と訪れる。第五章で、主人公らが夜に集団農場を訪れたときの場面を見よう。

《やがて、果樹園をふちどる白い柵が夕闇に帯のように浮かびあがり、丈のたかいユーカリの樹木がどこまでも道の片側につづくと、この道の奥が我々の目指す集団農場だと私にもすぐわかった。犬の吠える声も次第に大きくなり、家々の灯が木立の間にちらつき、戸田が車の速度をゆるめた時、向うに二人の青年が手をあげて我々をさえぎった。作業服を着ていた彼等の肩に銃があった。(11)》

 叙情的な描写だが、集団農場の青年たちは兵士でもないのになぜ銃を携行しているのか。自衛のためという名目で、武装することをイスラエル政府から植民者たちが許されているからである。この集団農場も、かつてはパレスチナ人の土地でありパレスチナ人の農場であったかもしれないのである。  主人公は「銀髪のいかにもユダヤ人らしい高い鼻をもった老婦人」と面会する。ゲルゼン収容所のサバイバーである。注目すべきは彼女の部屋のさりげない描写である。「きちんと食器をならべた木造の棚の上に、軍服を着た若い娘の写真がおいてあった」と書かれている。ナチスのユダヤ人迫害から生き延びてイスラエルに逃れてきたこの女性の娘は現在兵役にあり、パレスチナ人迫害に荷担していることが暗示されているのである。

 この小説のなかで、制服を着て銃を持っているのは、回想場面に登場するナチスドイツの将校と、物語の現在に登場するイスラエル兵士だけである。

 このように、テクストの細部に注目すると、イスラエル人は銃を持つ強い存在として描かれ、パレスチナ人は悲惨な生活を余儀なくされる存在として描かれていることが明らかになる。主人公が接するイスラエル人はアラブ系ではなく、すべてユダヤ人、それもアシュケナジムばかりである。ゲルゼン収容所に少年時代にいた医師が、フランス語で手紙を主人公に送ってくる。彼は集団農場を主人公が訪問したときに外出していて会えなかったのである。彼は自分がユダヤ教徒ではなかったと手紙のなかで記している。そして、その手紙のなかで、「ねずみ」の最後を語るのである。ナチスの「うすみどり色の制服を着た将校」が、背広のドイツ人とささやきを交わす。それで「ねずみ」の運命が決まった。

「ねずみ」は人間的弱さを体現したような人物として造形されている。強制収容所内でも、ひたすら保身に走り、他の収容者に襲いかかる苛酷な運命には知らぬふりをし、仕方がないと言い訳をする卑怯者である。しかし、アウシュビッツで死を強制されるねずみとは一体誰のことなのだろうか。この問いをテクストは読者に突きつける。この人物を考察するためには、ナチスによるユダヤ人迫害を考えるだけでは充分ではない。イエスを迫害した帝政ローマ、キリスト教徒を迫害した帝国日本、そしてパレスチナを占領するイスラエル――このような多層的な支配/被支配関係のなかで、いつの時代にもねずみは存在したはずなのである。

 そのように考えた上で、私はここでは、シオニズム国家という小説の舞台設定に特に注目したい。ナチス政権下のドイツで最も惨めな存在はユダヤ人であった。そしてイスラエルで最も惨めな存在はパレスチナ人である。そのように考えれば、ねずみはパレスチナ人でもあるのではなかろうか。

『死海のほとり』は「同伴者イエス」を描き出した作品である。そこに疑いはない。しかし、この小説が現代イスラエルを舞台とすることで、人間の悲惨が第二次世界大戦中のユダヤ人迫害という歴史的出来事にとどまるものではなく、アラブ世界で現在進行形の出来事であることをさりげなく描いている点を見過ごしてはならない。かつて他者から虐げられた者が別の他者を虐げるという人間の悲惨がこの小説の背景になければ、「同伴者イエス」像が読者に与える感銘も、薄れてしまうであろう。

 遠藤は、取材旅行から帰国後に書いたエッセイで、次のように語っている。

《イスラエルはユダヤ人の国家だが、周知のように純粋ユダヤ人というのは少ない。シオニズムの名の下にここに復帰してきたユダヤ人たちはいずれもそれまで世界各国に分散して、言語も環境もちがって生活してきた人々の集団である。極端にいうならばバラバラの混血ユダヤ人たちの集まりなのである。それを今、統一しているのは、アラブ人との戦いでひき起された国民感情と、自分たちが世界でうけた迫害意識であろう。だからもし戦争が終り、迫害意識がうすれた時は、彼らの団結を支えるものは何かという感じがしないでもなかった。(12)》

 このように遠藤は考えていた。研究者もまた、アラブ系イスラエル人を除外すれば、さまざまに細分化されたイスラエル国民としてのアイデンティティーの「共分母」は、アラブの脅威に対する連帯感にほかならないと指摘している(13)。ヨーロッパ社会で受けた迫害の記憶――特に自分たちがホロコーストの犠牲者の末裔であるという意識については、各種記念式典や高校生のアウシュビッツ研修旅行などの教育により植え付けられているが、近年ではそのようなシオニズム事業への疑問視もイスラエル国内では出てきているという(14)。

 遠藤は、一九六九年の取材旅行の際、イスラエル外務省側の申し入れでキブツに連れて行かれた。キブツにもいろいろあるので、イスラエル側が見せようと選別したキブツであったことは想像に難くない。それまでは軽快にあちこちを歩き回っていた遠藤が、そのときだけは、「しかたなしにっていう具合に」歩いていたという。外務省の案内役と妻の順子が一緒に歩いている後から、いかにも興味なさげに「ぺったん、ぺったん、歩いて」いったのだ(15)。礼節を欠いた態度といえるが、これは意識的なふるまいだったのではないだろうか。日本の作家の好感を得て、できれば取り込みたいイラエル政府の思惑に、遠藤が気づかないはずがない。首相をはじめ、イスラエル首脳部と親交がある村松剛の口添えを得て来ていたこともあり、申し入れを断るわけにはいかなかった。仕方なく行くだけは行こうという遠藤のあからさまな態度は、イスラエル政府の思惑とは無関係に、自分は一人の作家として、見るべきものを見るという無言の表明だったと考えても不自然ではないのである。事実、『死海のほとり』で主人公がキブツを訪問する場面を見れば、そこでの描写は、必ずしもイスラエルに好意的なものとはなっていない。彼らがパレスチナの土地における武装した占領者として描かれていたことは、既述のとおりである。

 エルサレム旅行に同行した順子の証言に拠れば、一九五九年、第一回の旅行の際、夜、夫婦で散歩をしていたところ、ヨルダンとイスラエルの緩衝地帯〔バッファー・ゾーン〕に誤って入り込んでしまったという。五分以上留まっていた場合、無条件で攻撃していいと後から知った。大声で警告され続けたことで、ようやく気がついたのだった(16)。「アラブ側は見るからに暗くて、イスラエル側は煌々と電灯がついて」いたが、彼らは「もう少しそこに留まっていたら、銃で撃たれても全然おかしくなかった」のである(17)。

 このときの体験は、遠藤自身も文章にしている。

《何も知らぬ私はその時イスラエル領まではいりこんでいたのである。丘の上から人々の騒ぐのがきこえたが、アラビヤ語を知らぬ私はそれをキリスト捕 縛の夜の群衆のように聞いていたのである。/「あんたは無茶ですなあ」/翌日、私の話を聞いた国連の日本人はびっくりして叫んだ。/「あそこにはいれば、あんたはもう二度とヨルダン領にもどれなかったのですぜ。発砲されて死んでも仕方がなかったのですぜ」(18)》

  笑い話のような書き方を故意にしているが、実際には戦慄を伴う体験であったはずである。そしてこれは、多少の危険を冒しても自分の目で現実を見ようとする作家遠藤に、いかにもふさわしい出来事のように私には思われる。

『死海のほとり』に先だって書かれた短篇「道草」(『文藝』一九六五年七月号)は、このときの旅行を思わせる作品である。中年の日本人夫妻が、二ヶ月間のヨーロッパ旅行の帰りに、エルサレムに立ち寄る。夫は長旅で疲れ切っていて、妻とすぐに喧嘩になってしまう。妻は、娘が聖心女学院中等科に通っていることを自慢にしているが、他の保護者もほとんど行ったことがないエルサレムに行くことで、「単純」なマザーたちの歓心を買おうと考えているのである。夫も高等学校時代、寮の万年床で聖書を真剣に読んだことがあったが、今では「どうせ毛唐の宗教だ。俺たちには関係ない」と口にしてはばからない。妻は「見物したことはしたんだから」といって、証拠のための写真を撮る。要するに、虚栄心が強いだけの、俗物を絵に描いたような夫婦なのである。この夫婦は、作者遠藤とも、遠藤の妻とも、似ても似つかない。どう考えても、これは、エルサレムという土地にも、その土地を巡る血生臭い中東国際政治にも関心が薄い、当時の日本人全体の、イローニッシュな肖像画であろう。イエス探求という主題を中心に据えつつも、イスラエルを舞台にした小説が、どこまで日本人読者に理解されるか、遠藤はこのときすでに、その困難を自覚していたものと思われる。

 遠藤は、パレスチナ問題に強い関心を持っていたと思われるが、『死海のほとり』ではそれを作品中に最小限しか書き込まなかった。自分が日本人であるとの強い自覚を持っていた遠藤は、日本赤軍とパレスチナ解放人民戦線のメンバーによるハイジャック事件が起きたとき、これをモチーフに、『砂の城』(一九七六年)を書くことで、現代の植民地主義がもたらす暴力について、正面から取り上げるのである。


【註】

1 国際交流基金日本文学翻訳書誌検索に拠る。   http://www.jpf.go.jp/JF_Contents/InformationSearchService?ContentNo=   13&SubsystemNo=1&HtmlName=search.html (二〇一五年三月七日確認)。

2「世界文学システム」という概念は、パスカル・カサノヴァ『世界文学空間――文学資本と文学革命』岩切正一郎訳、藤原書店、二〇〇二年に拠る。

3 既述のように、遠藤の小説家としての第一作は「アデンまで」(『三田文學』一九五四年一一月)とされてきたが、三ヶ月前に発表された「アフリカの体臭」であったことが「慶長遣欧使節団渡欧400年 遠藤周作『侍』展―人生の同伴者に出会うとき」(加藤宗哉・今井真理監修、町田市民文学館ことばらんど、二〇一四年一月一八―三月二三日)の展示で明らかにされた。伊達龍一郎という筆名は伊達政宗に由来するものと考えられる。正宗は支倉常長らを慶長遣欧使節として派遣した人物であり、遠藤が筆名として選ぶのに相応しい人物だからである。すでにこの作品において、支倉常長をモデルにした小説『侍』(一九八〇年)とつながる要素があったようである。『侍』にも「アフリカの体臭」と共通する反植民地主義が描き込まれているが、作品全体に溶け込ませる手法が洗練されていること、またポストコロニアリズムの時代思潮も幸いしてか、諸外国語にも翻訳されている。

4 最初に翻訳されたのは「ジュルダン病院」で、ソヴィエト連邦の雑誌に一九六一年に掲載された。単行本は、やはり一九六一年に『海と毒薬』がロシア語に翻訳されたのが最初である。この小説は一九六七年にアメリカ合衆国で英訳された。『沈黙』は、一九六九年に英国で英訳され、以後数カ国語に翻訳された。スウェーデン語にも翻訳されたのは、ノーベル賞受賞を意識した戦略的な意図からと考えられる。ちなみにイスラーム圏で使用されるアラビア語には一冊も翻訳がなく、シオニズム国家イスラエルの公用語であるヘブライ語には、カトリックの破戒僧を扱った『火山』一冊があるのみである。

5「パレスチナ/イスラエル」という地域呼称は、イスラエル対パレスチナという対抗図式、敵と味方という論理的枠組を乗り越えるべく用いられるようになってきたものである。詳しくは臼杵陽「日米における中東イスラーム地域研究の「危機」――九・一一事件後の新たな潮流」(『地域研究』七巻一号、二〇〇五年六月、一一三―一一五頁)参照。

6 遠藤周作「死海を訪れて」(『東京新聞』一九六九・三・一一)。SEZ13、四五頁。

7 同右。

8 SEZ3、三九頁。

9 同右、一〇二頁。

10 同右、七二頁。

11 同右、八〇―八一頁。

12 遠藤周作「死海を訪れて」SEZ13、四五頁。

13 ヤコヴ・M・ラブキン『イスラエルとは何か』菅野賢治訳、平凡社新書、二八二―二八四頁。

14 同右。

15 遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』文春文庫、二〇〇〇年、一六二―一六三頁。

16 同右、一六〇―一六一頁。

17 同右一六二頁。なお、「道草」(『文藝』一九六五年七月号)には「同じエルサレムでもイスラエル側にはネオンの光が華やかに見えるのに、こちらヨルダン側は、ほとんど灯の数も少ない」という一文がある。

18 遠藤周作「エルサレム巡礼」(『朝日新聞』一九六〇年三月二日)KEZ11、一八二―一八三頁。 


*初出:『キリスト教と文化』14号、2016年3月

 大江健三郎がキリスト教と出会ったのは、戦時中の九歳のことである。母親が庭を耕して収穫した小麦を村人に隠れて製粉するために、大江は森の谷川にある水車小屋に行かされた。老人が粉引きをする間、大江はそこにあった雑誌を見た。聖フランチェスコの読み物があった。

「父が亡くなり祖母も亡くなってすぐの時で、魂の問題というのはあると思っていたんです。そして、魂について本当のことを何か教えてくれる人がいたら、自分はその人について行くだろうと思ったわけです。ついて行かなければいけない、と。」このときに大江は「自分がいつか信仰を持つのじゃないか、その時は何もかも捨てなければいけないだろう、その時本当に大切なものを捨てることができるだろうか」と感じた(1)。

 聖書を読み始めたのは戦後だ。中国からの引揚者である母親の友人から貰ったのである。その後、いい文体であるという理由から新共同訳聖書(一九八七年初版)も読み、注釈が解りやすいという理由から岩波委員会訳聖書(一九九五~二〇〇二年)も愛読しているという(2)。さまざまな日本語訳聖書に親しむ姿勢は、小川国夫がエミール・ラゲ訳聖書(一九一〇年初版)の日本語を愛し、新共同訳聖書の翻訳作業に協力しつつも、全体としてはその訳文に満足を覚えなかった点と異なる。また、聖書学者の注釈に抵抗を覚えない点は、新約聖書学から激しい揺さぶりを受けた遠藤周作と異なる。遠藤は「史的イエス」問題にこだわり続けた(3)。初代教会には、受肉的でサイコフィリア(肉を愛する)なイエス理解と、グノーシス的でサイコフォビア(肉を恐れる)なイエス理解との激しい闘争があり、最終的に前者が「正統信仰」の福音書として採用された。自らの信仰が受肉的キリスト教信仰の流れから外れることを遠藤は無意識に恐れたのである(4)。しかし、大江は一九九七年にプリンストン大学で行った講演において、サイコフォビア的なキリスト教信仰の典型である「キリスト仮現説」に「きわめて高い宗教的想像力を表現してもいた」と積極的な評価を与えている(5)。以上のような、小川、遠藤との相違――自由で大胆なキリスト教理解は、いずれも大江がキリスト教信者ではないことに由来している。

 一九六三年、二十八歳の時に長男が生まれた。頭部が二つあるように見えるハンディキャップ・チャイルドであった。アメリカの小児科医ドロタール・Dは、こうした子供を持った両親の心理的反応モデルとして、①激しいショック、②事実の否定、③悲しみと怒り、④事実の承認、⑤子のために生きて行こうという再組織化、という五段階を挙げている(6)。大江夫妻にも同様の心理的経過があったと想像される。一年後、大江はこの実体験に基づいた『個人的な体験』を発表する。主人公「鳥(バード)」は、予期せぬ受難に深く苦悩し、子供の死すら願うが、最後にはこの子供を引き受けて育てて行くことを決意する。改心の場面には「突然に、かれの体の奥底で、なにかじつに堅固で巨大なものがむっくり起き上がった。」という一行があるだけである(7)。後年、作者は現実世界で自分が感じた思いを以下のように回想している。「この子供がこのまま死んでいくのだったら、自分は二十八年間生きてきたけれども、そのことにも意味がないということでした。ふたつをつなぐ論理というものはまだないんですけれども。」(8)。長男誕生の二十年後、アメリカの大学にいた大江は、宗教学者エリアーデの日記を読んでいた。そこでエリアーデは、ある科学者の「人間存在の破壊し得ないこと」の発見に言及し、「これは一種のエピファニーだ」と記していた。この言葉に触れた瞬間、あのときの自分の決心こそ「自分にとってのエピファニー」だったのだと大江は理解した(9)。「エピファニー」とは、キリスト教の文脈においては、キリスト・イエスの神性顕示に他ならない。

  長男誕生後の大江の人生と文学は、彼との共生が中心となった。長男は、五歳になっても聴覚の有無が不明だった。ある日、鳥(バード!)のテレビ番組に長男が反応したように感じた大江は、鳥の声のレコードを買ってきて、自宅で流し続けた。一年後、北軽井沢の別宅で長男を肩車して散歩していた大江は、クイナが啼いた直後に長男が「クイナです」と言うのを聞いた。幻聴かと思ったが、鳥がもう一度啼いたらいいと思った。「そのときどうしたかというと、私は祈っていたわけなんです。(原文改行)私は無信仰の者なんです。カトリックを信じない。プロテスタントも信じませんし、仏教も信じない。神道も信じていない。信じることができない。だけども祈っていた。祈ったというよりも、集中していたというほうが正しいかもしれませんけど。目の前に一本の木がありましてね。〔……〕いま自分がこの木を見て集中している、ほかのことを考えないでコンセントレートしている。このいまの一刻が、自分の人生でいちばん大切な時かもしれないぞ、と思っていたんです。」(10)もう一度クイナが啼いた。長男が「クイナ、です」と言った。感動的な体験であった。これがきっかけとなり、長男が十歳になった一九七三年に『洪水はわが魂に及び』が生まれ、二十歳になった年に『新しき人よ眼ざめよ』が生まれた。

 自らの「エピファニー」体験を大江が語ったのは、一九八七年十月、東京女子大学の宗教週間での講演である。キリスト教信徒を主たるオーディエンスとした講演であったことに留意したい。「信仰なき者」とはキリスト教信仰を自分が持たないという意味であり、この宣言によって、大江は自己の宗教的立場に「覚醒」したと思われる。

 大江は、一九七○年代、文化人類学に影響された。無意識に生きてきた「森の伝説」を学術的に再発見することで、かえって「森のフシギ」に自足することは不可能となった。それはむしろ虚構的なもの、強迫的に反復されざるを得ないもの、演技されるものに変貌してしまった。日本政府と故郷とは、「中心」と「周縁」という図式に閉じ込められてしまった。けれども、「エピファニー」体験は、文化人類学の図式的世界像を一挙に無効化した。この講演以降、大江はキリスト教を、より強く意識するようになった。

 大江には新プラトニズムに対する傾斜がある。ここではウイリアム・ブレイクへの親炙をとりあげる。大江のブレイク理解には詩人キャスリーン・レインの影響が大きい。レインは、ブレイク独自の神話体系が詩人の単なる奇想ではなく、西欧神秘主義の伝統に根ざしている事実を解明している(11)。『新しい人よ眼ざめよ』は、長男がチャイルドからアダルトへと変容する過程を、父親としての「対象喪失」という視点から描いた作品といってよい。ブレイクの詩句が地の文と交響する。両者は結晶化している。長男の子供時代を喪失した父親の悲しみ、そして彼が成人として新生する歓び、その両方をブレイクの想像力が増幅する。注目すべきは、人を「癒す」共同体としての「家族」像の提出である。

『新しき人よ眼ざめよ』の前年に、大江は『「雨の木」を聴く女たち』を発表している。作品集中「泳ぐ男―水の中の『雨の木』」は重要である。プールのサウナ室で青年を性的に挑発していた女性が、ある晩公園で暴行され殺害される。「犯人」の高校教師は鳩小屋に飛び込み縊死して事件は一件落着する。しかし彼は青年の身代わりであったようなのだ。語り手は想像する。青年はベンチに女を縛り付けたが、性交が果たせず、嘲弄した女を扼殺して呆然としている。その場に遭遇した高校教師は心に思う。「よし、それではほかならぬこの自分が恩寵をあじわわせてやろうじゃないか、この出口なしの大きい悔いのうちにいる青年に、かれがやってしまった殺人がかれにとって帳消しになるように、おれが神の役割を代行してやることにしよう。」そして女を犯して自殺する。見事なまでに奇怪な「キリストの倣び」である。この作品は、大江には珍しく、単行本化に際して初出の最終場面(「新潮」一九八二年五月号、五八頁)に加筆が施された。青年がふたたび同じ犯罪を犯すことを暗示して物語が閉じるよう変更されている。ここで大江は、人間による魂の「救済」は不可能であるという認識を提示している。「神」ではない人間は、他者の「罪」を「無化する」ことはできないのである。

『人生の親戚』(一九八九年)は、知的なハンディキャップ・チャイルドと身体的なハンディキャップ・チャイルドを持つ女性が、二人に同時に自殺されるという悲劇(「対象喪失」体験)を受容(アクセプト)していく物語である。本稿で筆者が「対象喪失」とそれに伴う「悲哀の仕事」という精神分析学の概念を援用するのは、これが生と死、精神と肉体の両方にかかわる「魂の問題」を考えるに際して差し当たり便利だからである。もとよりこれのみが魂の問題ではない。しかし、これもまた、魂の問題なのである。大江が愛用する「悲嘆(グリーフ)」という言葉自体が、英国の精神分析学者J・ボールビーが定義する「悲哀の心理過程で経験される落胆や絶望の情緒体験」の用語なのである(12)。

 さて、主人公の女性は、カトリック作家フラナリー・オコナーを研究する大学教師である。苦悩に身悶えしつつも、彼女はカトリック教会に帰依することができない。最後に彼女はメキシコに渡り、聖女のように生きて、死ぬ。信仰を持てぬ者――それはわれわれ多くの現代人である――が、「受難」からいかにして「救済」されるのか。その探求の困難を描ききった傑作である。現代では、かつて聖職者がその役割を担った「対象喪失」からの癒しを果たすことができないという認識が示されている。大江は、この作品を振り返って、自分にとってキリスト教会は船でイメージされると語った。「自分たちが難破しそうになっている場合に、助けてくれる船というイメージ」である。「同時に、そっからどうしても逃れ出したい、〔……〕それがどうも自分と信仰を持った人との関係、あるいは教会との関係らしい。その基本形を、今後も自分としては維持したいと思っている。」(13)。ここには、教会という歴史的共同体に対する孤独な神秘主義者の憧憬告白がある。

『人生の親戚』の翌年に発表された『静かな生活』の主人公は、ハンディキャップ・パーソンを兄に持つ大学生の妹である。アメリカに長期滞在することになった両親(依存対象)との別離(「対象喪失」)を受容していく過程が描かれる。物語の最後でプールの指導員の青年に暴行されそうになったときに彼女を救出するのは、彼女が保護すべき存在であったはずの兄だった。「対象喪失」の受容という主題を描くとき、大江は常に大きな文学的達成を示す。大江文学において、魂の問題は、著者が宗教をテーマに大上段に構えた「教団もの」ではなく、むしろささやかな「家族もの」でより深く追求されている。

 大江はこれらの秀作の前に、千枚の長編『懐かしい年への手紙』を書いている。主人公のメンターたる森の隠遁者でダンテの研究家「ギー兄さん」の物語。おそらく論者自身のダンテへの親しみ方が不十分であるために、『新しい人よ眼ざめよ』では成功したブレイクの詩句の物語への一体化が、この作品では上首尾に運んでいないように感じられる。四国の森で「根拠地」を築こうとした「ギー兄さん」の受難と死が主題だが、「ギー兄さん」というかけがえのない存在を失った主人公及び関係者の「対象喪失」からの「恢復」をこそ、作者は詳細に描くべきであった。それが不徹底だからこそ、『燃えあがる緑の木』三部作で「ギー兄さん」の亡霊が蘇ってしまうのだという解釈は支持され難いであろうか。

『燃えあがる緑の木』三部作(一九九三~一九九五年)の意図について、大江は一九九七年のプリンストン大学での講演で以下のように述べた。「『燃えあがる緑の木』は、日本社会の宗教団体の教理、実践にあきたらぬ若者たちが、魂の救済を求め、混交宗教(シンクレティズム)的な新しい教会を作り出す物語です。その指導者は、学生運動の革命党派の抗争でテロリズムに加わった過去を持っていました。新しく作られた教会は社会と対立し、さらには内部抗争から分裂にいたります。そして続いて起る悲劇の辛い経験から新しい出発にいたるまでを、私は描こうとしたのでした。」(14)。この大作の最大の弱点は、教団の指導者である二代目「ギー兄さん」の死という「対象喪失」による悲哀のステージを関係者がどのように段階的に乗り越えていくのかが描かれていないことである。それゆえ、最後に描かれる教団関係者の大行進も、「リジョイス(歓びを抱け)」という言葉も、「悲哀の仕事」から逃避する「躁的防衛」として空虚にしか響かない。この作品にはイエイツを初めとする夥しい外国の文学者、思想家の言葉が引用される。この作品は、知的で教養があり、自分の魂の救済だけを求める愚かな自我主義者たちの物語である。身近な他者の苦悩に真摯にかかわろうとする普通の人間を描いた「家族もの」が与える感動がこの大作にはない(15)。主要な登場人物たちは、「魂の問題」をすべて言語化(意識化)できると考えている。この作品は、日本版ニュー・エイジ運動ともいえる「精神世界」ブームの時代にあって、作家としての卓抜な着想はあったが、一人の人間としての大江自身に切実な執筆動機がなかったとしか考えられない。

  もっとも、大江が魂の問題を描ききろうと試みたことは確かだ。大江はこれを「最後の小説」にするという決意を執筆中から明らかにしていた。刊行後、大江はスピノザを読みながら「祈り」を生活の中心においた(16)。これは、九歳の時の水車小屋での決意の実行であった。すなわち、大切なもの(小説執筆)を捨てて、信仰生活、より正確には「信仰なき信仰」生活に入るということである。しかし三年後、大江は翻意した。そして『宙返り』(一九九九年)を発表した。これは、教団内部の急進派の反社会的行為を未然に防ぐために、全ては冗談だったと転向(宙返り)した指導者が、教団の再組織化に失敗して死ぬという物語である。指導者はサイコフォビアの宗教家だが、教団旧幹部は指導者の死から逃避するため、代理対象として一人の少年「ギー」を新たな指導者に仕立てる。この作品を書くことで、大江は神秘主義と新プラトニズムを生きることを断念した(17)。

 大江が魂の問題に一つの決着を付けたのは、義兄の自殺という「喪失体験」の「悲嘆(グリーフ)」から「恢復」するために『取り替え子(チェンジリング)』(二〇〇〇年)を発表した六十五歳のことである。主人公は、自殺した義兄が残した録音テープを再生して死者と対話するが、これは「悲哀の仕事」の方法の一典型といってよい。この作品によって、大江はキリスト教から解放された。ハンディキャップ・チャイルドの誕生という運命の受容から本格的に出発した大江文学における「魂の問題」の追求は、義兄の自殺という運命の受容(心からの別れ)で終結した。苦しみに満ちた「悲哀の仕事」を、キリスト教にも心理療法家にも頼ることなく、大江は「人生の習慣」である小説を書くことで果たした。  荒井献は、マルコ福音書を詳細に分析した結果、マルコは「不信のユダをその非業の死を無視してまでゆるしに徹したイエスを描こうとしたことになろう。」と述べ、信仰なき者のキリスト教的救済可能性を提示している(18)。けれども、現在の大江にとっては、神学上のこの問題はもはや関心の外にあるだろう。

「森のフシギ」もまた同じである。死んだ魂が、肉体を離脱し、自分の木の根方に宿ってふたたび再生するという新プラトニズム的な伝説。もはや大江はこれを心底から生きてはいないのではないか。ヒロシマを大きな受難、「魂の問題」としてとらえ、信仰者も無信仰者も協同して祈るべきだと呼びかける大江健三郎の現在の目に映る世界としては、イエイツの「燃えあがる緑の木」ではなく、鳥たちがつぎつぎと空から落下してダンボール箱に詰められ、木が切り倒されて棺となり、村人の死体とともに火を放たれるという山崎佳代子の詩のイメージこそ相応しいと、筆者には思われるからだ(19)。


 【註】

1 大江健三郎『人生の習慣』岩波書店、一九九二年、十一‐十二頁。

2 大江健三郎『大江健三郎 作家自身を語る』新潮社、二〇〇七年、二〇七‐二〇八頁。

3 拙論「新約聖書学の衝撃」『遠藤周作 挑発する作家』至文堂、二〇〇八年、一三五‐一四五頁   参照。

4「史的イエス」研究の重要性については、加藤圭「史的イエスの第三研究、その輪郭と妥当性― ―史的イエスの探求は不可欠な営み」(「カトリック研究」六九号、上智大学神学会、二〇〇〇  年八月、一‐二七頁)参照。

5 大江健三郎『鎖国してはならない』講談社、二〇〇一年、二三頁。

6 野田正彰『喪の途上にて――大事故遺族の悲哀の研究』岩波書店、一九九二年、七九頁。

7 大江健三郎『個人的な体験』新潮文庫、一九八一年、二四五頁。

8 大江健三郎『人生の習慣』十四‐十五頁。

9 同右、十五‐十八頁。なお、この体験の重要性を指摘した論文に、門脇佳吉「大江文学の源泉=顕現経験とは何だったのか」(「世界」岩波書店、一九九五年七月号、二四三‐二五二頁)が ある。

10 大江健三郎『あいまいな日本の私』岩波新書、一九九五年、一二九‐一三〇頁。

11 キャスリーン・レイン『ブレイクと古代』吉村正和訳、平凡社、一九八八年参照。

12 小此木啓吾『対象喪失――悲しむということ』中公新書、一九七九年、四五頁。

13 大江健三郎『あいまいな日本の私』七一‐七九頁。

14 大江健三郎『鎖国してはならない』一八頁。

15 レインはイエイツをブレイクの「最大の弟子」と見る。イエイツの神秘思想については、島津 彬郎『W・B・イエイツとオカルティズム』平河出版社、一九八五年参照。ただし、三好みゆき「イエイツの『動揺』」(『カトリックと文化――出会い・受容・変容』中央大学出版局、二〇〇八年、四一一‐四三七頁)は、イエイツとカトリック教会との対立的一般理解を再検討している。

16 大江健三郎『大江健三郎 作家自身を語る』四一九‐四二〇頁。

17 同右、二二四‐二二五頁。

18 荒井献「信なき者の救い」(『群像特別編集 大江健三郎』講談社、一九九五年四月、五八‐六 五頁)。

19 山崎佳代子『混声合唱組曲 鳥のために』音楽之友社、二〇〇〇年。山崎佳代子『薔薇、見知らぬ国』書肆山田、二○○一年参照。


*初出:『国文学 解釈と鑑賞』二〇〇九年四月 


 遠藤は、一九七一年に『黒ん坊』を刊行した(1)。初期の遠藤が、「白い人」(一九五五年)「黄色い人」(一九五六年)に引き続き「黒い人」を著して三部作としなかったのは、日本人にとってのキリスト教をテーマとしていた遠藤に、黒人にとってのキリスト教やイスラム教、あるいはアフリカの神話世界に対する関心も知識もなかったからである。もっともこれは、遠藤がヨーロッパの白人世界にのみ関心を抱き、その植民地であったアフリカに無関心だったことを意味しない。既述のごとく、「アデンまで」に先立ち、伊達龍一郎名義で書かれた第一作が「アフリカの體臭」だったように、アフリカは大きな意味を持っていた。だがそれは、近代西洋の植民地主義を逆照射するという意味に限定されていた。

「白い人/黄色い人」という初期遠藤の問題意識は今日でも意義を失っておらず、それを踏まえて前節に引き続き本作を考察することは価値ある試みといえる。遠藤の中間小説研究は純文学作品に比べて不当なまでに手薄だが、本作に先行研究がないのは、タイトルにまとわりつく差別的語感が影響していないこともないだろう。黒人はこのテクストで、どのように表象されているのだろうか。

 遠藤が『黒ん坊』のモデルである戦国期の黒人奴隷を知ったのは、一九六〇年代半ばのことである。『沈黙』(一九六六年)執筆のために切支丹史を研究するなかで、遠藤は松田毅一『南蛮史料の発見――よみがえる信長時代』(中公新書、一九六四年)を読み、織田信長に仕えたモザンビーク出身の黒人「彌介」に興味をそそられたのである(2)。「黒人の来日だが、松田毅一教授の『南蛮史料の発見』には、さまざまの面白い逸話があって、その中に、日本にはじめて黒人がきたのは信長の時代であったことを教えてくれる。[……]この黒人の話は私の興味を甚だひくが、あまり人も知らぬようだし、今日まで小説などでも描かれていないのではないだろうか。」と遠藤は記している(3)。次の文章もある。「私はかつて必要あって、信長の頃に日本にやってきた南蛮宣教師の通信文をかなり読んだが、宣教師たちは秀吉や家康よりもはるかに信長を(彼等の功利的な意味もあるが)激賞している。/信長が生れて初めて黒人を見たエピソードなど、はなはだ愉快である。/信長が京都にいる時、宣教師が謁見に出かけたが、その時、この宣教師の従者に一人の黒人がまじっていた。(おそらく日本で最初に来た黒人であろう)」(4)。これらの文章から、遠藤が史料に現れた黒人に、強い印象を受けたことがうかがわれる。

 それまでに、遠藤は黒人一般とどのような関わりがあったのだろうか。最初はターザン映画だった(5)。この映画が、黒人を野蛮な存在として描き出していたことは今や常識といってよい。現実の黒人を遠藤が見たのは、敗戦後の占領軍兵士だった。大連で幼少時代を過ごした遠藤にとって、白人(ロシア人)は珍しくなかったが、黒人の姿はそこでは見られなかったのである。黒人との本格的な出会いは、留学のために横浜港から乗船したフランス船四等船室で一緒になった北アフリカの植民地兵であった。同船した井上洋治は青い顔で「クロンボがいる」。「俺たち、クロンボと一緒だぞ」と言い(6)、見送りの柴田錬三郎は、「お前、神戸に行くまでに、あいつ等に食われてしまうぞ」と言った(7)。一九五〇年の出来事を一九六七年に回想したものであるが、「クロンボ」の食人幻想が、半ば冗談としてこの時期まで語られたことがわかる。「戦後まもないその時まで我々日本人は米国の進駐軍にまじっている黒人のほか黒人を知らなかったし、まして褐色の白い入墨をしたアフリカ人など見たことはなかった。柴田さんの言葉はとりもなおさず私たちの気持そのものだった」と遠藤は記している。だが、同室で過ごすうちに気心が知れ、彼らに対する認識は大きく訂正されることになったのは既述のとおりである。ちなみに、単行本『黒ん坊』カヴァーの題字は柴田である。遠藤は二〇年前の柴田の言葉を覚えており、この小説は柴田への遅い返礼でもあったのだ。なお、装幀挿画は秋野卓美だが、別の画家による角川文庫版、遠藤周作文庫版と異なり、表紙に黒人の絵はない(8)。

 次に遠藤が接したのは、リヨンの下宿にいた北アフリカ出身の黒人学生ポーランだった。大学にも黒人学生がいた。遠藤は前者をモデルにして短篇「コウリッジ館」(一九五五年)を書き、後者からは、評論「有色人種と白色人種」(一九五六年)を書いた。小説と評論で、白人世界に置かれた黒人の現実を浮き彫りにしたのである。つまり、戦国時代の黒人と出会う以前に、遠藤には黒人と、かなり長いかかわりがあったのである。頭の片隅には、常に黒人の存在があったと思われる。フランス本国の黒人は、自分の目で見て知っていた。しかし、日本国内の黒人についての知識は乏しかった。それゆえ、日本史の重要な時期に、キリスト教宣教師が連れてきた黒人がいた事実を知り、強い興味を持ったのであろう。

『黒ん坊』が連載された一九七〇年には、大阪で日本万国博覧会が開催されている。遠藤は、坂田寛夫、三浦朱門とともに、「目と手――人間の発見」というテーマを掲げたキリスト教館のプロデューサーを務め、この国家的プロジェクトに深く関わった。カトリック教会とプロテスタントが合同で行う事業であることに共感したからであった。日本万国博覧会は、一九六四年の東京オリンピックに継ぐ、アジア初の博覧会であり、日本を含む世界七七ヶ国が参加した。アフリカからも、ザンビア、アルジェリア、エチオピア、象牙海岸(現コートジボワール)、タンザニア、ガーナ、マダガスカル、ウガンダ、ガボン、中央アフリカ、ナイジェリア、モーリシャス、シエラレオネの諸国が参加している(9)。万博のテーマが「人類の進歩と調和」であったように、科学技術とともに世界は進歩しており、それが人類を幸福にすると当時の日本人は考えていた。日本は「先進国」の一員であり、アフリカは明らかに「後進国」だったが、遠いアフリカが、一気に身近に感じられる機会ではあった。このイベントへの関与が遠藤を刺激し、本作の執筆を強く促したのかもしれない。

 遠藤はこの作品を、良くいえばドタバタ喜劇的な、悪くいえば低俗でくだらない通俗小説として書いた。江戸の戯作文学に見られる笑いの文学伝統に、遠藤は親近感を抱いており、世の「ユーモア文学」という言葉にも「クソマジメな作品にたいして劣っているという感じがひそんでいる」と反撥していた(10)。したがって、笑いの文学を書こうというのが積極的な理由だったと考えられる。外国人の内面を描くことに畏れを感じていたので、黒人の内面を描くことに困難を覚えたことも、消極的理由としてはあっただろう(11)。

 第一章「異形の者」で、宣教師ヴァリニャーノの手で信長の前に参上したツンパ・フランソワ・アシジ・ステファノ・オウグスチーヌは、芸を求められる。「小鼓を手にとると黒人は子供のように嬉しそうに眺め、指で二、三度、音をたしかててためしてから、急に腰を前後にふっておどりはじめた。意味のわからぬ言葉で唄を歌う」。「ブー、ブー、ブー/プー、プー、プー」「高く、低く、強く、弱く、リズムをつけて、得意満面の彼は、屁をもって音を奏していたのである」。演劇的に誇張した所作が描かれるばかりで、作者は彼の内面を描かない。ツンパは、終始一貫、情けなく、ぐうたらで、滑稽で、笑われる対象として描かれている。「このツンパは気が弱く、臆病で、ブンガ族の集落にいた時も、狩りでは役に立たぬゆえ、奴隷商人に売られたのである。たらふく食べてぐうぐう眠り、陽気に唄を歌うことが彼の夢であった」。故郷でも落ちこぼれだったという設定である。

「笑われる他者」としての白人を、遠藤は『黒ん坊』の一一年前に書いている。評価が高い『おバカさん』(一九五九年)がそれである。主人公ガストンは、ナポレオンの血を引くフランス人という設定だが、子供のように純粋なところがあり、ばかにされながらも、愛すべき人物として描かれている。ガストンが子犬を連れている代わりに、ツンパは象を従えている。彼らが笑われるのは、自分が投げ込まれた文化のコードを子供か愚者のように侵犯するからである。「大きな子供」のようなところが彼らにはある。違いはただ、白人か黒人かという相違である。そして、ガストンもツンパも、カトリック信徒なのである。

 ツンパは「総身黒うて牛のごとくだが、心は雪の名のごとく白い」とされている(第三章「野望の人々」)。近代という時代が定式化した図式は、白人が差別する側で、黒人は差別される側であった。また、ガストンがやってくる日本は白人世界との戦争に敗れて間もない東京だが、ツンパがやってくるのは戦国時代の日本である。ガストンは人間として遇されているが、ツンパはほとんど動物として扱われている。第七章「証拠」では、ツンパは文字通り「見世物」になる。笑う側は文明に属し、笑われる側は野蛮に属している。たといそれが言語的虚構にすぎないとしても、実際にそれが作動する歴史的現実がある。

 読者が白人ガストンを笑う場合に感ずる心理的優越感と、黒人ツンパに笑うと場合のそれとは同じではあるまい。ガストンは、白人であるにもかかわらず滑稽なのであり、ツンパは黒人であるがゆえに滑稽なのではないか。外国映画や小説などに登場する黒人の表象が、劣等の刻印を押されたステロタイプなものであり、そうした白人のまなざしを、われわれも内面化してきたからである。それが「有色の帝国」(12)の残存意識に繋がることを、今日のわれわれは気づいている。裏を返せば、作者も含めて当時の日本人は、それが自覚されていなかったということではないだろうか。しかし、本当にそうなのか。

 遠藤は人種問題を我がこととして理解している作家であり、発表の舞台となった『サンデー毎日』も、リベラルな週刊誌であった。『黒ん坊』が連載され、単行本化され、二年後には文庫化までされたのは、作者も編集者も読者も批評家も、要するに当時の日本人全体が、それを全く問題視しなかったことを証している。『黒坊物語』の題で刊行されたこともある「ちびくろサンボ」が黒人蔑視とされ、各社一斉に絶版となるのは一九八八年である(現在は入手可能)。このできごとの社会的背景としては、日本国首相や政調会長の発言に対するアメリカ黒人議員連盟の抗議もあったと指摘されている(13)。

 角川文庫版の解説者は、ドイツ文学者小松伸六である。彼には「ドイツ文学におけるフモール」(『早稲田文学』一九七七年一月)があるが、『黒ん坊』の笑いに関する比較文学的考察はない。彼はこの作品を「奇想天外な時代小説」といい、「二十世紀の日本でも、田舎に黒人があらわれたら、やはり目につくのではないだろうか。それは人種差別というようなものでなく、くろいもんだなあ、世界は広いんだなあ、といった素朴な驚きである」と記す。トーマス・マンやナチスに抵抗したケストナーの翻訳がある人だが、小松はこの作品に登場するルイス・フロイスやオルガンチーノ神父を「毛唐」と記していて驚かされる。小松がいうとおり、ツンパが「善良で無垢な自然児という設定である」ことは確かだが、黒人をそのように表象することには、西洋社会の長い伝統がある。小松の解説は、黒人をとりまく歴史的文脈を一切省みないもので、啓発されるものがない。

『黒ん坊』の解説を書いた三年前、小松は遠藤の小説「協奏曲」の文庫版解説を執筆しているが、ここで彼は驚くようなことを記している。イタリア人と結婚した小松の次女は、在住する南チロル(旧オーストリア領、現イタリア領特別地区ビピティノ)で、現地の子供たちからよく唾をかけられたというのである。また、一九六〇年代の終わりに小松自身がミュンヘン大学構内で「アジア人、下宿おことわり」というビラを見たことがあったという(14)。西洋白人世界の人種主義(有色人差別)について、そのような体験を持つ人であるので、『黒ん坊』に関する記述は、ことさら遺憾に思われるのである。もっとも小松は「単一民族、単一言語の日本ではあまりないことだが」と記しているので、西洋の人種主義については理解していても、日本の人種主義に対しては無自覚だったのかもしれない。「単一民族、単一言語」であるがゆえに、有徴の者に対する排除は苛酷であるとも考えられるからである。  遠藤に評論「有色人種と白色人種」があることはすでに述べた。フランス留学体験を踏まえ、白人世界に置かれた黒人のリアルな状況を冷静に観察して分析を加え、そこから有色人種たる日本人の在るべき姿について真摯な思索を展開している。実は小松は「協奏曲」解説で、遠藤のこの論考にも触れていた。彼は遠藤のフランス船内で受けた差別体験に触れ、ヨーロッパには「こんな苛酷な人種差別があった。いや、多分、現在でもあるだろう」と記しているのである。

 人種主義に関するそのような文章を書いた作家であるにもかかわらず、遠藤が黒人を笑われる存在として描いたのはなぜなのか。ここでわれわれは、ツンパだけが笑われる対象なのではなく、秀吉のような権力者も、読者の笑いを誘う存在として描かれていることに着目しなければならない。

『黒ん坊』では、荒唐無稽の哄笑とスカトロジーが全編に溢れている。これらは遠藤の純文学系列の作品群においては徹底的に抑圧されている。当時、遠藤は『沈黙』に続く純文学小説として、『死海のほとり』に結実する連作を執筆していた。新約聖書の福音書でイエスが一度も笑わないように、『死海のほとり』は笑いの欠落した深刻な小説である。さきに記したとおり、笑いの文学的伝統への親しみが遠藤にはあったが、キリスト教と笑いとの親和性は薄いと考えていたようである(15)。「日頃、聖書に親しんでいるはずのキリスト者自身が、聖書のユーモアについて、ほとんど知るところがないのが実情である」という宮田光雄の言葉は、遠藤にもあてはまるようだ(16)。純文学作品で抑圧された哄笑を、中間小説で解放したいと考えたのではないか。『黒ん坊』の笑いの世界は、『死海のほとり』執筆が強いる緊張による硬直から、精神の柔軟性を護ってくれるだろうから。

 さて、荒唐無稽の哄笑とスカトロジーとはいかなるものか、ツンパが信長の前で放屁しながら踊り狂う第一章から、象が肥溜から人糞を吸い上げ、秀吉ら五〇騎の兵に吹きかける最終章のスペクタクルまで、具体例を拾い出すことは容易い。第一章で、槍術の達人一柳俊之介が、三年の修行の末に得た免許皆伝の封書に「心なき、身にもくささは知られけり/湯気立つ糞の秋の夕暮」とあるのは序の口である。豊臣秀吉を寂光が訪ねる場面が第六章「覇者」にある。そこで秀吉の漢詩(狂詩)が三首紹介される。句点を補って順に示せば「道 道 道 脱糞。無紙 以手 拭。惜之 而食之」。「欲垂臨雪隠。雪隠中有人。咳払尚未出。幾度吾身震」。「椀椀椀椀亦椀椀。亦亦椀椀亦椀椀。夜暗何匹頓不分。始終只聞椀椀椀」となる(送り仮名は省略)。秀吉の呆れた「漢詩」に読者は笑うことになる。第四章「密使」では、桑実寺に残された寂光の書が紹介される。曰く「老翁 飲酒 酔死。老婆 驚愕 頓死」と。これを作者は「みごとな字であり、みごとな詩である」と評するのである。スカトロジーと狂詩といえば、蜀山人大田南畝にも『通詩選笑知』に「屁臭」と題する狂詩がある。曰く「一夕燗曝。便為腹張客。不知透屁音。但有遺失跡」と(17)。

 遠藤のスカトロジーに、江戸の滑稽文学との親和性を見るのは容易である。旧制中学時代の愛読書だった十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも、初篇の冒頭間もない箇所に以下の狂詩がある。「雖非亡命可奈何。借金不報㩮尻過。夫居本貫掛乞衆。将是川向成干戈」(18)。戦争が始まり、弥次喜多的人間を国家が許さなくなったころ、この本はふたたび輝きを増して遠藤の前に現れた。あるとき「自分は戦争中、日本人を信じたいために膝栗毛を読みました」と渡辺一夫から聞いた遠藤は、我が意を得たりと思った(19)。

 その渡辺が戦争中に訳したフランソワ・ラブレー「ガルガンチュワとパンタグリュエル 第一之書ガルガンチユワ物語」第一三章の「短詩」は以下のごとくである。「先日脱糞痛感。未払臀部借財。同香而非同香。濛気芬々充満。何人許諾欣然。希携行我佳人。善哉善哉。欣然塞小用孔。野人常不習礼。佳人敢弄繊指。得探我峡間穴。善哉善哉」(20)。訳者略註で渡辺は「全くの戯訳」と記すが、遠藤の狂詩は、『東海道中膝栗毛』を介して戦時中の苦衷を肝胆相照らした渡辺への、返礼でもあったはずである。渡辺訳ラブレーの笑いは「心の底から人生を肯定する」エネルギーに満ちた笑いだと、遠藤は考えていた。それは近代文学が好んだ「嗤笑や風刺の笑い」と違い、人間を孤独をより深めるものではなく、疎外された人間と世界との結びつきを回復させるものなのである(21)。

『東海道中膝栗毛』には、女性の尊厳を傷つける記述が多いが、全編に溢れるスカトロジー感覚と、そこから生じる笑いが特徴である。江戸のスカトロジーと笑いは、遠藤が帰依したキリスト教の倫理におよそ制約されぬ、端的に卑俗で下品な世界だった(22)。その下品な笑いの世界、「オコ(烏滸)」の世界に、近代文学が切り捨てた可能性があると遠藤は考えていた。「今の日本の純文学雑誌にはオコの文学伝統をまったく拒絶はしなくても軽べつするような気風が巖としてある」(23)のを遠藤は腹立たしく思っていた。

 講談研究家田邊孝治は、遠藤周作文庫版解説で、遠藤が戯作者であり、同時に「大きな苦悩を秘めた現代の文学者である」と述べ「氏の内部には、この二者が奇妙な形で、しかし実に巧妙に混在してゐるとしか思へない」(24)とする。これは遠藤文学全体をロマネスク教会建築に喩えてみればよい。聖人がいる重厚な正面が純文学系列の作品であり、奇妙な動物や滑稽な身振りの世俗的人物彫刻が見られる廻廊が中間小説である。教会が正面だけでできていないように、遠藤文学全体は、多くの中間小説で支えられている。したがって、中間小説の重要性に無自覚では、遠藤文学の全貌を明らかにすることはできない。

 さて、連載当時の日本は、今日とは異なり、都市部でも田畑には肥溜があり、家庭用汲取式便所も多く、列車の便所も新幹線以外は線路に直接撒く開放式で、糞尿に関する笑話は誰にも身近だった。しかるべき時と場所をわきまえない放屁や脱糞は、場違いなものゆえ笑いを誘う。遠藤はカトリック信徒であったので、神学的知見を参照すると、スカトロジーという問題設定が可能なのは、理性と肉体を持つ人間においてのみであることが浮かび上がる。トマス=カトリック的世界観に照らせば、天使は肉体を欠いた純粋に理性的な存在であり、動物は肉体を持つが理性を持たない存在である。自然界の動物には、場をわきまえた排便はありえず、放屁に羞恥心を覚えることもない。また、スカトロジーは、人間の天使的要素ではなく、動物的要素を強調する思想でもある。この作品においては、ともすれば自分を天使と同一視する「天使主義的虚偽」(25)に陥りがちな近代的人間、それを牽制のための文学的手法として、スカトロジーが機能している。そもそも、神学的には、動物という類のなかに、理性を有する動物(人間)と、理性を持たない動物(獣)という種があると考えるべきなのである(26)。このように考えると、作者がどこまで意図していたかは不明だが、スカトロジーをもってこのテクストが表現しようとしているものの一つは、動物を人間以下の存在とする西洋的世界認識への揺さぶりとも解釈できよう。

 前節で人間と動物について若干を述べたが、神―天使―人間―動物、というキリスト教的階層構造の図式を参照することは、遠藤文学を考える上で有効である。本作では、神―天使の部分が隠されており、人間と動物との関係が顕在化している。人間のなかに、近代西洋はさらに、白人男性―白人女性―有色人男性―有色人女性という階層を設けた。これはそのまま権力構造となっている。ツンパは、動物に近い存在として造形されているが、それは即ツンパが「野蛮」であるということを必ずしも意味しない。遠藤は動物と人間の関係を、単純な上下関係でとらえてはいないからである。

 遠藤はキリスト教徒ゆえに、神―天使―人間(白人―黄色人、男性―女性)―動物という西洋的序列意識に違和感を抱いた。そこで、「月光のドミナ」では、強い白人女性と弱い日本人男性との権力関係を描き、「男と猿と」(一九六〇年)では、労働者階層と知的障害者の白人男性、日本人留学生、公園の猿を登場させて、それぞれの流動的な権力関係を描いた(27)。そして『黒ん坊』の後には、『彼の生きかた』(一九七五年)で、西洋の動物観とは根本的に異なる、日本人とニホンザルとの濃密な関係を描き出す(28)。

 つまり、ツンパと周囲の日本人たちとの関係も、丁寧に分析する必要があるのだ。ツンパと上下関係ではなく横の関係を持つのは、身寄りのない少年(乙吉)、女性(雪)、そして動物(象)である。日本人のなかにも、織田信長のような権力者が頂点にいて、底辺には無名者の群がいる。ツンパはこの作品のなかで、日本人一般から笑われる存在なのではない。彼を虐げるのは権力者であり、登場人物たちは、彼と同列か、ほとんど上下関係を感じさせない立場なのである。ツンパは確かに「笑われる他者」ではあるが、ただひたすら笑われるだけの存在ではない。読み進めるうちに理解されてくるが、彼は、共感と友愛の対象でもある。ツンパは「われわれと違う」存在から「われわれと同じ」存在へと変容していく。それゆえ、第一節での主張は次のように言い直さねばならない。この小説は、一見すると、白人を上に、そして黒人を下にみる近代西洋の支配的な語りを無批判にミメーシスしているかに見えるが、徐々にそれが対抗的な語りになっていくのである、と。

「江戸時代はじめの権力者は、秀吉の猿や諸大名の猛犬のような好みが強かったようだ。[……]徳川家康は、オランダ人から虎の子とインコとを贈られて、これを江戸にいるふたりの孫、のちの家光とその弟に遣わした。[……]ペットになりにくいものを飼うのは、海外の地からの入手品のなかでも生きものは権力を誇示するのにとくに有効だったからでもあり、また常人には畏れられる動物を飼い馴らすことの力を自他ともに明らかにするからでもあった」と塚本学は記している(29)。信長が彌介を側に置いた理由にも、黒人=動物による権力誇示の意味合いがあったであろう。

 本作では、ツンパが属する世界で、人間と動物との境界が曖昧になる。第八章「怒れ、黒ん坊」には、いつしかツンパの仲間となる忍者佐助が、ツンパが「黒豹のような身軽さ」で岩から岩へと渓流を跳ぶ姿に驚く場面がある。「南の阿弗利加国など知らぬ佐助には、仲間と草原を走り、断崖を駆けたツンパの「幼年時代を想像しえない。食糧となる獣や鳥を追ってジャングルに小屋をつくって一夜をあかす黒人の生活を知らない。佐助が山での修行によって得たものもツンパは狩や毎日の生活から学んでいたのである」。未開で野蛮なアフリカというステロタイプが再表象されているとも見られるが、ツンパの運動神経に感心する佐助が、「犬男」と別称されていることは見逃せない。佐助の師は動物なのであり、ここでは通常考えられる立場が転倒している。動物的であることが、佐助がツンパに賛嘆する根拠となる。そもそも動物は、人間以上に誇り高い存在なのではないだろうか。  図式的にいえば、遠藤は、人間と神との関係を純文学作品で追求し、人間と動物との関係を中間小説で追求した。カトリック作家と神をモチーフにした『死海のほとり』は『黒ん坊』と繋がり、霊長類学者とニホンザルをモチーフにした『彼の生きかた』にも繋がっている。『彼の生きかた』で遠藤は、「同伴者イエス」(30)ならぬ「動物の同伴者」(31)としての人間を描き出し、神―人間―動物を捉える透徹したまなざしを獲得するのである。

『黒ん坊』というタイトルは、読者を身構えさせる。黒人に対する社会的まなざしが変化し、この言葉自体がスティグマ化されているからである。しかし「くろぼう」「くろんぼう」「くろんぼ」といった言葉自体、長い歴史を背負っており、『日葡辞書』や節用集、『倭訓栞』を参照しても、その示すところは現代とは大いに異なるのである(32)。

 この作品が黒人の尊厳を傷つける作品でないとは言い切れない。人種問題の繊細さに理解がある作家が、細心の注意を払って書いた作品には見えないからだ。だが、単純な黒人蔑視だけの小説ともいえない。『黒ん坊』は、研究者にさまざまな視点からの熟考を迫り、容易な合理化を拒むテクストなのである。本稿はその糸口となるべき一考察にすぎない。

 生涯をかけて遠藤が取り組んだ、日本人にわかるキリスト教の探求とは、西洋的「普遍」の価値観を相対化することでもあり、そこには感受性の西洋化(=植民地化)への抵抗も潜んでいた。西洋文化が持つ強力な同化作用への抵抗は、本作では、江戸のスカトロジーを介して、肉体を持つ動物という人間認識の強調と結びついて表現された。人間と動物の序列すら流動的なこの世界では、驚くべきことに、世俗的な序列も、肌色の違いによる差別も、「神」の下での人間がそうであるように、完全にその意味を喪失するのである。


【註】

1 初出は『サンデー毎日』一九七〇年六月二一日号―一九七一年三月二八日号。一九七一年五月に毎日新聞社から単行本化。一九七三年六月に角川文庫、一九七五年二月に講談社遠藤周作文庫版刊行。新旧『遠藤周作文学全集』(新潮社)には未収録。本文は、冒頭の「天正八年」が同九年に遠藤周作文庫版で変更されたほかは、踊り字の表記など些細な異同があるのみで、文章の大幅な変更はない。

2 彌介については藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店、二〇〇五年、第一章に詳しい。「彌介」の名は『家忠日記』初出という。

3 遠藤周作「遠くから来た人」『異邦人の立場から』日本書籍、一九七九年、二八六―二八七頁。初出は『芸術生活』一九六四年一二月。

4 遠藤周作『ぐうたら人間学』講談社、一九七二年、五五―五六頁。これは『夕刊フジ』(一九七二年一月―五月の連載「狐狸庵閑話」をまとめたものである。

5 遠藤周作「ぼくたちの洋行」『ぼくたちの洋行』講談社、一九七五年、三八―三九頁。初出は『小説新潮』一九六七年一〇月。ターザン映画における表象のアフリカについては、藤田前掲書、第四章第三節が詳細をきわめている。

6 同右、三五頁。井上は当時カルメル会修道士。司祭となり遠藤と終生親しかった。

7 同右、三六頁。なお『落第坊主の履歴書』(文春文庫、一九九三年、一三九頁)、及び『忘れがたい場所がある』(光文社文庫、二〇〇六年、八九頁)にも同種の記述がある。慶應義塾大学卒業の柴田は「イエスの裔」で、一九五二年に直木賞を受賞する。

8 毎日新聞社版は一八枚の挿画を収録する。ステロタイプな黒人の描き方を、秋山はどの画でもしていない。黒人を描くのは六枚。二枚は遠景か後ろ姿。戦災孤児一六人の笑顔に囲まれたツンパの全身を描いた二〇七頁の画はとりわけ印象的である。

9『日本万国博覧会公式ガイド』日本万国博覧会協会、一九六九年参照。

10 遠藤周作「笑いの文学よ、起れ」SEZ13、三六〇頁。初出は『東京新聞』一九六五年九月一六、一七日。

11 遠藤周作「外国人を書く」SEZ13、三二七―三二九頁。初出は『文學界』一九八二年一月。「小説で外国人の宣教師を登場させたことが再三あった。しかしその時、小心な私はいつもどこまで外国人がわかるかという不安がつきまとっていた」。

12 小熊英二『<日本人>の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』新曜社、一九九八年、六六一―六六七頁参照。小熊は、有色人種の植民帝国だった日本を「有色の帝国」という言葉で概念化した。白人への憧れと反撥というアンビヴァレントな感情は、現代にも残存すると小熊は指摘している。

13 杉尾敏明・棚橋美代子『焼かれた「ちびくろサンボ」――人種差別と表現・教育の自由』青木書店、一九九二年、三四六頁。本書は焚書から絶版に至る詳細を記す。

14 小松伸六「解説」遠藤周作『協奏曲』講談社文庫、一九七九年、二四四―二四五頁。

15 小川国夫、加賀乙彦、高橋たか子といったカトリック作家の作品にも、笑いの要素は乏しく、随筆等でも、キリスト教と笑いを結びつける思索は見当たらない。

16 宮田光雄『キリスト教と笑い』岩波新書、一九九二年、七二頁。

17『『大田南畝全集』第一巻、岩波書店、一九八五年、四一六―四一七頁。永井義男『江戸の糞尿学』作品社、二〇一六年、一二一頁に教示された。

18『新編日本古典文学全集81 東海道中膝栗毛』小学館、一九九五年、五二頁。

19 遠藤周作「私の『膝栗毛』」SEZ13、二三九頁。初出は『日本古典文学全集』48 月報、小学館、一九七五年。遠藤は中学校の国語教師からこの作品を教えられた。

20 フランソワ・ラブレー『第一之書ガルガンチュワ物語』渡辺一夫訳、岩波文庫、一九七三年、八九―九一頁。同書の単行本初版刊行は戦時下の一九四三年である。

21「笑いの文学よ、起れ」SEZ13、三六一―三六二頁。

22 遠藤が深い関心を抱いたマルキ・ド・サドにもスカトロジーはあるが、無神論者サドの場合は、カトリシズムとの鋭い緊張関係を抜きにこれを考えることはできない。

23 前掲「笑いの文学よ、起れ」SEZ13、三六〇頁。

24 田邊孝治「戯作者狐狸庵――解説」『遠藤周作文庫・黒ん坊』講談社、一九七五年、四八七頁。この解説で講談本と本作との関連に踏み込んでいないのは遺憾である。

25 モーティン・アドラー『天使とわれら』稲垣良典訳、講談社学術文庫、一九九七年、第四章参照。人間は人間を語りながら、実は天使について語り、それに気づかない。

26 稲垣良典『天使論序説』講談社学術文庫、一九九六年、一八三頁。稲垣がこの区別を、生物学的分類ではなく哲学的分類として語っていることに注意が必要である。

27 第四章第一節及び第九章第一節参照。

28 第九章第二節参照。

29 塚本学『江戸時代人と動物』日本エディタースクール出版部、一九九五年、二一九―二二〇頁。生類憐令など、近世日本人と動物との関係には興味深いものがある。

30「同伴者イエス」への私の考察は、第九章第四節参照。『死海のほとり』については、第八章第一節も参照。

31『死海のほとり』での同伴者イエスの幻影と、『彼の生きかた』での猿を従えた主人公との照応については、第九章第三節参照。

32 藤田前掲書、一八―一九頁。四八―四九頁。六〇―六二頁。「黒坊」が意味する範囲は時代により変化し、安土桃山時代と江戸時代でも異なっている。


*初出:『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛・辻邦生との比較において明らかにされた、異文化理解と対決の諸相』関西学院大学出版会、2017年